素顔のパラアスリートたち

亡き弟に誓った東京大会出場への強い思い=パラ卓球・土井健太郎

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土井健太郎選手は、同じ先天性の骨の障害で苦しみながら共に卓球に打ち込んできた双子の弟を2015年に失った。亡き弟への誓いを果たすために、東京パラリンピック出場への高い壁に挑んでいる。

土井 健太郎 DOI Kentarō

1996年3月生まれ。静岡県出身。「骨形成不全症」で幼少時から車いすを使用。2018年3月東海大学理学部数学科卒業。パラ卓球車いすのクラスでは一番障がいが軽い「5」でプレーする。静岡県庁勤務を経て、現在はデジタルマーケティング企業のD2C所属。

いたずらっぽい表情を浮かべて、立て板に水のごとくインタビューに答える。困難を乗り越えてきた強靱(きょうじん)な精神と、大学時代に数学を専攻したほどのロジカルな思考が紡ぎ出す言葉は、聞き手を捉えて離さない。

「僕はただのひねくれ者なんですよ」

自分の性格をそう称して笑ってみせるのは、車いす卓球(クラス5)の土井健太郎(23歳)だ。2019年8月にバンコクで開催されたタイオープンではシングルスで銅メダル、団体で金メダルを獲得した。今後一層の活躍が期待される日本パラ卓球界のホープである。先天性の「骨形成不全」という難病を抱える土井は、車いすに腰掛けた身長が133センチ、体重34キロとかなり小柄だ。

肢体不自由者卓球(パラ卓球)は、障害の度合いによって1〜10に分かれ、1〜5までは車いす、6〜10は立位。数字が少ないほど障害は重い。ルールは健常者とほぼ変わらず、卓球台の高さもラケットも同じだ。車いすでは最も障害が軽いとされるクラス5には、上半身にがっしりと筋肉が付き、パワーやスピードで圧倒的に勝る外国の強豪選手が顔をそろえる。小柄できゃしゃな印象の土井がそんな相手と互角に戦えるのは、ボールの回転を工夫し、コーナーぎりぎりに攻めたり、相手の懐を深く突くなど、ボールコントロールの技術が優れているからだ。

双子の弟の遺骨を肌身離さず

「以前の僕は、努力するタイプではなかった。要領がいいというか…。でも、コツコツ地道に努力するタイプだった康太郎が19歳で亡くなってからは、僕も弟のタイプに変わったかな」。そう言いつつ、土井は首元のペンダントを大事そうに握った。「このペンダントには弟の遺骨が入っているんです。いつも一緒。片時も離したことがありません」 

1996年に静岡県富士宮市で双子の兄として生まれた。弟の康太郎と共に先天性の「骨形成不全」だった。骨がもろく折れやすいため、歩くことができない。幼児の頃はおむつを替えただけでも骨折した。土井が明るく笑いながら言う。「高校までに30回以上は体のどこかを骨折していると思います。だから、いつもギプスをはめているような状態です」

弟も同じだった。そのため両親は、常に骨折で痛がる双子の泣き声を聞いていた。ある時、大腿(だいたい)骨を折り、病院で腰から足のつま先までギプスをはめられ、親に抱きかかえられて家の玄関に入ろうとした瞬間、足先がドアに触れてしまい、また違う箇所を骨折。玄関先から再び病院に戻ったこともある。

中学2年の時にはスマッシュを決めようとして、試合中に肩甲骨を折った。「僕と弟はほとんどかわりばんこに骨折していたから、父と母は本当に大変だったと思います。骨折って結構痛いんですよ。子どもの頃は四六時中、どちらかが泣いていたんじゃないかな」

二人で東京大会決勝を目指す

物心ついた時から車いすの生活だった。小学校6年生の時、母に連れられ地元の卓球クラブに入った。車いす卓球にそれほど興味はなかったが、ピンポン球を使って大好きな野球のまねをするのが楽しかった。

中学に入学すると兄弟は卓球部に入る。これが、人生の「第1のターニングポイント」だと言う。「部の顧問が熱心だったのと、名古屋に住む障害者卓球の師匠に出会えたことが大きかった。この二人から教わった技をすぐに弟との打ち合いで試したので、上達が早かった。それが楽しくて、卓球にすっかりはまってしまいました」

