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「AIにやらせたらもったいない!」ゲーム音楽界のレジェンド、TAMAYOが語る創作の喜び

音楽

長年にわたりビデオゲームミュージック界をけん引してきたTAMAYO。単なるBGMから音楽作品へと引き上げた立役者の1人だ。クラシック音楽の教育を受け、YMOに熱中した少女がどうやってこの道に進んだか。本人に振り返ってもらった。

TAMAYO(河本圭代) KAWAMOTO Tamayo

1984年、音楽大学の作曲科を卒業しカプコンに入社。『大魔界村』など数々のアーケードゲーム向けに作曲を担当。90年、タイトーに移籍しサウンド開発部門「ZUNTATA」に所属。94年に『レイフォース』の音楽を手掛け、大ヒットを記録。2000年代半ばにタイトーを退社。以降はフリーランスとして、ゲームのほかアニメや映画の劇伴や、音楽ユニット「BETTA FLASH」など幅広い活動を展開する。

1978年に発売された「スペースインベーダー」は、社会現象にまでなったアーケードゲームの大ヒット作である。ゲーム音楽の歴史においても重要な作品であり、プレイ中に流れるサウンドはインベーダーの進行に合わせてテンポが変化するなど、非常に特徴的だった。 この独特なサウンドは多くの人の記憶に強く残り、ゲーム体験をより印象的なものにした。

以来、ゲーム音楽の分野は大きな発展を遂げていく。メロディーや音響空間を生み出す技術が進化しただけではない。ゲーム音楽そのものが作品として成熟し、その音楽性が世代から世代へと受け継がれる中で、常に新たな展望を開いてきたのである。

ビデオゲームにとって音楽が不可欠な要素となり、ヒット作を手掛けるメーカー各社は、社内に音楽制作チームを作るようになった。こうしてゲーム音楽は、当時世界を席巻していたテクノミュージックと影響を与え合いながら、独自の音楽ジャンルを形成していく。

ゲーム音楽の開拓者

そんなゲーム音楽界を発展初期からリードしてきた作曲家の1人がTAMAYO(河本圭代)。『戦場の狼』(カプコン、1986年)の軽快なマーチ、不吉なムード漂う『大魔界村』(同、88年)、テクノサウンド全開の『レイフォース』(タイトー、94年)など、一度聴いたら忘れられないメロディーの数々を生み出してきた(共作を含む)。

大学卒業後に入社したカプコンからタイトーへと移籍し、その後はフリーに。作曲したサウンドトラックは50を超える。ゲームに限らない音楽活動を展開し、40年にわたり日本の音楽シーンにユニークな足跡を刻むレジェンドでありながら、いまなお現役のミュージシャンとして活躍し続ける。

音大は出たけれど……

TAMAYOと音楽の出会いは幼児期にまでさかのぼる。音楽教室に通い、幼くして楽器の演奏や作曲を学び始めた。クラシック音楽に親しみはしたが、好んで聴いていたのではなかったという。歌謡曲、フォーク、ニューミュージックなど、人並みに流行の音楽を聴いて育った後、決定的な出会いが訪れる。

「私の⽿に深く刺さったのはYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)でした。その時初めて、⾃ら進んで⾳楽を聴き漁るようになり、コンサートにも初めて⾜を運びました」

音楽の好みがはっきりするにつれ、音楽教室に半ば強制的に通わされている感じが強まり、クラシック⾳楽を学ぶのに苦痛を覚えたという。それでも高校でその後の進路を決める際には、音楽⼤学以外の選択肢は考えにくかった。

「長く続けてきただけあって、やはり他のことより多少は秀でていましたから。ただ⾃分の中では、⼤学を出たら嫌いな⾳楽から卒業できる、そんな思いで何とか学⽣時代を乗り切った感じでした」

就職活動でも音楽以外の仕事を探した。その中にファンシーグッズ制作の会社があり、⼿書きのイラストを持参して最終⾯接に臨んだという。

「⾯接官の⽅から『これくらい絵が描ければウチではやっていけますが、⾳⼤で作曲を専攻したんですよね? ⾳楽の道には進まないんですか?』と尋ねられ、それがなぜか私には “神の声”のように聞こえて。今まで⾳楽がいかに嫌いだったかも忘れて、⾯接官に『考えてみます』と失礼な返答をしてしまっていました」

