民主主義は財政危機を乗り越えられるか

デモクラシーの病が経済を混乱させる

経済・ビジネス

財政拡大に向かう民主主義のメカニズムが、現在の先進各国に共通して現れている。デモクラシー国家が、財政赤字を解消することは果たして可能なのか。経済学者、猪木武徳が考察する。

政治と経済はつながっている

近年の日本の政治と政局を見ていると、こんな体たらくは日本だけかとつい自虐的になりがちになる。しかし米国もいくつかのEUメンバー国も、似たり寄ったりの政治状況にあることは知っておく必要があろう。財政問題(膨大な財政赤字と政府債務残高)の解決と中長期的な成長を可能にする戦略を政治が見出せないまま行き詰まりを見せている点で、ほとんどの先進国は同じ混迷のさなかにあると言ってよい。財政赤字が政争の具になっていないのは、ロシア、中国、韓国くらいなのだ。

あの東日本大震災が起こった直後、暗い見通ししか立たなかった日本の円が、為替市場で上昇したのを不思議に思った人は多かったはずだ。一時は損害保険会社の保険金支払い準備のための円買いかとも言われた。しかし現実の為替市場の動きは、すべて相対的な関係で決まる。米国やEUの政治の無能力状態が、その経済の将来見通しを日本よりもさらに暗くしているために、日本円が相対的に上昇したというのが今では共通の理解となっている。おそらくこの解釈は正しいだろう。EUも米国も議会制民主主義が的確な長期的な視野に立った政治決断が下せない状況に陥っているのだ。

経済の診断は数字が基本だが、数字だけを見ていると、単一原因だけを誇張したり、同じような数字は同じ病の症状だと思い込みがちになる。しかし問題の性質は国によって少しずつ異なる。「財政危機」と言っても、例えばギリシャとイタリアではその性質が異なる。ギリシャの危機は、国債が売りまくられ、政府資金(フロー)が枯渇して予算が組めないという短期的な問題だけでなく、富裕層の所得の捕捉という点で、国家の徴税機能が衰弱し始めたという問題を抱えている。歳出の膨張だけでなく、歳入欠陥が財政赤字を膨張させているのだ。ほんの4、5年前まで、経済成長率や労働時間の長さでは、EUの中の優等生であったギリシャの凋落振りは、目を疑うほどだ。一方イタリアは、GDP比120%の政府債務残高(ストック)を引きずるという中期的な問題を抱えており、イタリアの国債がデフォールトするのではないかという恐れがEUの中で強まりつつある、というのが現状なのだ。こうした相違点を意識しながら、現代の政治システムが共通して「病める経済」をいかに生み出しているのか、重要と思われる論点を書き出したみたい。

財政赤字が金融市場をさらに不安定にする

2008年夏の金融危機は、あとに続いた不況で、生産と雇用が減退し、米国では税収が大きく落ち込み、赤字国債が増加した。危機の引き金となったのは、流動性の不足だけではない。米国の低所得層などの住宅購入への貸付(いわゆるサブプライム・ローン)が焦げ付いたことによって、商業銀行の支払い不能(insolvency)が金融システム全体に伝播したことにあったと考えられる。そうした現状をふまえて、2010年7月、オバマ大統領は、健全な金融市場の再構築のための法的枠組みとして、(80年前のグラス=スティーガル法の現代版ともいうべき)長大な条文からなるDodd-Frank法(通称)に署名した。しかしこの金融取引の再規制を規定する法律が、どの程度の実効性を持つのか疑問視する向きは極めて強い。オバマは超党派の医療改革のプランを実現するための取引として、金融システムの実効性のある改革の機会を失ったとも批判された。ただ、仮に米国のこの金融取引規制法が銀行を思慮深い行動へと変身させうるとしても、英国やEUが歩調を合わせない限り、世界の金融市場の不安定性は払拭できない。したがって問題の主要なポイントが解決されたわけではない。金融危機は、再びいつでも訪れる可能性があるのだ。

金融市場と財政赤字は、双方向の強い影響を及ぼし合う。金融市場の不安定性は、先に述べたギリシャのケースが示すように、財政赤字で生み出される巨額の国債の市場を揺さぶる可能性がある。金融市場は国債を中心とする債券市場で完全につながっているからだ。一方、金融の破綻が、「財政リスク」を生み出すメカニズムを無視してはならない。銀行の不良債権が問題になると、株主や貸し手を保護するために、中央銀行や政府から多額の救済資金が注入されることが多かった。銀行は大きければ大きいほど倒産させることはできない(too big to fail)からだ。しかしこの慣行は、ある種のモラル・ハザードを生み出し、銀行をますますリスクに対して大胆にさせた。万が一の事態が起こっても公的資金が注入されるから、と銀行に高いリスクの投資へと向かわせる力が働くのだ。その結果、いわゆる「破滅のスパイラル(doom loop)」に落ち込む危険性が強まる。米国の場合、オバマ大統領が金融市場の規制に毅然とした姿勢を示さないため、こうした大銀行救済のための「財政リスク」は依然として大きい。そして経済全体にとって何よりも深刻なコストは、こうした金融危機によって傷つく実体経済の「雇用の喪失」なのである。実体経済にとって潤滑油であった金融機能が、逆に実体経済を振り回すようになる。まさに犬が尻尾を振るのではなく、尻尾が犬を振り回すというような状態ができるのだ。

