ニッポン偉人伝

高柳健次郎:「テレビジョンの父」スマホまで続く電子式映像表示に世界で初めて成功

科学 技術・デジタル

今から100年前、工学博士の高柳健次郎(1899~1990年)は世界初の電子式映像表示に成功し、テレビから現代のスマートフォンにまで至る技術を実現した。「テレビジョンの父」と呼ばれた人物の革新の軌跡をたどる。

21世紀にも使われる映像表示方式を実現

受像装置をのぞき込むと、「イ」の字が画面上にちゃんと崩れることなく映っているではないか。私は暗室を飛び出し、助手や先生方を大声で呼んで見てもらった。初めてテレビの画が出たと大喜びに喜んだのだった。(『テレビ事始』より)

高柳健次郎は1926年に世界で初めて電子(電気を帯びた粒子)によって映像を表示した瞬間を、後にこのように記した。浜松高等工業学校(現・静岡大工学部)助教授とはいえ、当時まだ27歳。若き研究者の喜びと興奮が伝わってくる。この時、高柳が開発に成功した技術は、20世紀を象徴する発明の1つであるテレビの実用化をもたらした。さらに21世紀の現在もテレビだけでなく、スマートフォンなどのディスプレーに利用される映像表示方式の基礎になっている。

【テレビの原理】撮影側で1枚の画像を細かい点(画素)に分解し、点ごとの光を電気に変換した信号を受信側で光に戻し、再び画像を組み立てる(現在主流のハイビジョンの場合、画素数は横1920×縦1080の約200万個)。画面上で電子ビームや信号が画素を光らせる軌跡を走査線と呼び、その本数は縦方向の画素数と一致する。被写体の動きは毎秒25~30枚の画像で再現する(今は50~60枚に進化しつつある)
【テレビの原理】撮影側で1枚の画像を細かい点(画素)に分解し、点ごとの光を電気に変換した信号を受信側で光に戻し、再び画像を組み立てる(現在主流のハイビジョンの場合、画素数は横1920×縦1080の約200万個)。画面上で電子ビームや信号が画素を光らせる軌跡を走査線と呼び、その本数は縦方向の画素数と一致する。被写体の動きは毎秒25~30枚の画像で再現する(今は50~60枚に進化しつつある)

ブラウン管を使ったテレビを思い付く

1920年代、映像を瞬時に遠隔伝送して表示させる「テレビジョン」は夢の技術であり、欧米でも盛んに研究が行われていた。例えば、25年には英国のベアード(※1) が機械式テレビの実験に成功している。機械式とは、撮影側で小さな穴の空いた「ニポー(ニプコー)の円盤」を回転させて、映像を走査(スキャン)して細かい光に分解し、それを電気信号に変えて送る方式だ。受像機ではその信号に合わせてランプの明暗を変え、円盤を同じ速度で回すことで映像を再現する。

スコットランド出身のベアードが実験に用いた機械式テレビ。ドイツのパウル・ニプコーが考案した円盤で撮像と受像の両方を行った(Science Photo Library via Reuters Connect)
スコットランド出身のベアードが実験に用いた機械式テレビ。ドイツのパウル・ニプコーが考案した円盤で撮像と受像の両方を行った(Science Photo Library via Reuters Connect)

しかし、23年にテレビの研究を始めた高柳は、解像度を上げて映像を鮮明にするには機械式では難しいと判断し、別の方法を模索。翌24年には、電子量を測るブラウン管(陰極線管)の原理を応用すれば、テレビの撮像機や受像機を実現できるのではないかと思い付く。

ブラウン管は真空放電(空気を抜いたガラス管内に高い電圧をかけると電子が流れる現象)を利用した機器で、蛍光物質が塗られた前面のガラス板に電子が当たると発光する。また、管のそばに磁石を置くと、電子ビームの方向を変えられる。高柳はブラウン管内に電子を飛ばし、電圧の変化で電子量を操作して光の明暗を変え、磁力によりビームを上下左右に移動(偏向)させて光を動かすことで、蛍光面に映像を表示できると考えた。

その後、高柳はこの電子式テレビの概念を英国のキャンベル・スウィントン(※2)が11年に論文で発表していたことを知り、自らの考えの正しさを確信する。ただ、スウィントンの研究は技術開発には役立たず、何から何まで自分で取り組まなければならなかった。