帰りに書店で⽴ち読みしたリクルート雑誌で見つけたのが、就職先となるカプコンの募集。当時はそれがゲーム会社であることすら知らなかった。TAMAYOにとって、まさに運命の1日だった。

ゲーム音楽という“異文化”

1984年、カプコンに入社したTAMAYOは、アーケードゲーム「ソンソン」や「ひげ丸」のサウンド作りに参加した。当時は、一般大衆向けのゲームに合う音楽を作るのが自分には無理なのではないかと感じていたという。

『ソンソン』(1984年)© CAPCOM
『ソンソン』(1984年)© CAPCOM

「学生時代に自分の曲を人に聴いてもらうことはありました。でもそれは、他の音楽家に向けて。つまり音楽の専門知識を共有し、暗黙のうちに理解し合える相手でした」

しかしゲーム会社で作品を評価するのは、音楽の専門知識を持たないゲームのプランナーやデザイナー、イラストレーター、エンジニアだった。

「コメントがとても辛辣(しんらつ)で。彼らを納得させられる⾳楽を作ることが、私にできるだろうかと。⼈⽣で初めて⼤きな壁に直面しました」

最初は何を提案しても却下。「数打ちゃ当たる」式に何十曲も作っては“ボツ”を受け入れてきた。その過程でTAMAYOが学んだのは、ゲームのストーリーを重視することだ。作品の世界観や雰囲気を視覚的に表現する「コンセプトアート」やビジュアルデザインを手がかりにする必要がある。ところが、音楽を依頼される段階で、物語を説明するものは簡単なメモ程度の情報しかないこともしばしばだった。

『大魔界村』(1988年)© CAPCOM
『大魔界村』(1988年)© CAPCOM

「そんな時は思い切って、盛り上がりそうなストーリーを自分で勝⼿に考えてしまう(笑)。そういう“裏のストーリー”に沿って音楽を作り上げていくんです」

まだストーリーがない段階で、企画担当から雰囲気だけ伝えられたこともあった。

「例えば、『アジアとヨーロッパの中間みたいな感じで』とか。ちょうどテレビでトルコの街を見て、参考になるかもと思って行ってみたんです。カッパドキアとかいろいろ見て回って、そこからイメージして音楽を作りました。でき上がったゲームの画面を見たら、たまたま自分が行った先の景色と同じでした(笑)」

もちろん、この境地に至るまでには無数の試行錯誤があった。

「さすがに⾧年やっていると、継続は⼒なりと⾔いますか、今では⾃分で狙ったものを確実に作れるようになりました。私の⾳楽を聴いて、物語を感じるとか、⽬の前に情景が浮かぶようだと言われると、とてもうれしいです。独特の世界観があると⾔われるのも励みになりますね」

転換点は「レイフォース」

1990年に転機が訪れる。タイトーに移籍し、その音楽部門「ZUNTATA」の一員として働くようになった。タイトーで一躍脚光を浴びたのは、94年に発売され大ヒットとなった『レイフォース』だ。

『レイフォース』(1994年) © TAITO CORPORATION.
『レイフォース』(1994年) © TAITO CORPORATION.

「そのステージ1のBGM『PENETRATION』は特に印象深いです。それまで私の制作アプローチは内向きでした。誰も作っていないような独⾃な⾳楽を作ろうと、ひたすら⾃分が満⾜する⾳楽を追求していました」

上司から指示されたのは、「キャッチーなメロディー」だったという。

「キャッチーとは何だろう……、私は悩んでしまいました。それまでメロディーラインについて考えたこともなかったのです。その結果、私は⾳楽を⼈に届けるためのメッセージとして『レイフォース』を作ることになりました。『PENETRATION』はそのカギとなる曲で、作曲方法も変えました。それ以降はすべて、独りよがりではなく、思いを届けるように作っています」

ZUNTATA [PENETRATION](レイフォース) © TAITO CORPORATION.

