日韓1300年を刻む「出世明神」高麗神社:古代高句麗の夢を継ぐ━埼玉・日高市

地域 歴史

埼玉県日高市に鎮座する高麗神社は、単なる古社ではない。そこには、約1300年前に朝鮮半島から渡来した人々の壮大な物語が秘められている。日本と韓国が外交関係を結んで60年の節目となった2025年、隣国との深いつながりを感じに訪問した。

都心から1時間半、武蔵野の面影

新宿や池袋から私鉄とJRを乗り継いで約1時間。JR高麗川駅に到着する。20分ほど歩くと、武蔵野の面影を残した山々のすそ野に「高麗神社」が現れる。「高麗」は「こま」と読む。紀元前37年ごろから7世紀にかけて中国東北部から朝鮮半島の北・中部で栄えた大国「高句麗」のことだ。

「出世のご利益」が知られるだけでなく、月替わりで花印が変わる御朱印や、レース地のかわいらしいデザインのお守りなど、見た目も魅力的なコンテンツが若者を引きつける。訪れた人のネット上の書き込みを見ると「パワーが強くてクラクラした」というものもある。1300年の歴史の重みかもしれない。

朝鮮半島との交流の現場

境内は、古代から続く日韓交流の生きた現場だ。入り口にある一ノ鳥居のすぐ横に、高さ5メートルもある「天下大将軍」と「地下女将軍」が、大きな目と口を開いて出迎える。韓国の魔よけとされる「将軍標」だ。韓国ではチャンスンと呼ぶ。邪悪な霊の侵入を防ぐ役割があり、韓国では村落の入り口で見かける。花崗岩(かこうがん)でできていて、日韓国交正常化40周年の2005年に在日本大韓民国民団(民団)が寄贈した。

将軍標を横目に見て境内に向かう。一ノ鳥居をくぐった先の石畳の道は春、見事な桜のトンネルになるという。

高麗神社入口と一ノ鳥居(五味洋治撮影)
高麗神社入口と一ノ鳥居(五味洋治撮影)

100メートルほど歩くと二ノ鳥居がある。その手前には縦横2メートルほどの石碑が設置されている。「高麗若光の会」が高麗郡建郡1300年に合わせ、2016年に設置した。在日韓国、朝鮮、日本の有志によって設立され、神社の由来を伝える続日本紀の文面が記されている。境内では歴代駐日韓国大使からの記念植樹も目に入る。交流に願いを込めてのことだ。

二ノ鳥居を過ぎると手水舎(ちょうずや)がある。ここで心静かに手と口をすすぎ、お清めをする。左右に巨木がそびえ、神々しい。

参道を進むと本殿への階段が見える。ここを上り、お参りする。筆者が訪ねた日は、土曜日。本殿前には参拝者が行列になって順番を待っていた。高麗神社への参拝動機はさまざまだ。出世運や商売繁盛といったご利益を求めるビジネス関係者が多いが、若い人たちの姿も目立つ。

参拝客の行列ができていた高麗神社の外拝殿。覆屋(おおいや)内の本殿は戦国時代の天文21(1552)年建立で、埼玉県の文化財(五味洋治撮影)
参拝客の行列ができていた高麗神社の外拝殿。覆屋(おおいや)内の本殿は戦国時代の天文21(1552)年建立で、埼玉県の文化財(五味洋治撮影)

本殿の脇にずらりと掛けられた絵馬には、先ほどの将軍標があしらわれている。日本の神社に朝鮮伝来の将軍標という取り合わせは、この神社ならではのデザインだ。奉納された絵馬の中にはハングルで「2026年も健康で過ごせますように」と書き込まれたものもあった。

将軍標があしらわれた独特な絵馬(五味洋治撮影)
将軍標があしらわれた独特な絵馬(五味洋治撮影)

境内の神楽殿には、日本の古代人のカラフルな衣装が展示してある。ここで韓国舞踊が披露されることもある。

境内は基本的に日本の神社の形式と同様だが、ところどころ朝鮮半島の要素が混じり、一味違う雰囲気も漂っている。

由来は「高句麗」

神社の由来となった高句麗は紀元前後ごろ中国東北部から朝鮮半島北部に広がる巨大な領土を誇った。「堡塁(ほうるい)」と呼ばれる石積みの城、硬い土器の須恵器などの先進技術も持っていた。7世紀後半、唐と新羅による連合軍の挟み撃ちに遭い窮地に。このため難を逃れ、多くの高句麗人が日本に渡来した。高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)は、政府の使者として日本に渡ったが、668年の高句麗滅亡を受け、日本にとどまった。