不安定な政局の混乱が将来を不透明に

不安定なのは金融市場だけではない。政治の混乱が将来の不透明感を強くしている。中東政治の不安定性も、世界経済の回復にとってマイナス要因にこそなれ、プラス材料にはならないだろう。

しかし国際情勢の不安定性は今に始まったことではない。深刻なのは先進国それぞれの国内政治だ。日本の政局の混迷については解説は無用であろう。「我日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり」(福澤諭吉)という言葉が辛く響く。

予想がつかないほど政局が混迷し、不確実性が増大してくると、経済に与える影響は極めて大きい。消費をはじめとする経済活動は「予測可能性」「計算可能性」のもとに行われる。投資も将来の見込み収益の計算の上に行われるから、不確実性から逃れることはできないものの、ギャンブルではない。リスクはあっても、そこに何らかの明るい見通しが立つから、投資が行われ、雇用と生産の拡大につながる。先に触れたように、リーマン・ショック以降、根本的な金融市場改革は行われていない。政治が確固たる姿勢を打ち出さないのだ。

米国も日本と似た状況にある。米国の二大政党は、財政に関して過去30年近く、短期的な視野に立って混乱した政策を発動して来た。2003年に共和党主導で導入が決まったMedicare Part D(高齢者、障がい者向けの処方せん薬代の補助制度)によって、議会は「新たな支出には新しい税源を」というルールを反故にした。また、オバマ大統領は2010年の予算策定で、連邦政府支出の4兆ドルカットを見送っている。他面、税収の確保には根本的な対策を打っていない。これでは「大衆迎合」といわれても仕方がなかろう。医療と社会保障のための将来支出の総額を計算すると、「破産」宣告も現実味ゼロの話ではないかもしれない。

ちなみに、日本の財政赤字をめぐる政府の見解も首尾一貫しない。もともと緊縮論者ではない筆者が、今次の大震災の復興財源について、「復興国債だけではなく(臨時)消費税の増税でも」と発言したら、「この景気の悪いときに」と強い批判を受けた。原発事故の処理の費用を除いても、優に20兆円を超えると試算される復興財源は、総額900兆円に近づこうとする政府債務残高からするとたしかに小さい。だから復興財源は復興国債だけで、という議論も合理的に見える。しかし復興を今の世代の日本国民がみんなで支援するという考えに立って、国民がすべて何らかの貢献をするという共同体の意識(sense of community)が今の日本には必要なのだ。こうした危機にあって国民の「一体感」を醸成するのが政治の役割ではないのか。

民主、自民、公明3党の幹事長は11月8日会談し、平成23年度第3次補正予算案に絡む東日本大震災復興債の償還期間を25年とすることで正式合意した。(写真=産経新聞社)

消費税の増税は「景気をますます悪くする」という反論は2つの点で誤っている。第1に、復興のための民間投資・公共投資は、個人可処分所得の減退を補うだけ現れるはずだ。増税分は必ず支出される。大事なのは有効需要だ。第2に、消費税以外の税を増税することの方が、景気を悪化させる可能性が高い。所得税の増税は、所得層や年齢層による不平等をもたらし、法人税増税は外国との競争力を殺ぐ点でマイナスの効果がある。したがって、復興財源の主要部分は、消費税の増税で調達すべきだ。しかし11月中旬、民主・自民・公明の3党は、所得税と法人税を軸に10.5兆円の復興財源を調達することに合意し、復興債の償還期間も25年という中途半端な年数に決定した。現世代の日本国民の「一体感」を喚起するような方向に政策は動かなかったのである。

デモクラシーの宿痾を認識する

なぜ、かくも多くのリベラル・デモクラシーの国家が財政問題に苦しむのか。理由は明らかだ。政治家は選挙で勝たねばならない。落選すれば「失業者」同然になってしまう。このリスクを冒してまで、政治に打って出ようとする人は一般市民には多くない。しかしデモクラシーのルール通りに「選挙で票を獲得し、代議士になる」という原理は、「両刃の剣」のような危険も含んでいる。政治家は当選するために多くの経済的便益を選挙民に約束する。したがってデモクラシーは財政拡大への強いドライブを持つ。ある集団に集中的に利益をもたらす法案は、議会を通過しても国民一人当たりのコストはほとんど無視できるほど小さい。したがってその法案のもたらす利益に無関係ないしは無関心な人びとは、その法案の妥当性について究明したり、反対したりすることはない。むしろ、他日、今度は自分たちのグループの利益を盛り込んだ法案への賛意と協力を期待しながら、今日は敢えて彼らの法案を支持する側に回るかもしれない。利益は集中し、コスト自体は薄く広がるから、コスト意識が低下する。このようなメカニズムが、財政を拡張させるような法案を乱発させるのだ。

