ニッポン偉人伝

二宮金次郎:よみがえる日本資本主義の「祖父」

歴史 経済・ビジネス

薪を背負いながら読書する少年時代の姿で有名な二宮金次郎。しかし彼が成人してから果たした偉大な功績はどこまで知られているだろうか。日本の発展に貢献した数々の経済人たちが尊敬し、海外でも評価され始めた改革者としての側面を中心に、その生涯と思想を紹介する。

二宮金次郎像の受難

江戸時代後期の著名な農政家である二宮尊徳(1787-1856。なお読みは「そんとく」で定着しているが正式には「たかのり」)。幼名の金次郎で知られ、薪を背負いながら読書に励む子ども時代の銅像や石像が、戦前にはどこの小学校でも校庭に置かれ、児童の手本とされていた。だが戦後、天皇皇后の写真や「教育勅語(教育ニ関スル勅語)」を納めた「奉安殿」と呼ばれる学校施設とともに多くが撤去された。

神奈川県小田原市の報徳二宮神社にある「少年二宮金治郎像」(画像提供:報徳博物館)
神奈川県小田原市の報徳二宮神社にある「少年二宮金治郎像」(画像提供:報徳博物館)

教育勅語は1890(明治23)年に明治天皇が発布した、近代日本教育の基本方針を示したもの。親孝行など儒教道徳を説き、天皇を中心とする国家への忠誠心を養うことを求めている。第2次大戦後、GHQ(連合国軍総司令部)が教育勅語の神聖視と奉読を禁じたため、奉安殿は瞬く間に姿を消した

金次郎像は、教育勅語と直接の関係はない。しかし、地元の篤志家らの寄付により、しばしば奉安殿の近くに建てられた。また戦前、「修身」と呼ばれた道徳の国定教科書に金次郎が孝行と勤勉の手本として取り上げられ、その挿絵を元に銅像が造られた。このため金次郎は、戦前の道徳教育と不可分とされ、像とともに一時は過去のものとなった。

教育勅語には根強い擁護論があるが、タブー視されており、復活などほぼ夢物語だ。しかし金次郎の方は、かつてのイメージを脱して、子どもの手本としてよみがえりつつある。茨城県筑西市など像を再建するところもある(※1)。2018年度から小学校の道徳教科書にも復活した。

金次郎は子どもだけでなく、その思想哲学や手法が戦前戦後の大物実業家にも手本とされてきた。24年に導入される新1万円札の肖像に選ばれた「日本資本主義の父」、渋沢栄一が深く尊敬していたのが金次郎だ。その意味で「日本資本主義の祖父」といえるかも知れない。

没落した生家と奉公先の武家を再興

金次郎は1787年、現在の神奈川県小田原市栢山(かやま)で生まれた。二宮家は富裕な農家だったが、91年に起きた水害で田畑の大部分を損失。父は5年をかけて田畑を回復したが、心身の酷使がたたり、金次郎が14歳の1800年に亡くなった。一家が極貧の暮らしに転落する中、2年後に母も世を去る。

金次郎は、16歳で伯父に養われる身となった。昼間は伯父の家業の農作業に励み、夜は寝ずに勉学に励んだ。だが、伯父は、農民に学問は不要との考えで、金次郎が油の明かりで本を読むことを浪費だとして、厳しく叱った。当時としては伯父の考えは常識だ。

金次郎が非凡なのは、荒れ地に菜種を育てて油屋に渡し、引き換えにもらった燈明油で夜の読書を続けたこと。昼間も、山に登って薪を切り、背負って歩きながら書物を読んだ。先に触れた銅像や石像は、このころの逸話がモデルとなっている。

映画『二宮金次郎』より。集めた薪を背負って帰りながら読書をする少年時代の金次郎を安藤海琴が演じた(© 映画「二宮金次郎」製作委員会)
映画『二宮金次郎』より。集めた薪を背負って帰りながら読書をする少年時代の金次郎を安藤海琴が演じた(© 映画「二宮金次郎」製作委員会)

金次郎は20歳のころ生家に戻って再興を図り、田畑の買い戻しに取り組んだ。資金を得るため他家に奉公すると同時に、買い戻した田畑で収穫した米や野菜を売ってさらに金を稼いだ。24歳で約1.4ヘクタールの農地を持つまでになり、再興に成功した。農作業と同等に現金収入を重視したことが再興を速めたとみられている。

25歳の時、小田原藩の家老、服部家の使用人となる。服部家の子息3人の勉強を助けることが役目で、藩の儒学者の屋敷に共に通った。子息の近くで講義を聴くことで、自らも学問を深めた。