「続日本紀」などによると716年、大和朝廷は駿河、甲斐、相模など7つの国の高句麗人1799人を武蔵国(現在の埼玉県日高市周辺)に移住させ、高麗郡を置いた。彼らの持っていた技術を生かす狙いだったとも言われている。

高麗郡の長官(郡司)に任命されたのが若光だ。郡民をよくまとめ、開拓に尽力した。波乱の生涯をこの地で終えたが、晩年、豊かな白髭(ひげ)を蓄えていたことから、「高麗白髭明神」と広く慕われた。死後、郡民はその深い徳をしのび、その御霊(みたま)を祭って高麗郡の守護神とした。これが高麗神社創建の由来だ。

若光の生涯は、見ず知らずの異国で新たな役割を見つけ、地域発展に貢献した開拓者として語り継がれる。このたくましい精神が、現代の「出世」や「開運」の象徴につながった。

境内の裏手には、わらぶき屋根の質素な「高麗家住宅」がある。若光の子孫である高麗氏の旧住居で、慶長年間(1596〜1614年)の建築と伝えられている。住宅脇には樹齢400年のシダレザクラがあり、春に見事に開花する。他では見られない古来の住宅と桜の組み合わせだ。

国指定の重要文化財である「高麗家住宅」(五味洋治撮影)
国指定の重要文化財である「高麗家住宅」(五味洋治撮影)

歴代総理を「輩出」した「出世明神」

高麗神社は、長い間「村の鎮守様」に過ぎなかったが、大正末期から全国的な注目を集めるようになった。神社を訪れた斎藤實、若槻礼次郎、浜口雄幸、鳩山一郎といった政治家が相次いで首相に就任したからだ。特に若槻礼次郎は参拝からわずか4カ月で総理大臣に就任した。斎藤實は朝鮮総督在任中に高麗神社を訪れ、朝鮮半島統治の円滑を祈念したようだ。境内には彼らの名前が今も掲げられている。

太宰治や坂口安吾、檀一雄といった文豪もこの地を訪れた。また、中国で清朝の皇女であり、男装した日本陸軍のスパイとして知られた川島芳子も大正時代に参拝した記録が残っている。

意外なところでは、東京地検特捜部の幹部たちが参拝に来ている。何を願ったのかは分からないが、大型の政界捜査の前に訪ねることが多かった。新聞記者が神社側に「地検の人たちが神社に来ましたか」と探りを入れてくることもあったという。

境内の芳名録には、政財界や文学関係の著名人の名前がずらりと並ぶ(五味洋治撮影)
境内の芳名録には、政財界や文学関係の著名人の名前がずらりと並ぶ(五味洋治撮影)

天皇陛下も関心を示した神社の来歴

高麗神社は皇族の参拝も受けている。2017年に天皇・皇后両陛下(当時)が私的に訪問された。当時の報道によると、事前に大陸からの渡来人の歴史を学ばれたという明仁天皇(現・上皇)は「高句麗や百済などの国がどうして滅んだのですか」「日本に渡来したのは百済人、高句麗人のどちらが多かったのですか」と専門的な質問もされたという。両陛下は担当者から同神社に伝わる古文書の説明を受けた後、自ら資料に目を移して読み、内容を確認していたという。

明仁天皇は、2001年の記者会見で「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」(宮内庁ホームページより)と述べた。皇室は、高麗神社には多くのご訪問の記録がある。

高麗神社を訪問された天皇、皇后両陛下(当時)=2017年9月、埼玉県日高市(代表撮影、時事)
高麗神社を訪問された天皇、皇后両陛下(当時)=2017年9月、埼玉県日高市(代表撮影、時事)

日本と朝鮮半島に由来する行事

高麗神社では日本古来の行事に交じり、朝鮮半島の由来の行事も行われる。

境内の横にある小高い山の上には水天宮が祭られている。ここは古代のようなひんやりとした空気が感じられる名所だ。毎年10月19日の高麗神社例祭では獅子役が子どもの額に印を授ける「御印行事」が行われる。境内では、七五三や安全祈願、田植え行事なども日本古来の方式で行われる。

獅子役が子どもの額に印を押す「御印行事」(高麗神社提供)
獅子役が子どもの額に印を押す「御印行事」(高麗神社提供)

朝鮮半島に関係する催しには、1月と9月に高句麗・飛鳥・平城京の各時代の宮廷装束に身を包み境内をパレードする「古代装束絵巻」がある。

高麗神社で行われている古代装束絵巻の催し。高句麗の装束に身を包んだ参加者も(高麗神社提供)
高麗神社で行われている古代装束絵巻の催し。高句麗の装束に身を包んだ参加者も(高麗神社提供)

