素顔のパラアスリートたち

江島大佑:パラ水泳界の第一人者が4度目の挑戦にかける思い

スポーツ 東京2020

2016年のリオ大会は体調不良で出場辞退を余儀なくされたパラ水泳の江島大佑(だいすけ)選手。現役最後のパラリンピックとなるだろう東京大会出場に向けて、強い闘志を燃やしている。

江島 大佑 EJIMA Daisuke

1986年生まれ。京都府出身。3歳で水泳を始める。13歳の時に脳梗塞で倒れ、左半身にまひが残る。テレビでシドニーパラリンピックを見て、パラ水泳の道に進むことを決意。立命館大学進学後、2004年アテネ大会に出場、銀メダルを獲得する。 06年には50メートル背泳ぎで世界記録を樹立。08年北京、12年ロンドンと3回のパラ大会に出場。13年以降は株式会社シグマクシスに所属して、競技に取り組んでいる。

パラリンピック競技の中で特に一般の注目度が高いのが水泳だ。身近なスポーツであることに加え、競技人口も多く、日本が複数のメダル獲得を期待できるからだ。そんな選手層の厚い日本パラ水泳界で “レジェンド” と称されているのが、江島大佑選手。アテネ、北京、ロンドン大会に出場し、リオへの切符も手にしていたが、大会2カ月前に体調を崩して出場を果たせなかった。2018年秋、20年東京大会の前哨戦とみなされていたアジア大会で金メダルを手にし、復活を印象付けた。

「国内無敵」のプライドをへし折られて

江島は幼い頃から水泳の練習をしてきたが、中学2年になる頃に思わぬ困難に見舞われた。五輪出場を夢見て練習に励んでいたある日、突然脳梗塞で倒れたのだ。左半身にまひが残り、以後はパラ水泳で頂点を目指してきた。その彼が、この数年で競技を巡る環境が大きく変わったと言う。

「僕がパラリンピックを目指していた十数年前は、周りのサポートはほとんどなかった。しかもパラスポーツはリハビリの一環として捉えられていたので、あまり注目されることもなかった。目指す先輩もコーチもいないし、練習メニューは全て手探り。自分で仮説を立てて試しては、効果のあるやり方を取り入れるというプロセスの繰り返しで技を磨くしかありませんでした」

高校時代、水泳部で健常者の仲間たちと一緒に練習していた江島選手は、国内のパラ水泳界では無敵だった。16歳で日本代表に選出され、2002年アルゼンチンで開催された世界選手権に「S7」クラス(文末注)で出場。そこで味わった屈辱がその後の江島選手の水泳人生に大きな影響を与えた。

「国内ではライバル不在だったので、多少周りを甘く見ていたと思います。ところが100メートル背泳ぎで英国のアンドリュー・リンゼイ選手に15秒の差をつけられてしまった。100メートルでこのタイム差はあり得ない、と大ショックでした」

しかもリンゼイ選手は試合後、あいさつしようとした江島を鼻先で笑ったと言う。江島のプライドは完膚なきまでにたたきのめされた。その一方で、「打倒アンドリュー」と闘争心が燃え上がった。

「僕のような半身まひのスイマーが周りにいなかったので、目標設定やモチベーションを高めることがうまくできませんでした。アンドリューに出会ってからは目指すべき高みがクリアになりましたね」

得意とする背泳ぎでは、試行錯誤を繰り返して独自の泳ぎ方を編み出した(写真提供:シグマクシス)
得意とする背泳ぎでは、試行錯誤を繰り返して独自の泳ぎ方を編み出した(写真提供:シグマクシス)

うれしかった“Great!”のひと言

2004年、大学1年でアテネ大会に出場。初めて体験する「世紀の祭典」のスケールの大きさや華やかさに心がざわついたものの、200メートルメドレーリレーで銀メダルを獲得した。個人種目では背泳ぎ100メートルで5位入賞だった。

「表彰台に上がったのはすごくうれしかったけれど、背泳ぎ決勝で優勝したアンドリューには3秒差をつけられてしまい、喜びも半分でしたね。世界選手権からアテネまでの2年間、必死に練習しましたが、彼も当然ながらタイムを伸ばしてきました」

すぐに次の北京大会を目指そうと心に決め、試合ごとにタイムを縮めていった。だが、またもや屈辱を味わうことになった。それまでリンゼイ選手が持っていた記録を塗り替えたものの、決勝で彼に0.5秒差で後塵(こうじん)を拝したのだ。結果は5位入賞。鉛のように重い体を引きずりながら選手控室への通路を歩いていると、英国放送協会(BBC)の取材を受けていたリンゼイ選手がインタビュアーを遮り、車いすを江島選手に向けて声を掛けた。「Great!」