服部家時代の金次郎は、使用人同士が助け合うための金融制度「五常講」を始める。互いに金を出し合い、困窮者が借りる制度で、金利も取った。参加者は儒教道徳を順守し、確実かつ早期の返済を求められた。貸し倒れがなく、利息収入が得られることから参加者は積極的に資金を提供した。

金次郎の「五常講」は1820年、小田原藩の出資で藩全体の武士を対象とする制度に発展した。世界最初の協同組合、信用組合との指摘もある。日本では後の明治時代になって「産業組合法」が成立したが、金次郎の「五常講」とドイツの「救済貸付組合」を参考にしたと言われる。

金次郎はその後、依頼を受けて服部家の財政再建を引き受け、厳しい緊縮策を実施する。その間、小田原藩主・大久保忠真に見出され、21年、藩主の分家・宇津氏の領地で、現在の栃木県にあった桜町領の立て直しを命じられた。身分制度が厳格なこの時代に、農民が藩士として登用されて領地の再興を任されるのは極めて異例なことだった。

荒廃した農村の立て直し

金次郎は1823年、妻のなみ、長男弥太郎とともに桜町領に移住し、再興に着手した。当時、桜町領を含む一帯は、土地が痩せ、作物が乏しかった。住民は怠惰で熱心に働かず、農地は荒廃し、領主の年貢収入が激減していた。

映画『二宮金次郎』より。桜町領に赴任した金次郎(合田雅吏)に苦難が待ち受ける(© 映画「二宮金次郎」製作委員会)
映画『二宮金次郎』より。桜町領に赴任した金次郎(合田雅吏)に苦難が待ち受ける(© 映画「二宮金次郎」製作委員会)

金次郎は着任に先立ち、徹底した現地調査を実施した。それを元に再興事業の期間と数値目標などを記した契約書を作成し、小田原藩と宇津家との間で取り交わすなど、かなり近代的な方法で事業をスタートしている。その後の再興事業も、近代の企業家のような思想と手法で取り組んだ。

金次郎は再興事業開始後、藩主が申し出た無償の資金供与をきっぱりと断った。それまでも桜町領には藩から補助金が下付されていたが、金次郎にしてみれば、それこそが農民の勤労意欲を削ぎ、再興を妨げる原因だった。

だが、事業にはもちろん金がいる。金次郎は、持参した自身の財産と、藩から支給された再興事業の請負費用を元手に、低利の融資制度を創設した。領民に農機具の購入費用などとして貸し出し、作物を売った利益を返済金に充ててもらった。農民の自主性と積極性を引き出すための工夫だ。

金次郎は、領民の寄り合い「芋こじ」も重んじた。里芋を桶に入れ、皮をとるために棒でかき回すことを意味するが、徹底した話し合いによる合意形成をこう呼んだ。農村では、個々の農民の勤労に加えて、共同作業が不可欠だ。用水路の整備や、村民の共同利用地「入会地」の管理は、みんなで力を合わせてやらねばならない。「芋こじ」は、共同体の結束強化の手段だった。

映画『二宮金次郎』より。農作業に不熱心だった桜町領の農民たちが金次郎の指導で次第に結束していくのだが…(© 映画「二宮金次郎」製作委員会)
映画『二宮金次郎』より。農作業に不熱心だった桜町領の農民たちが金次郎の指導で次第に結束していくのだが…(© 映画「二宮金次郎」製作委員会)

金次郎はまた、米相場を張らせた。この面で能力がありそうな領民の若者に命じ、米の収穫量を予想して売買させたのだ。桜町領は、後の36年に起きた「天保の大飢饉」の際、事前に米を買っていたため、被害は最小限にとどまった。

「移民」の奨励も金次郎が導入した改革の一つだ。当時は、米穀生産が経済の根本だが、桜町領では逃散する農民が多く、水田の3分の1が荒れ地になっていた。そこで子だくさんの地域から移住者を受け入れて労働力不足を補った。

順調にみえた桜町領の再興事業だが、途中で一度、挫折している。金次郎に反感を抱く藩の武士と領内の反対派が結束し反発したためだ。特に藩が派遣した役人との対立は激しいものだった。

金次郎はいったん桜町領を離れ、千葉県の成田山新勝寺にこもり21日間の厳しい断食修行を行った。その結果、「一円観」という真理を悟った。善悪や苦楽といった二項の対立も相対的なもので、対立者の心は動かすことができるとの信念を抱いた。

映画『二宮金次郎』より。金次郎の再興事業を妨害する小田原藩から派遣の役人・豊田正作(左、成田浬)との対決が物語の大きな見せ場(© 映画「二宮金次郎」製作委員会)
映画『二宮金次郎』より。金次郎の再興事業を妨害する小田原藩から派遣の役人・豊田正作(左、成田浬)との対決が物語の大きな見せ場(© 映画「二宮金次郎」製作委員会)

