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日本の城 基礎講座 : 防御施設編

歴史 文化 建築

城は敵の侵入・攻撃を防ぐ施設である。歴史は古く、紀元前4世紀頃(弥生時代)には濠(ほり)と柵を設けた大規模な防御施設「環濠(かんごう)集落」が形成されていた。その代表例が、佐賀県の吉野ヶ里遺跡である。日本の城は集落を原型としてさまざまに発展し、戦国時代(15世紀半ば〜16世紀末)に最盛期を迎える。建築物として美しい天守に目を奪われがちだが、構造や形式の特徴や戦略上の意味合いが分かると、城がもっと面白くなる! 今回は、石垣や堀などの防御施設に焦点を当てる。

最初に、城を建てるときに必要な縄張(なわばり / 設計)について、簡単に触れよう。前編に書いた通り、城の設計は山に築くか平地に築くかなどによって変わる。例えば山城の場合、建物は基本的に頂上や尾根など、平坦な場所にしか造れない。そこで平坦部に縄を張って広さを測り、城の範囲や建物の大きさなどを設計した。これを縄張といった。

縄張を元に土塁・堀・石垣や、城の入り口を造った。縄張は城のグランドデザインだった。強固な縄張を作成した「築城名人」に加藤清正・黒田孝高(官兵衛)・藤堂高虎などが知られる。いずれも堅城を築いている。

[曲輪 / くるわ]

曲輪とは、縄張に基づいて割った「区画」のこと。中心にある本丸・二の丸・三の丸などの区画に加え、その周囲に大小の曲輪を配置して防御機能を高めた。

城の外周などに細長く設けた帯曲輪、山城の斜面に何段も築いた腰曲輪など、名称もさまざまだった。いくつもの曲輪を持つことで、本丸への敵の侵攻を防いだのである。兵糧を備蓄したり、馬を飼ったりする曲輪もあった。

曲輪・小田原城1644年(正保元)年作成の『正保城絵図』に描かれた小田原城(神奈川県)。①本丸、②二の丸の他、③〜⑨まで9つの曲輪がある。国立公文書館所蔵1644(正保元)年作成の『正保城絵図』に描かれた小田原城(神奈川県)。①本丸、②二の丸の他、③〜⑨まで9つの曲輪がある。国立公文書館所蔵

[堀と土塁]

堀は曲輪の周囲に巡らせた防御の要であり、これもさまざまな種類があった。山の斜面に下から上に掘った竪(たて)堀は、敵が横方向に動くことを封じた。これを連続して並べたのが畝状(うねじょう)竪堀である。

また、生薬などの薬種をひく道具・薬研(やげん)に似た浅いV字型の断面の薬研堀、両岸を切立てて凹型にした箱堀、箱堀の底がU字型の毛抜堀、堀がいくつもに仕切られ障子の桟(さん)のように見えた障子堀などもあった。

篠ノ丸城(兵庫県)の竪堀跡(PIXTA)
篠ノ丸城(兵庫県)の竪堀跡(PIXTA)

山中城(静岡県)には有名な障子堀がある。北条氏の城だった。(PIXTA)
山中城(静岡県)には有名な障子堀がある。北条氏の城だった。(PIXTA)

堀を掘れば土が出る。その土を盛って土塁を築く。堀にはまった敵は、土塁の上から攻撃を受けた。土塁の傾斜角は約45度が多かったが、中には60度またはそれ以上で、岸切(きりぎし)といった壁に近い土塁もあった。

弘前城(青森県)の三の丸に残る土塁。(PIXTA)
弘前城(青森県)の三の丸に残る土塁。(PIXTA)

[石垣]

城の防御というと、一般的には石垣をイメージする方が多いだろう。しかし、石垣の城が頻繁に登場するのは戦国末期、織田信長や豊臣秀吉が造り始めたのが全国に普及してからであり、戦国の真っ只中は土塁が主流だった。

そうかといって、当初は土塁でやがて石垣に変わった…というわけでもない。戦国の城造りはとにかく急を要するケースが多かったため、身近にあった素材=土を利用することが多かったのであり、部分的には石垣もあった。