高柳はテレビ用のブラウン管を実現するため、安定した粒子を放出する電子銃や、画像の明るさに応じて電子量を制御する電極などを考案。試行錯誤の末、25年10月に東京電気(現・東芝)と共同で試作機第1号を完成させた。

出来上がったブラウン管の受像機で画像を出すのに、まだ撮像機は電子式で実現できなかったため、機械式のニポーの円盤を使うことにして装置の組み立てを開始。実験に使う被写体を「イロハ」の「イ」とすることにした。撮像機の感度の低さゆえに強烈な照明を当てなければならなかったため、熱に強い雲母板に墨で「イ」の字を書いたものを用いた。

【テレビ用ブラウン管の原理】電子は電極の働きによる電圧変化で明るさを変えつつ、磁力によりビームが上下左右に移動(偏向)して蛍光面を発光させる
【テレビ用ブラウン管の原理】電子は電極の働きによる電圧変化で明るさを変えつつ、磁力によりビームが上下左右に移動(偏向)して蛍光面を発光させる

高柳が開発した世界初のテレビ用ブラウン管(左、画面直径約13センチ、走査線の数は41本)と、受像実験で被写体とした「イ」の字が書かれた雲母版(高柳健次郎財団提供)
高柳が開発した世界初のテレビ用ブラウン管(左、画面直径約13センチ、走査線の数は41本)と、受像実験で被写体とした「イ」の字が書かれた雲母版(高柳健次郎財団提供)

いよいよ装置が完成し、機械式撮像機の円盤を回すと画像は映るが、回転が高速になると崩れてしまう。そこで、円盤の回転に合わせた同期パルス(周波)でブラウン管の電子ビームの向きを制御する方法を適用。「イ」の字が崩れることなく安定した映像(毎秒16枚)を表示できるようになり、記事冒頭に紹介した興奮の瞬間を迎えたのだった。

この実験に成功したのは26年12月25日の夜。高柳は遅くに学校を出ると、凍てつく街に新聞の号外売りの声が響くのを聞くことになる。大正天皇崩御の知らせだった。全くの偶然だが、日本で昭和という新時代が始まろうとする時に、彼も新たな一歩を踏み出した。

高柳がブラウン管で安定的な電子映像表示を実現したことは、米ベル研究所のグレー(※3)らの取り組みや、同じ米国のファーンズワース(※4)による撮像と受像をともに電子式にした実験(いずれも27年)に先立つ画期的な出来事だった。しかし、テレビの技術開発でまだ電子式が世界的な主流ではなかった中で、その後も高柳の研究に十分な資金が出ないことに変わりはなく、当時欧米で試験放送が実施され始めた機械式に目を向けるように教授から勧められさえもした。

それでも、映像の表示に複雑な操作とスピードが必要なテレビは電子式にこそ将来性があると高柳は信じ続けた。30年には1000倍明るく、画面の直径も約30センチに大きく改良したブラウン管を実現。同年に昭和天皇の視察を迎えることになり教授に昇格し、文部省から正式な研究プロジェクトに認められて助教授など十数名のスタッフを採用できた。

1926年に高柳健次郎が世界で初めて映像の電子表示に成功した時に使用した実験装置の復元模型。ニポー(ニプコー)の円盤を用いた機械式の撮像機(右)で捉えた「イ」の文字をブラウン管の受像機に映し出した(NHK放送博物館蔵)
1926年に高柳健次郎が世界で初めて映像の電子表示に成功した時に使用した実験装置の復元模型。ニポー(ニプコー)の円盤を用いた機械式の撮像機(右)で捉えた「イ」の文字をブラウン管の受像機に映し出した(NHK放送博物館蔵)

ライバルと情報交換し、全電子式を完成

高柳は新たな体制で研究を開始すると、画像を明るくするための増幅回路を開発し、微弱な光を次に画像を表示するまで貯めておく「積分方式」などを考案した。しかし、何としても撮像機を電子式にしたいと悩み、開発を進めていた。そうした中、米国でツボルキン(※5)がアイコノスコープと呼ばれる撮像管の開発に成功したことを報じたニューヨーク・タイムズ紙を1933年末に入手する。アイコノスコープは、真空内で光が当たった部分は電子が逃げるために電気が弱くなる性質(光電効果)を利用し、その弱まり具合を読み取って明暗の電気信号に変える撮像管だ。