技術よりも大切なこと

ゲーム音楽の音源は、初期のPSG(プログラマブル・サウンド・ジェネレーター)や、それに続くFM(フリーケンシー・モデュレーション)から、現在のデジタル音源に至るまで、大きな進歩を遂げた。

「PSGが主流だった頃、同時に発音できるのは3⾳が限界だったため、作曲法といっても、3和⾳でどう美しいハーモニーを作り出すか、それをとことん追求していました。これには学⽣時代の和声の勉強が役に⽴ちました。当時はゲーム音楽も、キーボードを弾きながら、五線紙と鉛筆で作曲し、それを16進数で入力してもらっていたのです」

TAMAYOが手掛けた『戦場の狼』はFM音源を取り入れた最初期の作品だ。活躍の場をタイトーに移す頃には、音源は飛躍的に進歩し、作曲も五線紙上ではなくソフトウェアにそのまま打ち込んでいく方法になる。

「FM⾳源がいいというゲーム⾳楽好きもいますが、私は⾳の良さを追求してきました。画⾯がどんどん進化している中、⾳楽だけが昔の⾳源のままでは、より深い世界観に⼊り込めないと考えていたからです。部署全体で頑張って⾳質を上げていきました。それで⾳楽的にもより⾼度な進化を遂げられたのだと思います」

TAMAYOが若い頃は、技術的な制限があったがゆえに創造性で勝負し、それによって成長できた側面もあっただろう。テクノロジーが飛躍的に進歩した今、次世代のクリエイターに対して何を思うのか。

「音楽制作のソフトや機材は驚くほど便利になりました。でも最終的には、音楽は聴く側がどう受け取るか、それがすべてです。若い世代には、あらゆることに挑戦することが許されています。知らないことが多いのは良いことなのです。若いうちにしかできない無謀な挑戦をどんどんやってみるべきだと思います。それがキャリア中盤に確実に生きてくるはずです」

TAMAYO自身もまだ挑戦の途上にある。

「若いクリエイターの中には、⾳数をあまり使わずにシンプルな楽曲を成⽴させている人たちがいます。私は⾳を⼤量に重ねてしまう癖があるので、とてもうらやましく思っていて、⾃分の⽬標でもあります。スピード勝負で、時間をかけずに曲を作りたいですよね(笑)」

2000年代半ば以降、TAMAYOはタイトー/ZUNTATAを離れ、フリーの音楽家として新たな挑戦を続けている。新作ゲームの音楽制作に携わるほか、映画やアニメのサウンドトラックも手掛け、さらにはシンガーのCyuaと組んだ音楽ユニット「BETTA FLASH」でも活躍する。

タイトーの音楽制作部門「ZUNTATA」は、ゲームから派生した楽曲をCDやDVD、音楽配信などで多数リリースしている © TAITO CORPORATION.
タイトーの音楽制作部門「ZUNTATA」は、ゲームから派生した楽曲をCDやDVD、音楽配信などで多数リリースしている © TAITO CORPORATION.

絶えざる探求者である彼女の目に、AIによる最新技術はどう映っているのだろうか。

「コストや時間を抑えるためには有用でしょう。でも、いくらAIが曲を作ろうとも、芸術的な要素に必要なものは結局、⼼だと思うんです。⼈々は⾳楽だけを聴いているのではなくて、それを作っている⼈の⼼もあわせて聞いていているから、涙したり、喜んだりといった共感を⽣むんじゃないでしょうか。私にとっては、⾳楽を作ること⾃体がゲームで遊ぶことのように楽しいので、AIにその部分を取られちゃうなんて、もったいないと思います!」

将来、ゲーム音楽家をめざす若者には、こんなエールをおくる。

「⾳楽を作るのは⾃分の経験すべてをさらけ出す⾏為です。だから、できるだけ⼈間⼒を上げた⽅がいいと思います。⼈の⼼や思いを読み取る⼒が大切です。⼈と対⾯するのが苦⼿なら、物語を読んでもいい。でも本当の⼈間は物語のようにいかないかもしれない。挫折を味わい、それを乗り越えるのを繰り返すしかないでしょう。うれしいことだけじゃなく、悲しいこと、つらいこともいっぱい経験した⽅がいい。あとは⾳楽ツールが何とかしてくれます(笑)」

まだ浅いビデオゲーム史において、その大半を最前線で率いてきたTAMAYO。彼女がファンの記憶に刻み込んだ数々の印象的なメロディーは、ごく少数の作曲家しか成しえなかった貴重な遺産だ。これからも彼女が新たなタイトルで、私たちを夢の世界へと誘ってくれることを願いたい。こうして私たちは、その音楽に包まれながら、デジタル空間でまたひとつ危機に瀕した世界を救うのだ!

協力:株式会社タイトー/ZUNTATA

インタビュー撮影:コデラケイ
取材・文:アラストゥルエイ・チャビ=原文スペイン語(日本語編集:ニッポンドットコム多言語チーム)

バナー画像:TAMAYO/『レイフォース』© TAITO CORPORATION.(撮影:コデラケイ)

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