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江戸時代の大名石高ランキング(後編6~10位) : 西日本の外様大名がずらり

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江戸時代は、徳川幕府の下に約300の「藩」を置く幕藩体制によって社会を統治していた。その300に及ぶ藩を率いた大名の力は、領地の生産性や経済規模を表す「石=こく」という単位によって示された。有力大名の石高はどれくらいだったのか、「大名ランキングベスト10」の後編として6〜10位を取り上げる。

前編1~5位はこちら

石高の6〜10位は、西日本の外様大名が占めている。徳川幕府は、政権の中枢に親藩(初代将軍・家康の家族・親戚)と譜代(家康に仕えていた家臣)を登用する半面、外様を政治に参画させなかった。領地も江戸の近くに与えることはなかった。外様は官位も概して低く抑えられ、家格も低かった。

その代わり、石高は多く持たせて恩義を売った。こうしたことによって不満を抑え、懐柔をはかったのである。

1年間の米の生産高を表す単位「石」を、1石=約30万円(『江戸の家計簿』磯田道史監修 / 宝島社による)としてランキングを作成している。

[第6位]細川 / 熊本藩 54万石(1620億円)外様

関ヶ原の戦い(慶長5 /1600年)で徳川家康に与した細川忠興(ただおき)が、九州豊前国(福岡県東部と大分県北西部)に小倉藩を立藩。その後、忠興3男の忠利が家康のひ孫にあたる千代姫を妻とし、徳川との関係を強めた。

1632(寛永9)年、同じ九州の肥後国(熊本)を治めていた大名・加藤氏が改易となり、代わりに忠利が54万石に加増されて入った。現在の熊本市の基礎は加藤時代に築かれたものだ。

細川は地方巧者(じがたこうしゃ / 農政官僚)を登用して産業を振興した。とりわけ阿蘇山の火山灰土壌を利用した甘藷(かんしょ)の生産や干拓を奨励し、豊かな国へと発展させた。

6代藩主・重賢(しげかた)が設立した藩校・時習館も著名で、幕末の学者・横井小楠(よこい・しょうなん)を輩出している(小楠は後に熊本を出て福井藩に出仕)。

熊本藩は5代藩主の宗孝が1747(延享4)年、江戸城に登城した際に旗本の板倉勝該(かつかね)に人違いで殺害され、お家断絶の危機に見舞われたことがある。

板倉勝該は板倉本家当主が自分を排斥しようとしていると知り、当主を狙って凶行に走った。ところが、板倉家の家紋・九曜巴が、細川が使っていた九曜紋と似ていたため、誤って宗孝を斬ってしまったのだ(凶行については別説もあり)。

事件後、細川家は従来の九曜紋から、中央の大円を取り巻く小円を小さくし、大円から離す意匠に改変。大円と小円が離れていることから「離れ九曜」とも、細川独自の紋であることから「細川九曜」とも呼ばれる。

宗孝には跡取りがいなかったが、家臣らが宗孝が切られた直後に宗孝の弟(後の6代・重賢)を養子に立て、翌日になってから宗孝が死去したことを幕府に届け出たことで、なんとか断絶を免れた。18代当主に当たる細川護熙氏は熊本県知事を務め、さらに、1993年に38年ぶりに自民党からの政権交代を実現した連立政権で首相の座にもついた。

[第7位]黒田 / 福岡藩 47.3万石(1419億円)外様

黒田長政が立藩。長政は関ヶ原の戦いで、西軍の有力武将を味方に引き入れた功績を高く評価された知将である。領地は現在の福岡県。

19世紀初めの福岡を描いた古地図。城下町が海に面しており、貿易が盛んだったことがうかがえる。九州大学付属図書館所蔵
19世紀初めの福岡を描いた古地図。城下町が海に面しており、貿易が盛んだったことがうかがえる / 九州大学付属図書館所蔵

2代藩主・忠之の時代、藩主と筆頭家老が対立するお家騒動があり、家老が他藩へお預けとなる。改易を免れた福岡藩は以後、藩主と重臣の合議制で運営された。名君と称されるのが6代藩主・継高(つぐたか)。享保の大飢饉(1732年〜)後の窮乏対策や財政再建、能楽といった伝統芸能・文化の奨励に取り組んだ。

