シリーズ「日本の仏教」

第2回:大乗仏教の登場

文化 歴史 国際・海外

ブッダ没後500年、新しい教えを説く仏教が次々に登場し、シルクロードを経て中国に伝わった。こうした新型仏教は大乗仏教と呼ばれる。シリーズ「日本の仏教」の第2回では、ブッダの教えが中国に入ってきてどのように変容したのかを解説する。

約2500年前にインドでブッダ(釈迦牟尼=しゃかむに)が創設した仏教は、その後次第に勢力範囲を広げていった。特に紀元前3世紀に現れたマウルヤ王朝3代目のアショーカ王が仏教信者になったことで、仏教は飛躍的に拡大したのである。おそらくこの時期、仏教はインド全域からスリランカにまで広まったと思われる。

スリランカでは、この時に伝わった仏教がさまざまな障害を乗り越えて、ほぼそのままの形で現在にまで伝えられている。そしてそのスリランカを経由して、東南アジアにも同じ仏教が伝わって今に至っている。従って、現在のスリランカおよび東南アジアの仏教、いわゆる「テーラワーダ仏教」は、創設期の仏教に近い形態をそのまま残している。

誰でもブッダになれる大乗仏教

一方、釈迦牟尼が亡くなっておよそ500年後、インド本土(おそらくは北西インド)において、複数の、新しい教えを説く仏教が次々に登場した。新型の仏教は、インド周辺部からシルクロードを通って中国へと伝わった。この釈迦牟尼が説いた仏教とは異なるさまざまな新型仏教をまとめて、大乗仏教と呼ぶ。

大乗仏教の特性を簡単に説明しよう。釈迦牟尼が創設した仏教では、人は出家してサンガの一員となった上で、厳格な修行生活を続けることにより、「ブッダの弟子としての悟り」を開いて涅槃(ねはん)に入ることができる、と説く。その「ブッダの弟子として悟りを開いた人」のことを阿羅漢(あらかん)と言う。阿羅漢は、悟りを開いた点ではブッダ、すなわち釈迦牟尼と同レベルの立派な身分なのだが、ブッダほどの深い慈悲心と知恵深さはない。あくまでブッダの弟子としての聖人である。本来の仏教においては、われわれ凡人は、ブッダの教えに従って阿羅漢を目指すことが唯一最上の道なのである。つまり、われわれ自身がブッダになることはできないのである。

しかし大乗仏教では、この悟りへの道の構造が根本的に変更され、「誰もがブッダとなることを目指して修行することが可能であり、ブッダへの道は広く開かれている」と主張するようになる。言葉を変えれば、「誰でもこの世で最高の聖者になることができる」と言うのである。

釈迦牟尼は経の中で、「君たちは阿羅漢を目指せ」としか言っていない。「私のようなブッダになれ」などとは決して言わないし、「そのための方法がある」などとも言っていない。従って大乗仏教の創始者たちが「誰もがブッダとなることを目指しての修行は可能だ」と主張するためには、それまでの経とは別の新たな経を創作する必要があった。それらの新たな経に共通する前提は以下のようなものである。

「私(釈迦牟尼)は、出家して修行した者は阿羅漢になることができると別の経で言ったが、それはあくまで入門としての教えである。実はこの教えの背後には、より深い真理の体系があって、その体系を理解した上で修行する者は、阿羅漢ではなくブッダになることができるのである。では今から、その究極の真理体系を説き示すからよく聞きなさい」

大乗仏教の創始者たちは、このシチュエーションを基本フォーマットにして、それぞれが考える「究極の真理体系」を釈迦牟尼の言葉として文章化した。それらが般若経、法華経(ほけきょう)、浄土経典類、密教経典類などの大乗経典である。複数の人たちがそれぞれ個別に「究極の真理体系」を考案し、それをお経として広めたので、多数存在する大乗経典は、多種多様な思想の集積体になっているのである。

本来の仏教をより魅力的にアレンジ

中国には、その多種多様な大乗仏教の経典群と、そして釈迦牟尼の説いた古い仏教とがそろって「釈迦牟尼の教え」として入ってきた。紀元1、2世紀の頃である。

まったく違った思想を語る複数の教えが、釈迦牟尼の言葉として一挙に伝わってきたため、中国の知識人たちは当初混乱したが、やがて「伝えられた教えは全て釈迦牟尼の言葉なのだが、状況に応じて浅く説いたり、深く説いたりしたので違いが出たのだ」と考えるようになった。全ての経を釈迦牟尼の言葉としながらも、そこにレベル差を設定することで、経典ごとの内容の違いを論理的に説明しようとしたのである。そして、どの経のレベルが一番高いか、つまりどの経が究極の真理を説いているのかを見極めて、それを真の仏教として受け入れようとした。

しかし当然のことながら、どの経を究極の真理として選び取るかは、読み手の個人的な判断による。異なる判断を下す人は異なる経典を選び取り、それぞれに信奉者を増やしていけば、やがて異なる経典を信奉する異なる教団が複数並び立つことになる。これが仏教の「宗派」の起源である。

釈迦牟尼の説く仏教が伝える経典と、さまざまな大乗経典とを、「全てが釈迦牟尼の言葉だ」といった前提で読んだ当時の中国人は、ほとんどが大乗経典に引かれた。なぜなら大乗経典は、本来の仏教を土台とした上で、それをより魅力的な形に変更することで創作されたものであったからだ。しかもそこに含まれる神秘的要素が、当時の中国思想と合致していた。

こうして中国仏教は、大乗仏教一色となった。宗派は多数現れたが、どれも皆、大乗仏教の仏典をベースにするものばかりである。そして釈迦牟尼が創始した本来の仏教は片隅に追いやられ、「小乗仏教」という蔑称で呼ばれることになった。

明治以前は知られていなかった釈迦牟尼の仏教

紀元6世紀、日本は中国から仏教を導入した。従って大乗仏教を真の釈迦牟尼の教えだと考える仏教国になった。それ以来、およそ1500年にわたって、日本は大乗仏教国として仏教を保持してきたのである。

日本に釈迦牟尼が説いた初期仏教の存在が本格的に紹介されるようになったのは19世紀後半、明治時代になってからである。約300年間にわたる鎖国政策が終わり、世界の情報が一挙に流入してくる中で、大乗経典を用いない別形態の仏教がスリランカや東南アジアで信奉されていることが広く知られるようになった。しかもそこで用いられている経が、パーリ語という、極めて古いインド語で書かれている事実から、「大乗経典を用いないスリランカや東南アジアの仏教こそが本来の仏教であり、大乗経典は釈迦牟尼の言葉を伝えていない」との見解が、仏教学者を中心に提示されるようになった。

現在、学術的には大乗仏教は釈迦牟尼の説いた教えではないという見解が定説となっている。しかし仏教界では、「大乗仏教は釈迦牟尼の教えではないにしても、その思想を起源として発展した点で、正当な仏教である」といった解釈が定着している。

インドで釈迦牟尼によって生み出された仏教が、大乗仏教の発生によって一挙に多様化し、その多様化した仏教が中国を経由して日本に入ってきたところまで、第1回、第2回で語った。次回は、6世紀の日本に仏教が初めて入ってきた時の様子を紹介し、その後、日本仏教が世界に類を見ない、極めて特殊な形態を持つようになった理由を解説していく。

バナー画像=中国重慶市にある仏教石窟「大足石刻(だいそくせっこく)」の石仏。人里から離れた場所にあったため文化大革命時の破壊活動を免れ、9世紀から13世紀までの大乗仏教の石仏がそのままの姿で残されている。1999年、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録(アフロ)

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