同。断食修行をやり遂げ、桜町領へと戻る金次郎を見送る成田山新勝寺の僧侶たち。貫主の照胤を田中泯が演じた(© 映画「二宮金次郎」製作委員会)
同。断食修行をやり遂げ、桜町領へと戻る金次郎を見送る成田山新勝寺の僧侶たち。貫主の照胤を田中泯が演じた(© 映画「二宮金次郎」製作委員会)

思想をリセットした金次郎の復帰後、桜町領の再興事業は円滑に進み始めた。金次郎の不在で彼の偉大さを領民が痛感したことに加え、藩派遣の役人が交代したことも大きかった。結局、桜町領の再興事業は成功した。赴任最後の31年、年貢米の収穫可能量は開始時の2倍近くに増えた。

金次郎の功績は、各地に知れ渡り、再興事業の依頼が相次ぐようになった。生涯に再興を請け負った土地は、現在の9県と北海道にまたがる600村に及ぶと言われる。

金次郎の「道徳経済一元論」

二宮金次郎は、各地の再興事業での実績に加えて、独自の哲学「報徳思想」で後世に大きな影響を残した。父母、夫婦、兄弟、天地大自然から受けている恩徳に感謝し、これに報いる行動を行うべきだという道徳思想だ。金次郎が指揮した各地の再興事業は、報徳思想に基づき行われたので「報徳仕法(しほう)」と呼ばれている。

報徳思想は「至誠」「勤労」「分度」「推譲」の4つが中心的な理念となる。このうち「分度」は、自分の収入に応じた支出の限度をあらかじめ算出すること。倹約と儲蓄(ちょちく)の基礎となる。金次郎は、個人だけでなく家や国家にも分度を求める。また、「推譲」は利他の思想。分度を守り生じた余剰は、他人や社会のために用いるよう求めた。

金次郎の高弟、福住正兄(1824-1892)は報徳思想を「道徳経済一元論」と総括している。金次郎が、克己と節制、利他主義に基づき経済活動を行えば、国家や社会の安定・繁栄に結びつくと説いているためだ。

マックス・ウェーバー(1864-1920)は、プロテスタンティズムの禁欲主義が近代資本主義の誕生を準備したと述べた。金次郎が、日本近代資本主義の形成を、思想面で準備したと言えるかも知れない。

後世と海外への影響

金次郎の報徳思想は、渋沢栄一(1840-1931)のほか、近代日本を代表する銀行家の安田善次郎(1838-1921)、繊維機械の発明家でトヨタ自動車の祖である豊田佐吉(1867-1930)、パナソニック創業者の松下幸之助(1894-1989)、京セラやKDDIの創業者である稲盛和夫(1932-)ら、近代日本を代表する実業家に受け継がれた。

金次郎の思想は、海外からも関心が持たれている。日本と中国の研究者により「国際二宮金次郎思想学会」が2003年に設立され、中国でも定期的にセミナーが開かれている。市場経済化が進む中国で、金次郎の倫理性が魅力を持つようだ(曲阜教育大のウェブサイト=中国語)。

映画『二宮金次郎』より。成田山新勝寺での断食修行から桜町領に帰還した金次郎を迎える家族と村人(© 映画「二宮金次郎」製作委員会)
映画『二宮金次郎』より。成田山新勝寺での断食修行から桜町領に帰還した金次郎を迎える家族と村人(© 映画「二宮金次郎」製作委員会)

令和に入ったばかりの日本で、劇映画『二宮金次郎』(五十嵐匠監督)が公開される。少年時代に刻苦勉励する金次郎の姿はよく知られるが、青年期以降の農政家としての金次郎にスポットを当てた劇映画は初めてという(映画の情報はこちら)。

『二宮金次郎』は、桜町領の報徳仕法を丹念に描いている。拝金主義と利己主義に傾く現代の日本人からみて、金次郎の思想と行動はとても新鮮に映る。映画の最後には、金次郎を称える明治時代の唱歌『二宮金次郎』がタイトルバックとともに流れる。「手本は二宮金次郎」のフレーズを繰り返す、年配者には懐かしい歌だ。敗戦とともに一時は消えた二宮金次郎。もはや完全復活と言ってもよい。

岡本秋睴筆『尊徳坐像』(画像提供:報徳博物館)
二宮金次郎(尊徳)— 岡本秋睴筆『尊徳坐像』(画像提供:報徳博物館)

参考文献

  • 松沢成文『教養として知って置きたい二宮尊徳』(PHP新書)
  • 三戸岡道夫『二宮金次郎の一生』(栄光出版社)
  • 小澤祥司『二宮金次郎とは何だったのか』(西日本出版社)
  • マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳、岩波文庫)

画像提供:報徳博物館(神奈川県・小田原市)

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