江島の頑張りをしっかり意識していたのだ。「あの言葉は予想外だったから本当にうれしかった。メダルは取れなかったけれど、次を目指すモチベーションになりましたね」

ロンドン大会では、五輪の熱狂がそのままパラリンピックに引き継がれていた。英公共放送局のチャンネル4が、パラアスリートを “スーパーヒューマン” と位置づけて、連日競技を生中継していた。さすがパラリンピック発祥の国だと感銘を受けたと言う。

「50メートルバタフライで5位にしか入賞できなかったのに、観客席から『よくやった!』と声が掛かる。メダルが取れない他国の選手に対しても、温かく励ます文化が醸成されていると感動しました」

「再発すれば死」と告げられて

京都府生まれの江島選手は、両親に連れられて3歳からスイミングスクールに通った。小学高学年になると選手養成コースに入り、厳しい練習に明け暮れるようになる。

中学2年に進級したばかりの4月10日に人生が一変した。放課後に友人たちと野球を楽しみ、水泳の練習に向かいプールサイドに立った。倒れたのはその直後だ。もうろうとしながらも、救急車の中で「これで今日は練習をさぼれる」という思いがよぎったと言う。

意識が戻ったのは2日後。気が付くと左半身がまひして動かなかった。

「自分に何が起こっているのか理解できなかった。例えば交通事故なら原因がはっきりしているが、医者からは『おそらく脳梗塞、原因は不明』と言われて…。持病があるとか前兆があったなら納得もできますが、それもなかった。自分の体の左半分がまひしているという信じ難い事態への感情を、どこにぶつけたらいいのか分からなかった」

13歳の少年には、あまりにも過酷な現実だった。「あなたは今から障害者として人生をスタートしてください、ずっと車いすの生活ですと言われても、よく理解できなかった。しかも『再発の恐れがあります。その時は死を覚悟してください』と告げられ、『障害者』『死』という言葉で頭が一杯になった。もう泣くしかなかった」

だが1週間ほど泣き続けて、心の切り替えができたと言う。

「泣いていても病気が良くなるわけじゃないし、自分のエネルギーを無駄に消費しているだけだと思い直した。運動はできなくても日常生活が送れるぐらいにしたいと懸命にリハビリに取り組みました。そのかいあって、左足は万全とはいかなくても、動かせるようにはなりました」

中学2年で復学。その夏、シドニーパラリンピックで大活躍する成田真由美選手(同大会で6つの金メダルを獲得)の姿に刺激されて、パラ選手を目指すことを決意した。高校は水泳部のある私立に進学した。監督に「プールの隅で練習させてほしい」と頼むと、「障害者でも一切特別扱いはしない」と言われた。

「仲間と同じように練習し、同じように大会に出場させられました。もちろんタイムは比較にならないほど遅かったですが。でも、特別扱いされなかったおかげで、自分自身の心根にあった身障者を普通じゃないと思う気持ちは消えたし、甘えもなくなった。友達や恩師に恵まれました」

メダル獲得にかける強い思い

今は1年後に迫った東京大会出場を目指して、体幹トレーニングや練習に励む日々だ。かつてはリンゼイ選手に闘争心をかき立てられてメダルを目指したが、経験豊かな33歳のベテランとして目的意識は変わってきた。

「2020年を機に、障害者の人たちにもっとスポーツに取り組んでほしいと思います。特に水泳は浮力があるので親しみやすいはず。もっと多くの人に興味を持ってもらうためにも、僕が成田さんの活躍を見てパラ水泳に取り組んだように、今度は僕がメダルを取ってそのきっかけを作りたい」

日本社会に障害者スポーツがもっと普及することを願う江島は、東京大会が終わった後の目標も考え始めている。競技生活から退いても、後輩育成など「何らかの形で水泳に関わり続けたい」。まずは、4回目のパラ大会となる東京大会での活躍に期待したい。

注)パラ水泳は、肢体不自由、視覚障害、知的障害など、障害の種類・程度によって21クラスに分かれる。肢体不自由クラスは重度によって1~10まであり、1が一番重い障害となる。泳ぎ方の分類は「S」=自由形、背泳ぎ、バタフライ/「SB」=平泳ぎ/「SM」=メドレー

(本文中敬称略)

バナー写真:2018年10月のアジアパラで獲得した金メダル(100メートル自由形S7)と04年アテネ大会銀メダルを首に掛けた江島大佑選手

インタビュー撮影:花井 智子

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