ひめゆりの塔&ひめゆり平和祈念資料館:戦争の悲惨さと平和の大切さを発信する沖縄戦の慰霊碑

歴史

第2次世界大戦において、国内で最も激しい地上戦を経験した沖縄本島南部。糸満市伊原にある慰霊碑「ひめゆりの塔」と「ひめゆり平和祈念資料館」は、看護要員として戦場に動員された女学生の悲惨な体験を伝えることで、命の尊さと平和の大切さを発信し続けている。

病院壕跡に立つ、女学生のための慰霊碑

ひめゆりの塔の「ひめゆり」は、沖縄県立第一高等女学校(略称:一高女)と沖縄師範学校女子部(略称:女師)の2校の愛称で、校友会誌の名に由来する。元々、前者の誌名は『おとひめ』、後者は『白百合』だったが、1916(大正5)年に校舎を共有する併設校になったことで、後に一冊にまとめて『姫百合』としたという。戦前、那覇市安里(当時は真和志村安里)にあった両校は、沖縄全島から優秀な女子が集まる名門校だった。在校生や卒業生にとって「ひめゆり」の響きは、誇り高きものであっただろう。

第2次世界大戦の沖縄戦で、ひめゆり学徒は看護要員として陸軍病院に動員され、過酷な労働を強いられる。その末に、多くの尊い命が失われたのだ。ひめゆりの塔が立つのは、沖縄本島南端に位置する糸満市の「伊原第三外科壕(ごう)」跡。米軍の攻撃によって、ガマ(沖縄の方言で「洞窟」のこと)に隠れていた約80人が亡くなった場所だ。その中には、ひめゆりの生徒と教師42人が含まれている。

伊原第三外科壕跡(ガマ)の周りに慰霊碑が立つ
伊原第三外科壕跡(ガマ)の周りに慰霊碑が立つ

1946年に最初に建立された「ひめゆりの塔」。両校の愛称は戦前まで「姫百合」と漢字で書いたが、戦後にひらがな表記を使われるようになった
1946年に最初に建立された「ひめゆりの塔」。両校の愛称は戦前まで「姫百合」だったが、戦後にひらがな表記が使われるようになった

ひめゆりの塔の傍らには「ひめゆり平和祈念資料館」がある。女師・一高女は戦災で全焼し、廃校となってしまったが、資料館の建物はその校舎を模したもの。館内では、当時の学校生活を伝える写真や資料、病院壕を再現したジオラマ、生存者からのメッセージなどを展示。「ひめゆり」は現在、戦争の悲惨さや命の尊さ、平和の大切さを伝える響きとして日本中で知られている。

1989年6月23日に開館した「ひめゆり平和祈念資料館」。写真中央に見える美しい中庭は、亡くなった生徒と教師にささげられている
1989年に開館した「ひめゆり平和祈念資料館」。写真中央に見える美しい中庭は、亡くなった生徒と教師にささげられている

青春の日々から、看護要員として戦場へ

資料館のロビーには、沖縄戦が始まる前年の1944(昭和19)3月、修了式の日に撮影した写真が掲げられている。すでに戦時下でありながら、生徒の顔には笑みがあふれ、明るい未来を感じさせるものだ。しかし翌年、ひめゆりの校舎で卒業式は開かれることはなかった。

ロビーの写真。希望に満ちあふれた女学生の顔が印象的だ
希望に満ちあふれた女学生の顔が印象的な資料館ロビーの写真

展示室は、女師・一高女での学園生活を伝える写真やイラストから始まる。誰もが経験する学生生活を垣間見ることで、彼女らに押し寄せた悲劇が、自分ごととして深く胸に刺さる
展示室は、女師・一高女での学園生活を伝える写真やイラストから始まる。誰もが経験する学生生活を垣間見ることで、彼女らに押し寄せた悲劇が、自分ごととして深く胸に刺さる

45年の卒業式直前の3月23日、米軍による沖縄本島への爆撃が本格化した。その日の深夜、15~19歳のひめゆり学徒222人は教師18人に引率され、暗闇にまぎれて那覇から南西5キロにある南風原(はえばる)の陸軍病院へと向かう。生徒たちは、赤十字の旗の下にある安全な建物で看護にあたると考えていたというが、実際は陸軍病院とは名ばかりで、丘の斜面に掘った横穴に2段ベッドを並べただけの施設だった。