これが信長以降は計画的に城を造るケースが増え、また石の積み方も進化し、次第に石垣が増えてくる。

石の加工や積み方も時代に応じて変わった。「野面積み」は、自然のままの石を積む方法で、大きさが不統一なため排水性に長けていた。

浜松城の野面積みの石垣(PIXTA)
浜松城の野面積みの石垣(PIXTA)

次に現れたのが「打ち込み接(は)ぎ」。角を削った石を積むため隙間が少なく、急勾配の石垣を築くのに適していた。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い後は、こうした石垣が主流になったという。

打ち込み接ぎの傑作と言われる伊賀上野城の高石垣(PIXTA)
打ち込み接ぎの傑作と言われる伊賀上野城の高石垣(PIXTA)

さらに「切り込み接ぎ」は、石を四角に削って積む。これはさらに隙間がないので、排水口は別にあった。

江戸城本丸上梅林門の石垣 切り込み接ぎ(PIXTA)
江戸城本丸上梅林門の石垣 切り込み接ぎ(PIXTA)

なお、上記3種の積み方の呼び名は江戸中期の文献に出てくるのが初出であり、戦国末期にあったわけではない。

[虎口 / こぐち]

虎口とは城の入り口のことで、敵が最も侵入しやすい危険な場所だ。入り口は小さい方が良いため本来は「小口」と呼ばれたが、危険な場所を「虎口(ここう)」ということもあり、いつしか「虎口(こぐち)」に転訛したという。

虎口は罠だった。敵は入り口から猛烈な勢いで入ってくる。だが、道を屈曲させると、侵入スピードが落ちたり渋滞したりする。そこを、周囲の櫓や壁に設けた狭間(さま / 窓や穴)から鉄砲で撃ったり、矢を射かけたりするのである。この屈曲した虎口が「喰違(くいちがい)虎口」である。

八王子城(東京都)の喰違虎口。御主殿(中央上)まで屈曲しているのが分かる。しかも登り。(PIXTA)
八王子城(東京都)の喰違虎口。御主殿(中央上)まで屈曲しているのが分かる。しかも登り。(PIXTA)

今治城(愛媛県)の枡形虎口。この四角の空間に敵を封じ込める。(PIXTA)
今治城(愛媛県)の枡形虎口。この四角の空間に敵を封じ込める。(PIXTA)

これがさらに進化し、あえて虎口に四角い空間を空け、敵をおびき出したのが「枡形(ますがた)虎口」だ。枡形は2辺が壁、1辺が入り口、もう1辺が奥に通じる門となっていた。敵は当然、門に進もうとするが、門は狭いので渋滞が起き、狙い撃ちされたのである。

[門と櫓]

虎口(入り口)に設置した門も重要だった。

日本の城の門は櫓門(やぐらもん)といって、門の上が櫓となっており、そこから敵を射撃できたケースが多い。櫓門は防御力が高いため、大手門や本丸の表門などによく見られた。

佐伯城三の丸の櫓門は、大分県に現存する城郭遺構だ。(PIXTA)
佐伯城三の丸の櫓門は、大分県に現存する城郭遺構だ。(PIXTA)

福岡城の多聞櫓は二層の櫓(左)に54メートルの長屋が連なっている。(PIXTA)
福岡城の多聞櫓は二層の櫓(左)に54メートルの長屋が連なっている。(PIXTA)

門の上に横に長い櫓を築いたものは「多聞櫓」と呼ぶ。戦国武将松永久秀が築城した多聞城(奈良市)で初めて取り入れられた形式であることからその名がついた。中に多くの兵が待機できるメリットがあった。ただし、櫓が長いと重量もあるだけに、次第に石垣の上に設けるケースが増え、門と分離した独立防御施設として発展していく。

バナー写真 : 熊本城の「二様の石垣」は、手前が加藤清正時代、奥が細川家時代に築かれたもの。細川家時代には「算木積み」と呼ばれる工法が開発され、より急勾配に積むことが可能になった(PIXTA)

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