シリーズ「日本の仏教」

第6回:鎌倉新仏教の誕生

文化 社会 歴史

平安末期から鎌倉時代にかけて、天台宗を母体にしてさまざまな仏教教団が生まれ、仏教は初めて一般民衆にとっても意義ある宗教となった。さらに瞑想(めいそう)を重視する禅宗も加わり、多彩な仏教的世界を作り出していく。

天台宗を母体として新しい仏教教団が誕生

12世紀から13世紀(平安時代末期から鎌倉時代)は、日本仏教にとっての重大な転換期であった。この時期、日本仏教は、真言宗、天台宗という二大密教が貴族権力のもとで勢力を誇っていた状況から、それぞれに異なる救済方法をアピールする多くの仏教教団が並び立つ状況へと、急速に多様化したのである。現在の日本仏教を形成する宗派のほとんどが、この時期に生まれたものである。

そういった多様化の起点となったのは天台宗である。天台宗はさまざまな仏教思想の緩やかな複合体であったため、新たな仏教思想を模索する時代にあって、絶好の土壌となった。天台宗で仏教を学んだ僧侶たちの中で、そのあまりに複雑化した教義に満足できず、より強固な単一の思想を求める人たちが、天台宗の教義に組み込まれているさまざまな思想の中から特定の思想だけを抜き出し、それを「真の仏教」として提示し教団を形成する、という動きが同時多発的に起こり、複数の新興仏教教団が並び立つことになったのである。

貴族中心の狭い閉鎖世界ではなく、日本社会の全体が超越的な力による救済を求める時代となった時、仏教は初めて、一般民衆にとっても意義ある宗教となった。天台宗を母体として新たに登場した種々の仏教教団は、貴族だけでなく、武士、商人、農民といった多数の社会構成員の共感を得るようなり、一方、権力側に寄り添っていた二大密教も、そうした動きを取り込み、民衆救済をスローガンとして打ち出すようになっていった。12世紀から13世紀は、日本仏教が「苦しむ人を救う」という宗教本来の役割を真に認識するようになった時代なのである。

民衆の救済を目指した「浄土系諸教団」と「法華経(ほけきょう)信仰教団」

この時期、新たに登場した仏教教団が提唱した民衆救済方法は大きく2種類に分けられる。1つは、この世界とは隔絶した理想の世界が別の場所にあり、そこにいるブッダに願うことで、われわれもその世界に連れて行ってもらえる、という世界観。苦しみの世界から逃れる方法の提唱である。その典型は、法然(1133〜1212)や親鸞(1173〜1262)などをリーダーとする、浄土宗や浄土真宗などの「浄土系諸教団」である。

もう1つは、この世界には目に見えぬ姿でのブッダが常住しており、特定の経典を読誦(どくじゅ)したり、特定の儀礼をおこなったりすることで、ブッダが周囲の世界を安楽なものに変えてくれると信じる世界観である。すなわち信仰の力によって現状を変えようという教えである。日蓮(1222〜82)をリーダーとする「法華経信仰教団」がその代表である。

これらの先鋭化した単一の教義を主張する教団は、既存の二大密教から見れば、当然ながら自分たちの既得権を脅かすやっかいな新興宗教教団であった。したがって、これらの新たな教団が勢力を拡大する過程においては、激しい宗教間対立が生じ、各所で武力闘争や政治的迫害が行われた。しかし民衆の期待に添うかたちで教えを説く新興教団の勢いを止めることはできず、その勢力範囲は次第に広がっていった。

こうして日本仏教は、純然たる密教を教義とする真言宗、多様な仏教思想の集合体を密教的雰囲気で覆った天台宗、その天台宗の多様な仏教思想の中の特定の思想だけを取り出して教義とする複数の新興仏教教団、という三様の勢力が並び立つことになった。そして宗派間の対立や闘争を経た後、次第に棲(す)み分けが進んでいった。この分岐のプロセスを見て分かるとおり、日本仏教のベースは密教的世界観であった。