4月1日には米軍が沖縄本島に上陸。前線から負傷者が次々と送られてくる。ひめゆり学徒は負傷者の看護のほか、食料や水の運搬、排せつ物の処理に加え、死体の埋葬作業にも携わった。食事を運ぶ際などには、砲弾が飛び交う穴の外に出なくてはならない。爆撃音におびえながら、重い食糧や水をこぼさないよう慎重に運び、悪臭の漂う中で昼夜を問わず働き続けたという。

看護活動を伝える第二展示室「ひめゆりの戦場」。左は南風原にあった病院壕のジオラマ。こうした横穴が40近くあったという
看護活動を伝える第二展示室「ひめゆりの戦場」。左は南風原にあった病院壕のジオラマ。こうした横穴が40近くあったという

南部の激戦地で奪われた多くの命

米軍は南北に長い沖縄本島を分断するため、中部から占領。そこから日本軍司令部が置かれる那覇・首里城に向かって南進した。5月下旬、米軍が首里に近づくと、陸軍病院に南部撤退命令が下される。ひめゆり学徒らも、歩ける患者と共に沖縄南端の糸満市方面へと向かった。伊原付近はガマが多く、陸軍病院は6つのガマに分散したが、医薬品などは底をついており、すでに病院としての機能は停止していた。

そして、米軍が迫った6月18日、ひめゆり学徒隊に解散命令が出される。まだ10代の女学生が、「自分の判断で行動しろ」と戦場に放り出されたのだ。「鬼畜米英」と教育された生徒らは、捕虜になることを最も恐れ、行くあてもなく木の茂みや岩陰に隠れながら海岸へと向かい、砲弾に倒れる者が続出した。「ひめゆり学徒隊散華の跡」の碑が残る荒崎海岸では、米軍の銃撃でパニックとなった教師が手榴弾を爆発させ、生徒と共に自決したという。

沖縄戦における、ひめゆり学徒と引率教師の犠牲者は136人。このうち9割近い117人は解散命令後に亡くなっており、南部での戦闘の激しさを物語っている。

解散命令後の悲劇を、生存者の証言や米軍のフィルムで伝える第三展示室
解散命令後の悲劇を、生存者の証言や米軍のフィルムで伝える第三展示室

生存者の証言が並ぶ第四展示室。壁には、沖縄戦で命を落とした生徒と教師の写真が
生存者の証言が並ぶ第四展示室。壁には、沖縄戦で命を落とした生徒と教師の写真が

元ひめゆり学徒の苦悩と決意

戦後、女師・一高女があった真和志村の人々は、米軍から伊原の東隣にある米須地区に移住を命じられる。当時の真和志村村長で、ひめゆりの遺族だった金城和信氏を中心に、1946年に遺骨収集が始まり、納骨堂の「魂魄の塔」(糸満市米須)や「ひめゆりの塔」を建立した。

ひめゆり学徒の悲劇は米軍の収容所内で語られ、広まっていったという。それを伝え聞いた沖縄出身の作家・石野径一郎が小説『ひめゆりの塔』を執筆し、53年に映画化された。大ヒットを記録したことで、映画は何度もリメークされ、ひめゆりの名は全国的に知られていく。

両校の卒業生は48年に「ひめゆり同窓会」を設立したが、89年にひめゆり平和祈念資料館を開館するまでは40年もの月日が掛かっている。生き残ったひめゆり学徒は「友だちは死んで、自分だけが生き残ってしまった」といった後悔や葛藤を抱え続け、公に戦争体験を語ることを躊躇する人も少なくなかった。60歳を迎える頃にようやく、亡くなった学友のために、戦争の恐ろしさや平和の大切さを後世に伝えねばと思えるようになったそうだ。

第五展示室には「私たちは一人ひとりの体験をとおして知った戦争の実体を語り続けます」という言葉が、大きく記されている。

生き残ったひめゆり学徒の活動や、決意の言葉の展示
生き残ったひめゆり学徒の活動や、決意の言葉の展示

ひめゆりの塔の周りには、犠牲者に祈りをささげる空間が広がっている
ひめゆりの塔の周りには、犠牲者に祈りをささげる空間が広がっている

ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館

  • 住所:沖縄県糸満市字伊原671-1
  • 開館時間:午前9時~午後5時25分(入館は午後5時まで)
  • 休館日:年中無休
  • 入館料:大人450円、高校生250円、小・中学生150円

取材・文・写真=ニッポンドットコム編集部

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