シリーズ「日本の仏教」

第3回:国家運営の任務を帯びた日本の初期仏教

歴史 文化

6世紀、日本は国家プロジェクトとして仏教を導入することにした。しかしその達成には、大きな困難が立ちはだかっていた。シリーズ「日本の仏教」の第3回では、中国仏教がどのような形で日本に取り入れられたのかを解説する。

仏教は中国文化圏メンバーの証し

6世紀、日本はすでに1つの国家としての自覚を持ち始めるようになっていた。中央政府内では、国家運営に関して、中国文化圏の一員となって生きていくのか、それとも外国からの影響を排除して日本独自のやり方で運営していくのかで争い、武力衝突が起きていた。この政争は前者が勝利を収め、以後、積極的に中国文化を取り入れ、中国に倣った国家運営を行っていくことになる。

その際、日本が中国文化圏に加わることを外交的に示すための手段として着目されたのが仏教である。中国と同じ仏教国になることで、日本は中国文化圏の正当なるメンバーだと示すことができると国家の要人たちは考えた。そこで、国家プロジェクトとして仏教を導入することにしたのである。

ここで、当時の中国における仏教の状況を説明しておく。1、2世紀以来、さまざまな仏教の教義がシルクロードを通って中国に入ってきており、それらのうちのどの教義を「真のブッダの教え」として選択するかによって、大乗仏教系の多種多様な宗派が生まれていた。そして6世紀頃になると、そういった異なる複数の教えを連結して1つにまとめる動きが顕著になってくる。それぞれの仏教の教義を全て受け入れながら、それらの教えに説かれた論理を整理して、広大な仏教世界を総括的に理解しようとしたのである。その代表が大乗仏教の宗派の一つ「天台宗」だった。この教えは最澄(767〜822)によって9世紀に日本に伝えられ、日本仏教のさまざまな宗派を生み出すことになるのだが、その話は別の機会に解説する。

日本が仏教導入を決定した時点で、中国生まれの新式仏教である「禅宗」はまだ目立った活動をしておらず、また、インドにおける仏教の最終形態である「密教」も本格的には中国に伝わっていなかった。禅や密教が中国で隆盛を誇るのはもう少し後のことであり、その後の日本仏教の流れに重大な影響を与えるのだが、そのことも後の回で述べる。

困難を極めたサンガの輸入

前述したように、6世紀、日本は国家プロジェクトとして仏教を導入することにした。では、「国家が正式に仏教を導入する」とは一体何を意味するのか。仏教は「仏法僧(ぶっぽうそう)」と呼ばれる3つの要素で構成されるのが伝統的な定則である。「仏」はブッダ、「法」はブッダの教えであるダルマ(法)、「僧」はブッダの教えに従って暮らす僧侶の組織であるサンガ。日本が仏教を導入するというのは、これら3要素を大陸から日本へ輸入することを意味する。全てが日本に入った時、日本は仏教国になったと見なされるのである。

最初の2つ、ブッダ(仏)と、ブッダの教え(法)の輸入は簡単である。仏は仏像であり、法は経典であるから、それらを船に乗せて日本に運んでくればそれで完了である。しかし3番目のサンガの輸入は困難を極めた。サンガとは僧侶たちが作る組織である。「日本にサンガを輸入する」とは、大陸から多くの僧侶を船で日本に連れてくることを意味するからだ。

釈迦牟尼(しゃかむに)が制定した戒律を収めた「律蔵」の規則によれば、サンガを形成するための最低人数は4人と決められている。男性4人以上で男性サンガ、女性4人以上で女性サンガとなる。しかし別の規則によって、「一般人が出家して僧侶となるためには、10人以上の僧侶の許可が必要」とされている。そのため日本でサンガを永続的に維持していくためには、律蔵に通じた10人以上の僧侶を極めて危険な船旅によって大陸から連れてこなければならない。日本が正式な仏教国にはなるための、大変に困難な課題であった。

鑑真と弟子の到着で正式な仏教国に

日本への仏教の導入に力を尽くした人物は聖徳太子(574〜662)であるが、彼の時代にはまだサンガを輸入することはできなかった。輸入できたのは仏像と経典だけであった。その後、日本各地に多くの寺院が建立され、国家安泰のためのさまざまな仏教儀礼も執り行われたが、正式なサンガはその後も長く導入されないままであった。この最後の難問が解決し、日本が正式な仏教国になったのは754年である。

当時、中国において名声高かった鑑真(688〜763)が日本からの要請に応え、布教の志に燃え、日本へ渡る決心をした。戒律の研究と実践を行う「律宗」の専門家であると同時に、さまざまな仏教思想を会得した高僧でもあった彼には大勢の弟子がいたので、10人以上の僧侶を連れてくることも十分可能であった。しかし不運なことに鑑真と弟子たちの渡航計画は、難破などの災難に何度も見舞われ、5回目の試みでようやく日本に到着することができた。その時には彼は盲目となっていた。

奈良にあった大和朝廷は、鑑真一行を国賓(こくひん)として迎えた。そして鑑真ら10人を越える僧侶たちが儀式の取り仕切り役となって、次々と日本人を仏教の僧侶にしていった。日本に正式なサンガが誕生した瞬間であり、日本が正式な仏教国になった瞬間でもあった。

国家宗教としてスタート

しかしこの後に続く朝廷の態度は、必ずしも鑑真の意向に沿うものではなかった。日本側が望んでいたのは、正式な仏教国になるための要件としてのサンガの輸入であり、その最初の出発点となる10人以上の僧侶の来日であった。この要件をクリアして正式な僧侶を自家生産できるようになれば、あとは仏教を国家運営の手段として利用するのが彼らの意向だったのである。

そのため、当然ながら、仏教導入以前から日本で広く信仰されていた神々はそのまま信仰の対象として容認され、仏教に取って代わられることはなかった。日本古来の神々と、新たに大陸から入ってきた仏が共に信仰の対象として受容されたことで、やがて両者は融合した。その結果、「同じ超越的存在が異なる姿でこの世に現れている」といった日本独自の宗教観を生み出すこととなった。この「神仏習合」という宗教観は現在の日本社会においても根強く残っている。神道と仏教の双方を、違和感なく受け入れる感覚である。

鑑真は、自分たちが礎となって日本全土に仏教が広がることを期待して来日した。しかし朝廷が望んでいたのは、国家の運営に役立つ、権力機構の一翼を担う仏教であった。こうした使命を帯びた僧侶は、国家の安泰を祈願する公式呪術師であり、大陸との文化交流を担う外交官でもあった。

国家公務員にも似た立場の僧侶が、自分たちだけでサンガをつくり、律蔵に基づく自治組織を持つことなど許されるはずがない。つまり釈迦牟尼の説いた、「サンガの中で修行生活を送ることによって自己を変革する」という理念は全く理解されなかった。さらに僧侶の側に新たな僧侶を認定する権利はなく、その認定権は国家が持っていた。僧侶の日常は、律蔵ではなく、国家の法律によって規制されたのである。奈良に根を下ろした日本最初の仏教は、国家によって運営される、国家のための宗教であった。ここが日本仏教の出発点である。次回はこうした日本仏教がどのように変容していくのかを見ていく。

バナー画像=中国江蘇省揚州市の大明寺(だいめいじ)鑑真記念堂に安置された鑑真像。記念堂は鑑真逝去1200年を記念して、日本の唐招提寺金堂を参照して設計された(PIXTA)

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