日本の城 基礎講座[天守編]
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眺めるだけで人々が喜悦を覚えた安土城
「天守」とは城郭の本丸にある最も大きな櫓(やぐら)を指す。櫓は、敵の動向を見張る偵察拠点であり、そこから弓を射て敵を近付けないための防衛的な意味合いも持っていた。
1569(永禄12)年の岐阜城には大型の櫓があったが、織田信長が1576(天正4)年に築城した安土城の櫓に「天主」と名付けたことが、「天守」の始まりとされる。
同時代の出来事を記録した史料から推論すると地上6階・地下1階で、最上階は一辺が三間(約5.45メートル)の正方形。その周囲に廻縁(まわりえん)と呼ばれる縁側を設け、転落防止の高欄(こうらん / 手すり)が付いていた。最上階は信長の居住スペースで、また全階が書院造だったという。
イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスは自著『日本史』に、「ヨーロッパの塔よりも気品がある壮大な建築で、はるか遠方から眺めるだけで見る者に喜悦と満足を与えた」と記している。
信長が天守を造営した狙いは、フロイスの言葉に要約される。すなわち、これまで戦のための防御施設として築かれた城が、「天下人・信長」の権威を示す建造物となったのである。「見せる城」といってよく、畿内制覇に近づいていた信長の力を見せつけるものだった。
1582(同10)年、本能寺の変で信長を討った明智光秀が一時的に安土城に入ったものの、直後に羽柴秀吉との戦いに敗北。安土城も焼失した。天守台の礎石(土台)などの遺構が一部残っている他、発掘調査で金箔を施した瓦などが出土している。

『日本古城絵図 江州安土古城図』は江戸中期〜末期の制作だが、安土城跡を描いた図として最も古いと考えられている / 国立国会図書館所蔵
秀吉・家康と天守創建は続いた
続いて天守を築いたのが、豊臣秀吉だ。大坂城である。配下の大名に命じて5万人の人足を動員し、信長の死の3年後、1585(同13)年頃に完成させた。
『大坂夏の陣図屏風』(大阪城天守閣所蔵)などから推定される天守は、外観が五重七階の望楼型である。望楼型天守とは、1階もしくは2階を入母屋破造(いりもやづくり)と呼ばれる三角形の特別仕様の屋根で飾り、その上に周囲を見渡せる櫓のような建物を載せた形式をいう。
外観は金と黒を基調として、壁は黒漆を幾重にも塗り重ねた高級漆器のように輝いていた。飾り金具や金箔瓦を使い、瓦には精緻な彫刻も施していた。黄金をイメージカラーとした秀吉らしい。だが1615(慶長20)年、徳川家康と戦った大坂夏の陣で落城する。
1620(元和6)年、徳川幕府は大坂城の再建をはかる。しかし、豊臣の権威を象徴するものはすべて破却し、盛り土で地下に埋め、1629(寛永6)年に完成した。石垣も新しく築かれ、再利用は一切なかった。豊臣の天守は、こうして姿を消した。1984(昭和59)年の発掘調査で、豊臣期の石垣の一部が見つかっている。
一方、徳川幕府の政庁となった江戸城にも天守は築かれた。高さは推定68メートルだった。再建した推定58メートルの大坂城天守より、10メートルも高い。大坂が江戸をしのいではならなかったからである。天守とは政権のシンボルであり、他を圧していなければならなかった。(天守の高さは諸説あり)
政権が豊臣から徳川に移ったことを万人に知らしめるべく、外観も異なっていた。初代将軍・家康の天守は白漆喰で塗り固めた白亜の城で、金と黒の豊臣大坂城と明確に差別化されていた。
さらに、徳川将軍は世襲だったため、将軍が代替わりするたびに新築した。白亜の家康天守は櫓と連結した連立式天守だったが、2代秀忠に代わると取り壊され、外見は白亜のままだが天守は独立して築いた。

『江戸城御本丸御天守閣建方之図』は、1638(寛永15)年に完成した3代将軍家光時代の天守閣の構造を描いている / 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
3代家光は、また取り壊して建て替えた。今度は破風(はふ / 屋根の端に取り付けた三角形の意匠で、日本建築の特徴にひとつ)が銅張。壁も銅板、瓦も銅瓦。白亜に比べて剛健だった。
家光が没したのは、1651(慶安4)年4月20日。慣例にのっとり、天守も建て替えるはずだった。ところが1657年(明暦3年)、江戸を大惨事が襲う。一説には死者10万人を出したといわれる、明暦の大火である。このとき、天守も焼失し、その後は再建されなかった。現在、東京に残る江戸城天守台跡は、家光の時代の名残である。
三重櫓を天守に代用
さて、信長が天守を「天主」と命名したのは前述したが、織田・豊臣・徳川と創建が続いた通り、天守は本来、天の主=天下人の象徴だった。実際、徳川が天下をとって以降、島津・黒田・伊達ら有力な外様大名たちは、天守が持つ意味=天下人の権威にはばかり、創建を断念している。
また、幕府は1615(元和元)年、大名を厳しく統制する武家諸法度を公布し、「城を新たに建てることを禁止、また、既存の城を修築する場合は幕府に事前に届け出て許可を得る」と定めた。これによって再建を除き、天守の新規建造は原則的に禁止されることとなった。
現代の日本には「現存12天守」があるが、これらは武家諸法度の公布前に築いたもの、または公布後に修築した天守が現存している12城を指す。
ただし、三重櫓(やぐら)を天守の代用として、「非公式の天守」として創建を認めるケースがあった。現存12天守の弘前城(青森県)は、これに該当する。1810年(文化7)年、名目上は三重櫓として新たに築いたもので、正式には「御三階櫓」という。丸亀城(香川県)も同様だ。

弘前城の三重櫓は幕府が非公式に認めた天守だった(PIXTA)
加賀前田家の金沢城には天守があったが、1602(慶長7)年に焼失後、天守台に三重櫓を立て、その後、再焼失すると徳川に遠慮したのか再建しなかった。
日本人は城というと天守を思い浮かべるが、天守は本来、信長・秀吉、そして家康以降の徳川将軍に許された、日本の最高権力者の証しだったのである。
バナー写真:『大坂夏の陣図屏風』に描かれた秀吉が築いた大坂城 / 大阪城天守閣所蔵