懐かしい風情漂う城下町・西舞鶴を散策:海の京都・舞鶴、西と東の違った魅力を満喫[前編]

歴史

日本海に面する京都府舞鶴市は近年、「海の京都」として注目される人気観光エリア。「西舞鶴」と「東舞鶴」の2つの駅があり、西は近世に田辺藩の城下町として栄え、東は明治中期から海軍の町として発展した。風情ある街並みが残る西舞鶴では、ゆったりと歴史散策しながら海の幸を堪能したい。

細川幽斎が隠居した要害の城

江戸時代には丹後国(現在の京都府北部)・田辺藩の城下町だった西舞鶴。城郭が翼を広げて舞う鶴のような形だったため、「舞鶴城」や「舞鶴藩」とも呼ばれたのが現在の地名につながったという。

西舞鶴駅から北へ向かって歩けば10分足らずで、今は舞鶴公園になっている田辺城跡に至る。往時の建造物はなく、天守台跡などが残るのみだが、田辺城資料館が入る城門と二層櫓(やぐら)の彰古館が模擬復興されており、地域の歴史を伝えている。

田辺城資料館が入る城門。左に見える櫓の屋根は彰古館のもの
田辺城資料館が入る城門。左に見える櫓の屋根は彰古館のもの

JR舞鶴線「西舞鶴」駅は、京都丹後鉄道宮舞線の始発駅でもある
JR舞鶴線「西舞鶴」駅は、京都丹後鉄道宮舞線の始発駅でもある

田辺城は1582(天正10)年、歌人としても名高い戦国武将・細川幽斎(ゆうさい、藤孝)が築いた。丹後国の本城は天橋立に程近い宮津にあったが、田辺(当時は加佐郡八田)の地は京の都へ近い上に、東西に川が流れ、北には海、南には沼地が広がる要害の地だったので支城を置いたのだ。

同年には幽斎の盟友で、長男・忠興の妻・玉(ガラシャ)の父でもある明智光秀が本能寺の変を起こす。主君・織田信長を自害に追い込んだ光秀から、配下に入ることを要請されるも幽斎は拒絶。家督を忠興に譲り、自身は髪をそって田辺城に隠居してしまう。兵力の足りない光秀を討ち取った羽柴(豊臣)秀吉は幽斎を重用したので、先見の明があったといえるだろう。

細川幽斎像が中央に鎮座する田辺城資料館の展示室
細川幽斎像が中央に鎮座する田辺城資料館の展示室

彰古館では幽斎の激動の生涯を紹介するタペストリーなどを展示する
彰古館では幽斎の激動の生涯を紹介するタペストリーなどを展示する

関ケ原にも影響を与えた籠城戦

田辺城の名を知らしめたのは、関ケ原の戦い(1600年)直前の籠城戦である。徳川家康による会津征伐に参加していた忠興が東軍(徳川方)への加勢を決めると、西軍1万5000もの兵が丹後へと押し寄せてきたのだ。

留守を預かる幽斎は宮津城を焼き払い、守りに適した田辺城に立てこもる。兵のほとんどは忠興に付き従っており、たった500人で約2カ月も耐えしのいだという。

当時の田辺城周辺の地形を再現した模型。平城ではあるが、周りは湿地だらけで攻めづらかったと伝わる
当時の田辺城周辺の地形を再現した模型。平城ではあるが、周りは湿地だらけで攻めづらかったと伝わる

幽斎を救ったのは、文化人としての側面だった。秘伝とされる古今和歌集の解釈「古今伝授」における唯一の継承者だったため、西軍の将の中にも門人がおり、城を攻めるのをちゅうちょしたと伝わっている。

また、皇族や公卿(くぎょう)の教え子らも和平交渉に動いた。武士である幽斎はそれを固辞し、徹底抗戦の姿勢を貫きながらも、古今伝授が途絶えることを恐れ、勅使を通じて八条宮智仁親王らに秘伝書などを送っている。そうした真摯(しんし)な行動が実を結び、八条宮が兄・後陽成天皇に働きかけ、勅命による講和が結ばれたのだった。

舞鶴公園内に残る旧藩主屋敷の庭園「心種園」内に立つ「古今伝授の松」。案内板には、この場所で勅使に秘伝書を託したと記されている
舞鶴公園内に残る旧藩主屋敷の庭園「心種園」内に立つ「古今伝授の松」。案内板には、この場所で勅使に秘伝書を託したと記されている