10月には「マダン」と呼ばれる交流のお祭りも開かれる。境内の前庭には、テントが立ち並び、韓国の料理や関連の土産品を販売、韓国伝統音楽なども披露する。

毎年10月には、サムルノリなどの打楽器演奏をはじめ韓国にちなんだ出し物が境内で披露される(髙麗神社提供)
毎年10月には、サムルノリなどの打楽器演奏をはじめ韓国にちなんだ出し物が境内で披露される(高麗神社提供)

お守りも日韓混合

お守りは、高句麗の王の権力の象徴である「三足烏(さんそくからす)」のモチーフが用いられている。日本では八咫烏(やたがらす)が有名だが、三足烏は朝鮮半島に伝わる伝統のものだ。このデザインのお守りは日本の神社では珍しい。

黒いデザインの三足烏のお守りもある。警察手帳に似ていることから捜査関係者にひそかな人気があるとか。地元埼玉県警の警察官の一人は「仕事の安全を祈って1つ持っている」と話した。手にしてみると、黒光りしており確かに御加護がありそうだ。

捜査関係者に人気があるという三足烏をあしらった黒いお守り(五味洋治撮影)
捜査関係者に人気があるという三足烏をあしらった黒いお守り(五味洋治撮影)

高麗神社には、季節ごとにデザインが変わるお守りもある(五味洋治撮影)
高麗神社には、季節ごとにデザインが変わるお守りもある(五味洋治撮影)

地域活性化が生む新たな魅力

高麗神社の存在は、地域の活性化にもつながっている。高麗郡建郡1300年を記念して、日高市の野菜や高麗人参(にんじん)を入れたキムチ味の鍋「高麗鍋(こまなべ)」が開発され、地元の店で提供されている。韓国料理店チェーンが地元の農家と契約し、キムチ用のハクサイを栽培・販売している。年に1回、韓国学校の小学生たちが地元の人たちと一緒にキムチを作る交流も広がっている。

境内で定期的に開く歴史講座も高麗神社らしい内容だ。宮司も講座の発起人の一人で、高麗郡建郡に関する研究を中心に、古代東アジアの渡来文化をテーマに取り上げている。2025年度は奈良の都と武蔵国を結ぶ古代道路「東山道武蔵路」、古代の人々の「生活の様子や女性像」などが企画され、ロマンをかき立てられる。

未来への希望を紡ぐ文化遺産

高麗神社の歴史は、日本と朝鮮半島の間で政治的対立を超越した交流が長く続いていたことをあらためて教えてくれる。若光から60代目の子孫の高麗文康宮司(58)は、「私は日韓関係の専門家ではありませんが」と前置きしたうえで、「日韓関係はいつの時代にも課題がありましたが、それは(隣国として)付き合ってきたからこそ。これからもお隣さんとして自然にお付き合いしていけばいいと思います」と自然体を強調した。

高麗神社の本殿前で語る60代目の宮司、高麗文康さん(五味洋治撮影)
高麗神社の本殿前で語る60代目の宮司、高麗文康さん(五味洋治撮影)

最近の日本には、外国籍の人が増えている。この神社も1300年前に日本に来た人たちの営みが源流にある。高麗宮司は「渡来人のことは、当時の日本の人たちにも頭の痛い問題だったんじゃないのかな。それでも彼らの住む場所を決め、それなりの地位を与えて日本で定着してもらおうと知恵を働かせたのです。その知恵は現在も通じるかもしれませんね」と語った。

日本と朝鮮半島は国境を越えた人のつながりを大切にし、保ってきた。その象徴である高麗神社は、今後も文化や歴史という「ソフトパワー」の拠点としてにぎわうに違いない。

高麗神社

  • 電車:JR川越線「高麗川駅」より徒歩約20分、西武池袋線「高麗駅」より徒歩約50分
  • 車:関越自動車道「鶴ヶ島インター」より約30分、圏央道「狭山・日高インター」より約25分。無料駐車場あり。
  • 年中行事は年によって実施日が変わる。詳細は高麗神社HP

参考図書

  • 『高麗神社』(さきたま文庫、馬場直也、高麗文康)
  • 『六人の総理大臣が誕生 最強の出世開運スポット 強運パワーの「高麗神社」』(実業之日本社、高麗郷文化研究会)
  • 『まんが高麗王若光物語』(埼玉新聞社、比古地朔弥)
  • 『古代の高句麗と日本』(学生社、金達寿ほか)

バナー写真:朝鮮半島伝統の「チャンスン」。 将軍標とも呼び、村や寺院の入口に立ち、魔除けや道標の役割がある(五味洋治撮影)

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