ロシア出身のツボルキンは、米電機メーカー・ウェスチングハウスに勤務する傍ら自主的に全電子式テレビを研究。30年にRCA(米国の大手ラジオ受信機メーカーで、放送局NBCも傘下に抱えていた)に移籍し、同社会長のサーノフ(※6)によるテレビへの大規模な投資の下で、本格的に開発を行っていた。

自身も原理構造の特許を取っていたアイコノスコープの開発が成功したことを知った高柳は、34年夏に訪米してツボルキンに会いに行く。すると彼は高柳のことを既に知っていた。高柳が27年からブラウン管や撮像管の国内特許を得ていたことで、後でツボルキンが申請した特許は日本で不成立となった経緯があったからだ。2人はいわばライバルではあったが、お互い別々に開発を進める中で同じように苦労していたため、長年の知己のように情報を交換した。

高柳は自分で考えていた撮像管と同じものが実現しているのを見て、うれしさと悲しさを同時に感じたというが、帰国後に自らの積分方式によって改良したアイコノスコープを製造。撮像、受像ともに全電子式の独自システムを完成させた。ブラウン管に映し出される画像の走査線はそれまで約100本が限界だったが、撮像も電子化したことで200本以上に増加した。

改良したアイコノスコープを使って1935年に開発したカメラ(左)と高柳(高柳健次郎財団提供)
改良したアイコノスコープを使って1935年に開発したカメラ(左)と高柳(高柳健次郎財団提供)

高柳とツボルキン(右)。2人は戦後に至るまで長く交流を重ねた(高柳健次郎財団提供)
高柳とツボルキン(右)。2人は戦後に至るまで長く交流を重ねた(高柳健次郎財団提供)

テレビ放送実用化は戦争で中断

1934年に高柳は欧州にも渡航してテレビ技術の実情を調べるとともに、現地の関係者に対して自身の研究成果を説明した。そしてこの頃、国際的に開発の主流は機械式から電子式に急速に移行していく。RCAのほか、独テレフンケン、英マルコーニ・EMIといったメーカーもブラウン管受像機やアイコノスコープ撮像管の製造を進め、36年のドイツテレビと英BBC、39年の米NBCによる全電子式での放送開始につながった。

日本では、40年の東京五輪でテレビ中継放送を実施することをNHKが決定。高柳は37年にテレビ研究部長として、浜松の仲間とともに同局に移り、移動カメラや中継車、送信機の開発や放送所の建設などを急ピッチに進めた(この時までに彼らの開発した技術は走査線が441本、毎秒の画像が25~30枚に達している)。39年には東京・世田谷の技術研究所から電波を出し、中心部の内幸町にあった放送会館(当時のNHK本部)で受ける試験に成功。同年から40年にかけて、日本橋の百貨店などで放送の一般公開も行われた。

1939~40年に行われたテレビ試験放送の一般公開には多くの人々が集まった(高柳健次郎財団提供)
1939~40年に行われたテレビ試験放送の一般公開には多くの人々が集まった(高柳健次郎財団提供)

しかし、日中戦争を巡る日本の国際的孤立を背景に五輪は取りやめになり、テレビ放送の実用化は中断。さらに41年には米国との戦争に突入したため、電波を出すことも、研究することも禁じられた。高柳は太平洋戦争中、海軍でレーダーの研究に従事した。

45年に終戦を迎えたが、戦後統治に当たった連合国軍総司令部(GHQ)は、軍事技術に関係するとして国内でのテレビ研究を禁止。また軍に所属していた人間は放送・報道機関で仕事をしてはいけないとの命令により、高柳は46年に日本ビクターに移籍した。

早川電機工業(現シャープ)が1953年に発売したテレビ国内量産1号機。高柳がテレビジョン同好会の仲間らとともに策定した標準受像機規格に沿う14インチ角型ブラウン管を用いた(シャープ提供=時事)
早川電機工業(現シャープ)が1953年に発売したテレビ国内量産1号機。高柳がテレビジョン同好会の仲間らとともに策定した標準受像機規格に沿う14インチ角型ブラウン管を用いた(シャープ提供=時事)