現在の古今伝授の松は6代目で、初代の松材を使用した「寿」の額が資料館に展示されている。筆跡は田辺藩7代藩主の牧野以成(もちしげ)
現在の古今伝授の松は6代目で、初代の松材を使用した「寿」の額が資料館に展示されている。筆跡は田辺藩7代藩主の牧野以成(もちしげ)

田辺城の包囲が解かれた3日後の9月15日、関ケ原の戦いで東軍が勝利。籠城戦に参加した西軍1万5000の兵は、関ケ原には間に合わなかった。両軍の兵力には諸説あるが、互いに7~10万人程度で拮抗(きっこう)していたとされるので、幽斎の約2カ月にわたる抵抗が勝敗に少なからぬ影響を与えたと考えられる。

関ケ原において忠興が最前線で活躍したこともあり、細川家には豊前国小倉(39万9000石)が与えられ、後に肥後国熊本藩(54万石)を治める大大名となった。丹後国を引き継いだ京極高知は1622年、息子3人に領地を分譲。次男・高三(たかみつ)が丹後国田辺藩(舞鶴藩)3万5000石の初代藩主の座に就く。京極家は3代で国替えとなったため、譜代の牧野家が1668年から1871年の廃藩置県まで田辺城を預かった。

舞鶴公園内の西側にある天守台跡
舞鶴公園内の西側にある天守台跡

かつての籠城戦の舞台が、今では憩いの場「舞鶴公園」として市民に愛されている
かつての籠城戦の舞台が、今では憩いの場「舞鶴公園」として市民に愛されている

訪日観光客に人気の吉原入江

城下町、港町として栄えた西舞鶴には近年、訪日客に人気のフォトスポットがある。「東洋のベネチア」とも称される吉原入江だ。今年、大ヒットした映画『国宝』のロケ地となったことで、国内でも注目度が一気に上昇している。

西舞鶴駅から歩くと30分弱、田辺城資料館からも20分ほどかかるので、駅構内の案内所「まいづる観光ステーション」に立ち寄り、自転車をレンタルしてから向かうのがおすすめ。ここには舞鶴名物のかまぼこや海軍グッズがそろうので、返却時には土産物探しも楽しめる。

細い水路に舟屋と漁船がぎっしりと並ぶ吉原入江
細い水路に舟屋と漁船がぎっしりと並ぶ吉原入江

自転車も貸し出しているまいづる観光ステーション
自転車も貸し出しているまいづる観光ステーション

吉原入江の最大の特徴は、海面すれすれに立ち並ぶ舟屋群。日本海は干満差が小さいことで知られるが、特に舞鶴湾は最大で30センチ程度しかないため、独特の美しい情景が生まれたのだ。

一番の撮影ポイントは、吉原地区の守り神・水無月(みなづき)神社近くの橋の上。舟屋の目の前に停留する小型船が入り江の先まで続くさまは、まさにイタリアの水の都をほうふつとさせる。

水無月橋から湾と反対の南側を望む。船が少ないので土地の低さが際立ち、こちらも趣深い写真が撮れる
水無月橋から湾と反対の南側を望む。船が少ないので土地の低さが際立ち、こちらも趣深い写真が撮れる

江戸時代中期に、吉原で流行した疫病を鎮めたという水無月神社
江戸時代中期に、吉原で流行した疫病を鎮めたという水無月神社

国の文化財に指定される2軒の銭湯

吉原入江の周辺は、昔ながらの漁師町が残る。そのシンボルといえるのが1920(大正9)年開業と100年以上の歴史を持ち、国の有形文化財に登録される銭湯「日の出湯」だ。

車1台がやっと通れる細い道が入り組むのは、昔ながらの漁師町ならではの光景
車1台がやっと通れる細い道が入り組むのは、昔ながらの漁師町ならではの光景

元々は町の共同浴場だったという日の出湯
元々は町の共同浴場だったという日の出湯

戦後に浴室などはタイル張りに改装しているが、洗い場の中央に設置されている湯船の角丸長方形などは創業当初のままという。脱衣所にある年季の入った体重計やマッサージチェアなども、懐かしい昭和レトロな雰囲気が残り、見逃せない。

