北方領土交渉、ポスト安倍は現在の路線堅持を

政治・外交

安倍首相の辞任表明によって、北方領土の返還を最重要課題として取り組んできた日本の対ロ外交は、試練を迎える。ロシア専門家で外務省の元主任分析官の佐藤優氏は「1956年の日ソ共同宣言を基礎としてきた対ロ外交は、ロシア側の一部の強硬な姿勢に対し、現在の路線を堅持し続けることが重要だ」と指摘する。編集部が同氏に聞いた。

佐藤 優 SATŌ Masaru

1960年東京都生まれ。作家・元外務省主任分析官。日本外務省切っての情報分析のプロフェッショナルとして各国のインテリジェンス専門家から高い評価を得た。イギリスの陸軍語学学校でロシア語を学んだあと、モスクワの日本大使館に勤務し、クレムリンの中枢に情報網を築きあげた。著書に『国家の罠』『自壊する帝国』(いずれも新潮文庫)など多数。

日ロ会談前にトランプに根回し

編集部 安倍晋三首相は、辞任表明の記者会見で、拉致問題とともに、北方領土返還の交渉に突破口を開けなかったことに無念の思いをにじませました。確かに、日本の対ロシア外交の推進力には陰りが生じていました。

佐藤優 第2次安倍内閣の発足直後から、懸案の領土交渉について、安倍首相は精力的に取り組んできました。2016年11月にトランプ氏が大統領選挙で勝利するや、直ちにニューヨークに飛んでトランプ・タワー会談に臨んでいます。会談の核心部分は明らかにされませんでしたが、安倍首相の郷里、山口での安倍・プーチン会談を控えていたこともあり、トランプ次期大統領から日ロ交渉への支援を取りつけ、密かに布石を打つ周到さでした。

編集部 トランプ大統領からは具体的にどんな協力を取り付けようとしたのですか。

佐藤 日ロ交渉が進展して平和条約交渉がまとまり、歯舞群島と色丹島が日本に引き渡された場合、日本政府は、日米安保条約に基づいて在日米軍の駐留を認めるのか――。これはプーチン政権にとって最大の懸念でした。それだけに、安倍首相としては、トランプ次期大統領の理解と協力を取り付けておきたかったのでしょう。しかし、ロシア国内の対日強硬派を中心に、北方領土へ米軍が駐留するという疑いを捨てようとしませんでした。安倍首相は、「シンゾウ=ドナルド」の外交資産を切り札に使う前に、今回の辞任表明になってしまいました。

ロシアの交渉スタンスに変化

編集部 安倍首相はあらゆる機会を使ってプーチン大統領に会い、領土問題を動かそうとしましたが、象徴的に言えば、北方領土は日本からどんどん遠ざかっていきました。

佐藤 遠ざかったとは思いません。しかし、最近の日ロ関係をみると、冷ややかなものとなりつつあるのは事実です。日ロの領土交渉は、1956年の「日ソ共同宣言」が、一貫して変わらない土台になってきました。ロシアになってからも、両国は「日ロ共同宣言」に基づいて、まず平和条約を締結し、しかる後にロシアは歯舞群島と色丹島を日本側に引き渡すというものです。ところが、こうした日ロの領土交渉の基調に変調が兆し始めていたのです。

編集部 これは聞き捨てにできません。詳しく解説してください。

佐藤 ロシアの世界経済国際関係研究所(IMEMO)のヴィターリー・シュヴィコ氏は、わずか2年前には、両国の妥協が実現するという期待もあったが、そうした希望も領土の分割禁止を定めた憲法改正案が採択される前から、徐々に消えていった、と次のように指摘していました。

「交渉のレトリックが変わった。平和条約の締結に関して言うと、両国間の調印は第二次世界大戦の結果の認識に公式的に終止符を打てたはずのものだった。しかし、ロ日間は平和条約がないといえども、外交・経済関係があるため、その関係に大きな変化は起きない。条約調印は歓迎すべきだが、形式的な事実にすぎない」

このコメントは、ロシア政府が事実上運営する「スプートニク」を介して流されました。プーチン政権の一部の人々の意向を映したものと受け取るべきでしょう。

ロシア側はこれまで、平和条約を締結すれば、歯舞群島と色丹島を日本に引き渡し、歴史的経緯と日本の国民感情にも配慮して、二島の引き渡しに加えて、国後島と択捉島に関しては、日本を優遇する特別の措置を講じるという立場を示してきました。しかしながら、ここにきてロシア側の交渉のスタンスは明らかに変化し、安倍首相の退任によって、こうした姿勢はさらに強まる可能性がでてきました。つまり、現在、日ロの間には、平和条約こそないが、外交・経済分野では安定した状態にあり、なんら問題は起きていないという認識なのでしょう。

「共同宣言」の原則、譲歩するな

編集部 そうしたロシア側の論理は、戦後のドイツに適用されたものと同じですね。

佐藤 その通りです。ロシアはドイツ方式を日本にも適用して、第二次世界大戦の戦後処理を考え始めているのではないかと思います。ロシアとドイツには、確かに平和条約は存在しないが、二国間関係ではなんら障害にはなっていないという認識です。日ロ関係も、このドイツ方式でいけばいいというのです。もっとも、ガルージン駐日ロシア大使は、月刊「文藝春秋」9月号のインタビューで、1956年の日ソ共同宣言を基礎に平和条約交渉を加速することがロシアの基本的な立場であることを認めるととともに、歯舞群島と色丹島を日本に引き渡す約束が現在も生きていると述べています。このようにロシア側からは、錯綜したシグナルが出ているのです。

編集部 ロシア側から出ている新しい対日強硬姿勢は分かりましたが、佐藤さんはそれでいいとお考えですか。

佐藤 とんでもない。ドイツ方式で日本との戦後処理をするのは間違っています。ナチス・ドイツは独ソ不可侵条約を侵犯してソ連を攻撃したのです。ヒトラーはロシア人を含むスラヴを奴隷にするという意図を持っていました。日本はドイツの同盟国でしたが、ナチスのような人種主義イデオロギーは持っていませんでした。さらに1945年8月9日、ソ連は当時有効だった日ソ中立条約を破って日本を攻撃しました。クレムリンも、対独戦と対日戦では史的文脈が異なっていることはよく承知しているはずです。

編集部 ポスト安倍の新政権は、こうした厳しい環境のなかで、対ロ外交をいかに進めていくべきだと考えますか。

佐藤 日ソ共同宣言の9項を基礎に対ロ外交を進め、日本外交の原則をないがしろにしてはなりません。「ソ連は日本国の要望に応え、かつ日本国の利益を考慮し、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する」。これを出発点に、北方領土の返還を粘り強く求めていくべきです。これまでの歴史的経緯を無視し、ロシアが日本との平和条約の締結を避けようとすれば、日本国民の対ロ感情は一挙に悪化すると、ポスト安倍の新政権は、クレムリンに明確に伝え、安易な譲歩は断じてすべきではありません。

バナー写真 : 時事(2019年6月、日ロ文化交流年閉会式で握手を交わす安倍晋三首相とプーチン大統領、大阪)

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