だが、要領よく練習をこなす兄と、コツコツ努力を積み重ねる弟の実力差が、高校3年の時にあらわになる。康太郎が一足先に日本代表に選ばれ、国際大会に出場。土井は悔しさを飲み込み、「まあ、康太郎は努力していたから当然でしょ」とうそぶいていた。

そんな土井がそれまでの練習姿勢を改め、真剣に取り組むきっかけになったのが2013年、パラリンピック東京開催が決まったことだった。「弟と『東京の決勝は二人で争いたいね』と、どちらからともなく言葉が出ました。それが僕の人生で第2のターニングポイントですね。何となくうまくなりたいと思って取り組んでいた卓球に、パラリンピックで優勝を競いたいという明確な目標ができたんです。だからこれからは、必死で取り組もうと…」 

明確な目標はモチベーションを上げる。東海大学の理学部数学科に入って間もなく、弟と同じ車いすクラス5で日本代表に選抜された。康太郎は同じ大学の情報数理学科。受ける授業は違ったが、早く家に帰った方が夕飯の支度をし、二人で練習に没頭。互いの苦手なプレイを補い合いながら腕を磨き続けた。

2018年12月のパラ卓球「タイオープン」で(提供=D2C)
2018年12月のパラ卓球「タイオープン」で(提供=D2C)

喪失感を乗り越えて

そんな兄弟を突然不幸が見舞う。「僕の人生の一番大きなターニングポイントです。そして、きっと死ぬまで、もうこんなに大きな転機は来ないと思います」。2015年5月29日、康太郎が心臓弁膜症で亡くなったのだ。

その少し前、康太郎は大阪で行われた大会の団体戦で優勝していた。だがその頃から息切れに苦しんでいたという。病院で心臓弁膜症と診断され、即手術。だが土井は海外遠征に出発した。どちらかが入院するのは子どもの頃から当たり前の生活だったため、「すぐに(病院から)戻ってくるだろう」と考えていたからだ。海外遠征に出発する当日、手術を控える弟に「お互いに頑張ろう」と声を掛けて別れた。

手術は成功した。しかしその後容体が急変。帰国してすぐに集中治療室に駆け付けたが、弟の名前を呼んでも反応がなかった。土井は毎日声を掛け続けた―「お前の頑張りはここからだ」「こんなことにお前は負けない」

試合中の康太郎にいつも掛けていた言葉だった。だが、弟は眠りから目覚めないまま2週間後に息を引き取った。

土井の喪失感は計り知れなかった。涙が枯れるまで泣いた。

「子供の頃、みんなが校庭で遊んでいても僕たちはその輪に加われなかった。でも、康太郎がそばにいたから救われたし、寂しくもなかった。もし、一人で生まれてきたら、何かしら周りと比べてマイナスに考えてしまうことがあったかもしれない。康太郎がいて、僕がいて、二人で乗り越えてきたし頑張ってもきた。卓球も二人で切磋琢磨(せっさたくま)できたから日本代表にもなれた。康太郎を失ったことは、僕の人生で最も重い出来事でした」

土井は、葬儀の祭壇に飾られた遺影に向かってこう誓った。「東京パラリンピックでは必ず決勝戦に勝ち残り、お前と闘うつもりでやる」

諦めずに約束は果たす

悲しみを払いのけ、懸命に卓球に取り組む土井に不幸が再び襲いかかる。康太郎が亡くなってから半年後、康太郎と同じ心臓弁膜症と診断されたのだ。

「俺も死ぬのかな…」。そう思ったが、幸いにも手術が成功、容体の急変もなく命をつなげた。

それまでにこやかにパラ卓球人生を語っていた土井が、急に表情を引き締めて言う。

「やはり、自分が生かされた意味って考えますよね。僕が長く生きることによって康太郎の存在を多くの人に知ってもらいたいし、何より、弟と約束した東京パラリンピックの出場を果たさなければなりません」

東京大会に出場するには、2019年1月から20年3月までに世界ランク10位内に入っていなければならない。「ワイルドカード」(推薦枠)もあるが、土井は世界ランクでの出場を狙っている。19年10月1日現在で土井の世界ランクは31位とかなり厳しい。だが諦めるつもりは毛頭ない。

「弟との約束は必ず果たします」

東京大会まで1年を切った。どんな結果になろうとも、悔いのない戦いをしてほしいと願わずにはいられない。

東京・銀座のD2C本社で
東京・銀座のD2C本社で

(本文中敬称略)

インタビュー撮影:花井 智子

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