急階段を上った2階の座敷も建築当時からほぼ変わらない状態で、町の集会所的な役割を担っている。まさに吉原の町には欠かせない大切な場所だ。

(上)洗い場の真ん中に浴槽がある珍しい配置(下左)脱衣所も昭和のまんま(下右)町の寄り合いの場にもなる2階の和室
(上)洗い場の真ん中に浴槽がある珍しい配置(下左)脱衣所も昭和のまんま(下右)町の寄り合いの場にもなる2階の和室

西舞鶴にはもう1軒、国指定文化財の銭湯がある。かつて城下町として繁栄した西市街地の平野屋商店街にたたずむ「若の湯」だ。狭い地域に国文化財の銭湯が2つあることから、他県からひと風呂浴びに舞鶴までやってくる銭湯マニアも少なくないらしい。

城下町の雰囲気が残る平野屋商店街で、異彩を放つ洋風建築の「若の湯」
城下町の雰囲気が残る平野屋商店街で、異彩を放つ洋風建築の「若の湯」

こちらは1903(明治36)年創業で、現在の建物は1923(大正12)年に完成。当時は完全に洋風だったが、後に火災によって瓦屋根に改修したことで、和洋折衷の趣深い外観となった。

西市街地のさらに西、愛宕山の麓・寺町には、幽斎ゆかりの寺社などが並ぶ。歴史散策した後に、文化財の銭湯で汗を流すのも一興だろう。

洋風の意匠に瓦屋根、「ゆ」ののれんが不思議とマッチし、インスタ映えすると若者にも人気
洋風の意匠に瓦屋根、「ゆ」ののれんが不思議とマッチし、インスタ映えすると若者にも人気

寺町にある桂林寺は室町時代の創建。籠城戦の際には、和尚と弟子14人が幽斎の元に駆け付け、一緒に立てこもったという
寺町にある桂林寺は室町時代の創建。籠城戦の際には、和尚と弟子14人が幽斎の元に駆け付け、一緒に立てこもったという

道の駅で取れたての海の幸を堪能!

散策に欠かせないご当地グルメは、港町だけに新鮮な魚介を堪能したい。街中にもおいしい店が点在するが、せっかくなら日本海沿岸最大級の海鮮市場「舞鶴港 とれとれセンター」まで足を延ばそう。

道の駅内にある舞鶴港とれとれセンター
道の駅内にある舞鶴港とれとれセンター

旬の魚がズラリと並ぶ場内。ノドグロなどの高級魚から、安いのに巨大な焼きサバまでそろい、目移りしてしまう
旬の魚がズラリと並ぶ場内。ノドグロなどの高級魚から、安いのに巨大な焼きサバまでそろい、目移りしてしまう

足を踏み入れると威勢のいい掛け声が飛び交い、まさに市場さながらの活気。480坪(1586平方メートル)もある売り場には、舞鶴港に水揚げされたばかりの海の幸が並ぶ鮮魚店に加え、かまぼこやちくわといった水産加工品を扱う屋台やすし店が軒を連ねる。

選んだ食材をその場で刺し身におろしてくれたり、海鮮焼きに調理してくれたりするのも魅力。ご飯とみそ汁だけを料理店で購入し、自分好みの海鮮定食を作るのも定番の楽しみ方だ。できたら夏は岩ガキやトリ貝、冬はカニといった舞鶴名物を味わってみてほしい。

(上)海鮮焼きは、食べ歩きするのも楽しい(下左)大きくプックリとした舞鶴の岩がきは味も最高(下右)ご飯とみそ汁を購入すれば、豪華海鮮セットに!
(上)海鮮焼きは、食べ歩きするのも楽しい(下左)大きくプックリとした舞鶴の岩ガキは味も最高(下右)ご飯とみそ汁を購入すれば、豪華海鮮セットに!

舞鶴には魚料理の名店も数多い。写真は舞鶴で3店舗を展開する「魚源(ととげん)」の海鮮丼
舞鶴には魚料理の名店も数多い。写真は舞鶴で3店舗を展開する「魚源(ととげん)」の海鮮丼

取材・文・写真=ニッポンドットコム編集部

バナー写真:水無月橋から撮影した吉原入江と田辺城資料館

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