明治維新では戊辰戦争直前まで佐幕か新政府か藩論が定まらず、同じ九州の薩摩や佐賀に遅れをとった。

[第8位]浅野 / 広島藩 42.6万石(1278億円)外様

広島藩の領地は、現在の広島県にほぼ相当する。戦国時代は毛利が支配していたが、関ヶ原の戦い後は福島正則が約40万石で移封された。1619(元和5)年、城の無断改修などを幕府にとがめられ、正則は改易。後に入封した浅野氏による統治が幕末まで続いた。

注目される藩主は初代・長晟(ながあきら)。豊臣秀吉を支えた五奉行の1人、浅野長政の子だ。幕府2代将軍・徳川秀忠の小姓を務め、紀州藩を任されていたが、福島正則の一件を受けて広島に移った。武士・領民が守るべき「郡中法度」を定め、また税制を整備した。行政手腕に長けた側近を起用して米相場で利益をあげるなど、経済に明るい殿様だったという。

広島市にある饒津(にぎつ)神社は、祭神に浅野長政・長晟の父子をまつる。PIXTA
広島市にある饒津(にぎつ)神社は、祭神に浅野長政・長晟の父子をまつる。(PIXTA)

もう1人は中興の祖といわれる5代藩主・吉長だ。領内の商工業を統制して藩政を立て直し、息子に引き継がせた。

赤穂浪士討ち入りの原因となった浅野長矩(ながのり/内匠頭)は分家にあたる。

[第9位]毛利 / 長州藩 36.9万石(1107億円)外様

戦国時代の一時期、中国地方のほぼ全域を支配した毛利元就の子孫が治めた。元就の孫・輝元が、名目上とはいえ関ヶ原の戦いで西軍総大将に担ぎ出されたため、戦後は周防・長門の2カ国に減封となり長州藩となった。

山口県萩市の萩城天守跡。長州藩の藩庁は萩城だったため、萩藩と呼ばれることもある(PIXTA)
山口県萩市の萩城天守跡。長州藩の藩庁は萩城だったため、萩藩と呼ばれることもある(PIXTA)

だが、積極的に参勤交代の経費削減や藩の債務処理に取り組み、財政は他藩に比べて安定していた。宝暦期(1751〜64)には新田開発・港建設、瀬戸内海を通る廻船業者への貸付で潤った。

また、米・塩・紙の「防長三白」、蝋(ろう)を加えた「四白」の生産・販売を強化し、内高は100万石を超えていたという

幕末には吉田松陰が主宰する松下村塾から、明治維新を牽引する多くの人材を輩出した。

[第10位]鍋島 / 佐賀藩 35.7万石(1071億円)外様

戦国時代の肥前国(佐賀県)は当初、龍造寺(りゅうぞうじ)氏が支配しており、鍋島は重臣の1人だった。だが、龍造寺当主・隆信が戦で死ぬと、鍋島直茂が実権を掌握し、幕府も龍造寺氏から鍋島への政権禅譲を支持。佐賀の藩主として認められた。

藩が飛躍したのは天保年間(1831〜45)。10代藩主に直正が就くと、役人の削減や石炭の発掘を進め、利益をもたらした。直正は開明的な人物で、蒸気船や反射炉の建造にも着手し、イギリスから最新鋭のアームストロング砲を輸入するなど軍備も強化。これらが明治維新の際、佐賀藩の台頭に貢献する。

直正は藩校・弘道館の充実もはかった。明治初期の初代司法卿・江藤新平、内務大臣・副島種臣、第8・17代内閣総理大臣にして早稲田大学の創設者・大隈重信らは弘道館の出身だ。

(左から)江藤新平、副島種臣、大隈重信 / 『憲政五十年史』『近世名士写真』国立国会図書館所蔵
(左から)江藤新平、副島種臣、大隈重信 / 『憲政五十年史』『近世名士写真』 / 国立国会図書館所蔵

なお、武士の心得をまとめた書物『葉隠』は江戸中期の佐賀藩士・山本常朝の口述を元にしたものである。

バナー写真 : 『大日本國全圖』の西日本の部分。江戸時代の諸藩を記した地図で、藩の境界線が記されている。江戸後期の作成と推定される。6〜10位の藩は、すべてこの地図に描かれている。(国立国会図書館所蔵)

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