こうした議会制民主主義が内包する公共部門拡大の傾向は、結局、経済問題が直ちに政治化することを意味する。誰が自分たちの部分利益の実現に力を持っているのかが、人びとの重大関心となるからである。リベラル・デモクラシーのもとでの議会制民主主義は、1人1票の平等原則が常に公平な選択を可能にしているような印象を受けるが、実際には、投票とその結果には確たる関連はないというケースも起こりうるのだ。

米国はじめ多くの国の人びとが政治と経済が固く結びついた「金のなる木」に取りすがり、所得以上の生活をしてきたことにはならないだろうか。その結果、米国の場合の住宅ローンのような私的な債務はもちろん、多くの国において「人気取りのための」財政支出によって公的債務はどんどん膨らんだ。このメカニズムにブレーキをかけるのは、財務省のお役人たちだと言っても過言ではなかろう。こうした「金のなる木」への大いなる錯覚が生んだ財政赤字の累積が、雇用創出政策の発動を妨げたのだ。その犠牲者は、働く能力と意欲が充分あるのに雇用機会が見つからない失業者、特に若年失業者なのだ。

欧州中央銀行。ユーロ圏17カ国の金融政策を担う。(ドイツ・フランクフルト)

もうひとつの困った要因はEUという「半国家」の存在であろう。単に「憲法がない」という意味での「半国家」ではない。EUは財政が統合されていないから、普通の国の財務省にあたる行政機能が存在しない。加えて、EUは労働費用や生産性で格差の大きなメンバーから構成された集合体である。そこに各メンバー国に独自の金融政策を放棄させるような、単一通貨(EURO)を導入してしまったのであるから、財政危機が起こっても動きは取れない。金融政策は欧州中央銀行(ECB)が発動する「ひとつの金融政策」だけに頼らざるを得ないのだ。しかしECBは民主的なプロセスで金融政策を決定するわけではない。大きな国、強い国の経済状況が影響するのは自然であろう。ここに、ユーロが持ち込んだ、「民主主義の欠損(democratic deficiency)」の問題が存在するのだ。

日本でも、「東アジア共同体構想」が語られることがある。しかしカール大帝以来、1200年を超す共同体運動の歴史を持つヨーロッパが経験した苦悩と、こうした「共同体構想」が現実のものとなるための歳月の長さを、もっとわれわれは知るべきであろう。特に日本と中国の関係が、TPP(環太平洋パートナーシップ)とASEAN プラス3(東南アジア諸国連合と日中韓)という2つの経済連携の枠組みの間で今後いかに変貌するのか、米中冷戦は起こりうるのか、といった重要な国際関係について思いをめぐらすことなしに、「東アジア共同体」を語ることはできないのである。

米国は常に再野生化(rebarbarization)する

経済政策が直ちに経済の窮状を救うことはできない。経済は人間の身体と似たところがある。すべての病が薬剤や手術で完治するわけではない。一服の薬で消え去る苦痛もあれば、耐え忍ばなければならない不幸な病もある。経済政策は万能ではないのだ。万能であるという期待を国民が持ち、政府や中央銀行に過大な依頼心を抱くこと自体がモラルハザードの原因となりうる。

さらに自覚すべきは、経済状況はたしかに悪いが、マクロレベルで見ても、80年以上前の大不況期と比べれば、現在の経済はまだましだと考えた方がよい。米国にしても、1930年代の完全失業率は25%を越えていた。最近は9%程度の高止まりである。もちろん雇用に関するこの苦境を甘受せよというわけではない。しかし万能薬があるかの如く錯覚するのは、政治への批判ばかりを強め、ますます政治を劣化させる。この悪循環は避けねばならない。

ただし、80年前と比べて、世界経済における米国の位置と役割が大きく変化したことは見逃せない。1920年代の米国は、国際資本市場の「貸し手」であり、ドイツ・マルクの価値を維持しドイツの賠償支払いが可能になるように、米国から大量の資本がドイツに輸出された。ドイツでは消費ブームが起こり、その結果ドイツも米国も住宅や株式市場で爆発が起こった。米国が世界経済の覇権を握った時期に起こった世界経済の破綻である。

それに対して、冷戦の終結以後進行した「危機」は、同じく米国が主役であったが、今度は米国が「借り手」となり、中国や日本からの資本流入によって所得以上の消費ブームに踊り狂った。その消費ブームの代表格が、米国の低所得者向けの住宅購入ローンであったことはいうまでもない。米国はたしかに人騒がせな「困った巨人」なのである。しかしそれでも、現在のところ米国以外に世界の政治と経済の核となりうる国はない。

米国のような開かれた市場経済は、しばしば過熱と収縮の循環を繰り返し、米国経済には規制の少ない市場への飽くなき欲求が常に存在する。危機が起こるとその直後は少し大人しくなるが、しばらく経つとまた野性味を取り戻す(rebarbarization)のが米国経済の特徴なのだ。その野性味を、いかに法と政治の力でコントロールするのかが大国米国の責任と言ってもよい。

(本稿は中央公論2011年10月号掲載の「デモクラシーの病が経済を混乱させる」に加筆したものである。)

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