知的なライフスタイルを提唱する禅宗

そしてさらにこうした動きに禅宗が加わることになる。禅宗は、伝説上の開祖である菩提達磨(ぼだいだるま)が、5世紀から6世紀に中国で創始した新しいスタイルの仏教である。釈迦(しゃか)が説いた仏教は本来、瞑想修行によって自己を変革していくことを目的とする宗教であって、そこには修行のためのカリキュラムが定められている。誰もが等しく悟りを目指して進んでいくための道順が明確に定められていたのである。しかし禅宗は、そういった道順を「体験でしか理解することのできない、言語伝達不可能なことがら」として神秘化し、実際の修行生活においては瞑想に専心している状態そのものを重視する。禅宗は、思想や世界観よりも知的瞑想生活の方に重きを置く宗教なのである。

このような禅宗の特質は中国の知識階級に好まれ、8世紀以降、急速に広まった。そうした禅宗が12世紀から13世紀にかけて日本に本格的に伝わってきたのである。現在の日本には、臨済宗、曹洞(そうとう)宗、黄檗(おうばく)宗という三派の禅宗が存在する。このうち臨済宗と曹洞宗が、この時期に創設された。黄檗宗は、17世紀になってから隠元(1592〜1673)によって日本に伝えられた宗派である。

禅宗は知的な瞑想生活そのものを重視する仏教であるから、教えの中身に関しては確定したものを持っていない。臨済宗を創始した栄西(1141〜1215)は密教を重視していたし、曹洞宗を創始した道元(1200〜53)は「われわれは本来仏であり、瞑想によってそれを確認するのだ」という独自の思想を持っていた。思想はそれぞれに異なっていても、瞑想修行を中心に据えた、禁欲的で知的な生活形態を重視するところに禅宗の共通性があり、それが当時の武士階級を中心とした多くの知識層に受け入れられた。その後の禅宗が、最先端の中国文化を日本が取り入れるための窓口として機能したという事実や、華道、茶道、能などの日本文化と強い親近性を示すという事実も、この知的瞑想生活を根底に置く禅宗の特性をよく表している。

こうして、既存の2種類の密教に加えて、救済の宗教としての2つの「浄土系教団」と「法華経信仰教団」、知的ライフスタイルの提唱者としての禅宗という、大きく4種に大別できる仏教が新たに日本に根を下ろした。この時に確定した日本仏教の分布が、現在に至るまでおよそ800年間続いているのである。

時代を逆行し、仏教の出発点にたどりついた日本の仏教

インド発祥の仏教の歴史を、日本仏教の歴史と対比してみるのは興味深い作業である。インドでは、瞑想による自己鍛錬を基本とする釈迦の仏教から始まり、やがて、さまざまな種類の神秘力による救済を想定する大乗経典が次々と生み出されるようになった。そして最後にはそれら種々の神秘的救済を全て統括して一元化しようとする密教が登場し、それがヒンズー教と同化することによってインドの仏教は消滅した。

日本仏教は、その最終段階の密教を導入するところから出発した。つまり最後の、そして最新型の仏教から出発したのである。やがてその密教の教えでは救われないと感じた人たちが、密教以前に成立した種々の大乗思想をそのまま保存している天台宗の教義の中から、それぞれの個性に応じて単一の救済方法を選び取って独自の教団を作った。これが12世紀から13世紀にかけての日本仏教の状況である。禅宗を釈迦の仏教の大乗仏教版として見るなら、この時、釈迦の仏教も部分的に入り込んできたと考えることも可能である。日本仏教は、密教から、密教以前の大乗仏教世界へ、そして部分的にではあるが釈迦の仏教世界へと時代を逆行したのである。

この状況が現在から100年ほど前まで続いていた。そして明治期、日本が鎖国をやめ、海外の文化を積極的に取り入れ始めると、今度はスリランカや東南アジア諸国から本格的な釈迦の仏教が伝わってきた。その結果、日本仏教がもう一段階、時代を逆行し、仏教の出発点にまでたどりつくことになった。

日本仏教の歴史を、インドで誕生した仏教が歴史的に展開したプロセスの逆行現象として捉えることで、その大枠を理解することができる。このような特異な歴史の結果として現代の日本仏教は、釈迦の仏教から密教まで、ほぼすべての仏教思想を包含する複合的な宗教世界を構成しているのである。

バナー画像=愛知県犬山市の臨済宗・瑞泉寺(ずいせんじ)の専門道場で、座禅を組んで心を静める修行僧たち(読売新聞/アフロ)

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