意外に知らない「ニッポン入門」

忠犬ハチ公

話題・トレンド 暮らし 文化

1日当たり乗降客数200万人超の巨大ターミナル・渋谷駅。駅前広場に立つ忠犬ハチ公像は、「日本一の待ち合わせ場所」として知られている。飼い主亡き後も渋谷駅前で主人を待ち続けたハチの逸話は、いまも世界中の人々の胸を打つ。2023年はハチの生誕100年にあたる。

秋田犬(あきたいぬ)ハチの故郷は秋田県大館市

ハチのふるさとは、渋谷駅から北東へ約600キロ離れた秋田県大館市大子内(おおしない)。1923年11月、農家の斎藤義一(よしかず)氏のもと、父犬・大子内山号(おおしないやまごう)、母犬・ゴマ号の間に数匹の秋田犬が生まれた。

ちょうどその頃、東京に純系の日本犬を探している人がいた。東京帝国大学(現・東京大学)の農学部教授・上野英三郎(ひでさぶろう)博士だ。たまたま上野博士の教え子が秋田県で働いており、そのツテで斎藤氏から子犬を1頭譲り受けることになった。

秋田犬とは、秋田県原産の日本犬の一種で、国の天然記念物に指定されている。大型犬ながらおっとりした表情とふわふわの毛並み、さらに飼い主への忠誠心の高さから世界中に熱烈なファンを持つ。

ちなみに、秋田犬のルーツは江戸時代初期の1630年代にさかのぼる。秋田藩主・佐竹家の一族で大館城の城代(じょうだい)を務めていた小場家の当主が、家臣らの闘志を養うため闘犬を奨励し、マタギ猟(北東北に古来伝わるクマ猟)に使われた犬と土着犬などを交配して生まれたといわれる。

前足の「八の字」から命名?

1924年1月のある大雪の日、生後50日ほどのオスの幼犬は風邪をひかないように米俵に包まれ、急行列車に20時間揺られて上野駅に到着。さっそく渋谷駅近くの上野邸に送られた。

実子がいなかった博士は、体が弱かった幼犬を自分のベッドの下で寝かせるなど細心の注意を払い、食事も一緒にするなど大いにかわいがった。博士がハチと名付けた由来は諸説あるが、ふんばって立つ前足が数字の「八の字」に似ていることから、とも言われる。

こうしてハチは、上野博士と八重夫人の愛情をたっぷりと受け、立派な秋田犬に成長した。そして博士が仕事に行く時はいつも、渋谷駅の改札口まで送り迎えをするようになり、ハチと博士の間に強い絆が結ばれていった。

上野博士を渋谷駅で迎える様子を模した「ハチ公と上野博士像」 東京都文京区東京大学農学部(時事)
上野博士を渋谷駅で迎える様子を模した「ハチ公と上野博士像」 東京都文京区東京大学農学部(時事)

愛する上野博士との突然の別れ

ところが――。ハチが上野博士に飼われ始めて16カ月が過ぎた1925年、突然の別れが訪れた。5月21日、いつも通りハチに見送られて出勤した博士は、大学での教授会終了後、脳出血で倒れ急死してしまう。享年53歳。

忠犬ハチ公(時事)
忠犬ハチ公(時事)

夕方、渋谷駅に迎えに行ったハチは博士に会えないまま上野邸に戻る。そして上野博士の最後の着衣が置かれた物置内にこもった。主人の不幸を察したのか、与えられた食事も口にできないほど元気がなく、その状態は3日間続いたという。

事情により渋谷の家を相続できなかった八重夫人は小さな借家に引っ越すことになり、知人の日本橋の呉服問屋がハチを預かることになった。やがて8キロ離れた渋谷を目指し走っていくハチの姿がたびたび見られるようになる。

続いてハチは浅草の親戚宅、さらに世田谷の八重未亡人の家で暮らしたが、渋谷行きを止めようとしなかった。その心情を思い、上野博士邸に出入りしていた植木職人、小林菊三郎氏が引き取り、旧上野邸の近くの自宅でハチの面倒を見ることになった。

ハチは毎日朝と夕、渋谷駅に出向いて改札口の前に座りこんだ。暑い日も、雨の日も、雪の日も、博士の降りてくる方向を向いてじっと座り続けた。あたかも、ここで待っていればいつか博士は戻って来る、と信じているかのように……。

世に知られるようになったのは?