その後、50年に研究が解禁され、NHKは試験電波を出し、民間企業は受像機を開発できることになった。高柳は放送局やメーカーの垣根を越えて技術者が集まり研さんする場として、テレビジョン同好会(現・映像情報メディア学会)を設立するなど、53年の本放送、60年のカラー本放送の開始に至るまで実用化に尽力。「テレビジョンの父」と呼ばれるようになり、61年にITU(国際電気通信連合)第1回世界テレビ祭典で功労者として表彰され、81年には日本の文化勲章も受けた。

日本ビクターでは副社長まで昇進しながらも常に研究開発の現場にいて、テレビ受像機の高性能化に役割を果たしただけでなく、VHS方式の家庭用VTR(ビデオテープレコーダー)開発に携わって世界的なビデオ普及にも貢献した。

晩年まで未来の技術を探求

ここまで高柳健次郎の研究を振り返ってきたが、彼がテレビの開発へ踏み出した原点には、東京高等工業学校(後の東京工業大、現・東京科学大)の学生時代に受けた「10年、20年後に世の中が欲しがるものを研究せよ」という同校電気科長・中村幸之助(戦後、東工大初代学長を務めた)の言葉があった。

生涯にわたって未来の技術に目を向けていた高柳。1970年の講演では、将来の薄型テレビにEL(エレクトロルミネッセンス)を用いるのが有効である可能性を早くも指摘していた。写真は81年に文化勲章を受けた時に撮影(高柳健次郎財団提供)
生涯にわたって未来の技術に目を向けていた高柳。1970年の講演では、将来の薄型テレビにEL(エレクトロルミネッセンス)を用いるのが有効である可能性を早くも指摘していた。写真は81年に文化勲章を受けた時に撮影(高柳健次郎財団提供)

その教えを胸に高柳は未来の技術を探求し続けた。東京高等工業を卒業後、横浜の神奈川工業学校(現・同県立工業高)で教師を務めながら、大学教授や外国人技術者らと面会したり、夏休みに海外航路の汽船で見習い電気技師になったりして研究テーマを探す中で、米国でのラジオ放送開始(1920年)を知り、次の技術として映像の「無線遠視(tele-vision)」を夢想するようになる。語学にも励んで海外の文献を読みあさり、フランスの雑誌に自身も思い描いていたテレビの想像図が掲載されているのを見つけると、外国に遅れてはならぬと日本のラジオ放送開始(25年)より前に研究に着手。機械式が主流だった時代にあって電子式の可能性を確信し、粘り強い開発で電子による映像表示を実現してテレビ技術を飛躍的に進化させた。

晩年には、自らが道を切り開いたブラウン管で画像を映す方式の限界と新たな電子式ディスプレーの必要性を指摘。自身の特許料収入を基に設立した高柳健次郎財団で後進の研究者を支援しながら、彼らには自らの技術を乗り越えることを訴えて、現在主流の液晶や有機ELによる映像表示の開発にもつながった。

彼の研究成果はハイビジョン、4K・8Kの超高精細映像へと受け継がれ、さらにスマホやパソコンといった現代情報端末の基盤技術として発展した。まさに10年、20年後を超え、100年後の今日に至るまで、高柳のイノベーション(技術革新)は情報化社会の根幹を支え続けている。

主な参考文献

  • 高柳健次郎『テレビ事始 イの字が映った日』(有斐閣、1986年1月)
  • 高柳健次郎「私の履歴書」(『日本経済新聞』1982年2月)
  • 新経営研究会「FMTアーカイブ、イノベーション日本の軌跡10、「イ」の字が映った!-生涯最大の感激の瞬間―高柳健次郎」(新経営研究会、2014年1月)
  • 末松安晴「情報通信技術のキーデバイスに発展した電子映像表示~高柳健次郎によるテレビジョン開拓期の初の「イ」の字のブラウン管電子映像表示とその影響~」『映像情報メディア学会誌』59巻、11号, 頁1564-1568(2005年11月)

(※1) ^ ジョン・ロジー・ベアード(John Logie Baird)

(※2) ^ アラン・アーチボルド・キャンベル・スウィントン(Alan Archibald Campbell-Swinton)

(※3) ^ フランク・グレー(Frank Gray)

(※4) ^ フィロ・ファーンズワース(Philo Farnsworth)

(※5) ^ ウラジミール・ツボルキン(Vladimir Zworykin)

(※6) ^ デビッド・サーノフ(David Sarnoff)

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