こうしたハチの姿に感銘を受けたのが、日本犬保存会の創設者、斎藤弘吉(ひろきち)氏だった。斎藤は1932年、東京朝日新聞(現・朝日新聞)に「いとしや老犬物語」と題して寄稿。「今は亡き主人の帰りを待ちかねる7年間」と紹介するや、ハチは一躍国内外で知られることになる。

多くの人々が同情を寄せ、老齢となり弱りはじめていたハチを気遣い、渋谷駅の職員らも面倒を見るようになった。新聞、ラジオなどで報道され、有名になるにつれて、付近の住民たちから「ハチ公の銅像を建設しよう」という声が高まる。

1934年に入り、有志による募金運動がスタート。台座の高さ180センチ、ハチ公像の高さ162センチの立派な銅像が渋谷駅の改札口前に完成する。4月21日の除幕式にはハチも出席した。

だがその翌年の1935年、ハチはフィラリラにかかって体調を崩し、3月8日、13年(人間で90歳に相当)の一生を終え、約10年におよぶ駅で待つ日々に終止符を打った。

ハチの葬儀は3月12日、青山霊園の故・上野博士の墓畔で執り行われた。八重未亡人、渋谷駅長などの関係者、小学生ら一般人が多数参列し、ハチの死を悼み焼香した。

ハチの亡きがらは剝製にされて東京・上野公園の国立科学博物館に保存されている。また、青山霊園に眠る上野博士の墓に寄り添うように、ハチの墓碑が立てられている。

ハチ公像は太平洋戦争後半の1944年10月、国の金属類回収令により供出され、溶解されて機関車の部品となってしまうが、終戦から3年後、同じ渋谷駅前に再建された。

なぜ渋谷駅前で待ち続けたのか

戦前からハチの逸話は世界中に知られており、ヘレン・ケラーが1937年に初来日した際、渋谷駅のハチ公像を訪れ、講演先の秋田市で「秋田犬が欲しい」と懇願し、秋田県が子犬を寄贈した話は有名だ。

また、ハリウッド俳優のリチャード・ギアが主演し、2009年に公開された映画『HACHI約束の犬』は、1987年の日本映画『ハチ公物語』のリメイク作品。プロデューサーも務めたリチャード・ギアは、「初めてシナリオを読んだ時に号泣してしまった」とコメントしている。

  『ハチ公の物語』をリメイクした米映画「HACHI約束の犬」、ローマ・フィルムフェスティバルでのスクリーニング。米国俳優リチャード・ギアと、ハチ役の犬。(2009年10月16日)AFP PHOTO / Andreas SOLARO(AFP=時事)
『ハチ公の物語』をリメイクした米映画「HACHI約束の犬」、ローマ・フィルムフェスティバルでのスクリーニング。米国俳優リチャード・ギアと、ハチ役の犬。(2009年10月16日)AFP PHOTO / Andreas SOLARO(AFP=時事)

ハチを広く世に知らしめ、日本犬の愛護と研究に一生をささげた斎藤弘吉氏は、生前こう語っていた。

「死ぬまで渋谷駅を懐かしんで、毎日のように通っていたハチを、人間的に解釈すると恩を忘れない美談になるかもしれませんが、ハチの心を考えると恩を忘れない、恩に報いるなどという気持ちは少しもあったとは思えません。あったのは、ただ自分をかわいがってくれた主人への、それこそ混じりけのない、愛情だけだったと思います。ハチに限らず、犬とはそうしたものだからです。無条件な絶対的愛情なのです」

1990年代から始まった大規模再開発により高層ビルが次々と建設され、大きく変化し続ける渋谷駅エリア。そんな都会の喧騒(けんそう)の中で、ハチはきょうも静かに、駅を訪れる人たちを出迎えている。

東京・渋谷のハチ公像(時事)
東京・渋谷のハチ公像(時事)

【主な参考文献・ホームページ】

書籍

  • 『ハチ公物語―待ちつづけた犬―』(岩貞るみこ・著、講談社青い鳥文庫)
  • 『ハチ公:生誕百周年記念』(伊東真弓・著、地理・地域研究)

ホームページ

バナー写真(PIXTA)

秋田 渋谷 渋谷駅 秋田犬 ハチ公 生誕100周年