感染症の文明史 :【第1部】コロナの正体に迫る

プロローグ:ウイルスは人類の敵? 味方?

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新型コロナウイルス感染症は、人類を未曾有(みぞう)の危機に陥らせた。21世紀文明をあざ笑うかのごとく振る舞う、原始的な生命体の暴走に人類は手をこまねくばかりだ。シリーズ「感染症の文明史」では、ウイルスとの闘いにまつわるさまざまな物語を通して、パンデミック(世界的流行)が私たちにもたらした意味を考える。

霧の中の生活

私たちは「ウイルスの霧」の中で暮らしている。過去3年間全人類を苦しめてきた新型コロナウイルスも、あるいはインフルエンザや風疹(はしか)など他の病原性ウイルスも、この霧にまぎれているはずだ。

霧を構成する粒子は極めて小さい。新型コロナウイルスは、約1万分の1ミリの大きさだ。10メートルの横断歩道にアンパンが落ちていて、そのアンパンにまぶされたケシの実が10メートルの「1万分の1」に当たる。こう言えば、ウイルスの小ささが想像できるだろうか。

こんなちっぽけな存在が、世界を巻き込む大惨事を引き起こし、人類にとって、第2次世界大戦以来最大の試練になった。ロックダウンや隔離で社会は混乱し、経済は停滞し、政治は有効な対策を打ち出せないままいたずらに試行錯誤を繰り返した。国際間でも国内でも貧富の差が拡大し、発展途上地域では飢餓人口が急増した。ついには、オリンピック史上初の延期が決まった。

高度な社会性を武器に地球を制覇した人類は、その社会性ゆえに感染が拡大し、予防のために社会と遮断される苦痛を味わった。近代科学で守られたはずの社会は、この極小の物体になすすべがなかった。

これから、約5万年におよぶ人類と新型コロナウイルスとの闘いを語る。その前に、そもそもウイルスは私たちにとってどのような存在なのか、を知る必要がある。

ウイルスは地球上のありとあらゆる場所に莫大な数が存在する。地下深くの洞窟、永久凍土層、100℃以上の熱水が噴き出す温泉、砂漠の真ん中、高山、深海底、原発のパイプ内…いない場所を探す方がむずかしい。

なぜ「霧」なのだろうか。科学者はこんな推定をしている。ウイルス粒子は大気中に1立方メートルあたり約800万個が存在する。もしも6畳間に生活しているなら、部屋の中には2億個ぐらいが漂っていることになる。土壌1グラムに約10億個。海水1立方センチには約100万個。全海洋中には、重さにしてシロナガスクジラ7500万頭に相当するウイルスがいる計算だ。

ハーバード大学で微生物学を専攻した科学ジャーナリスト、キャサリン・ウーは、地球上のウイルスの総数を、おおまかな計算として3 × 1031 (3 × 10の31乗)とする。3の後にゼロが31個も並ぶ。巨大数の世界では「300穣」とよばれる。参考までに、「地球上の砂粒の数」は320、「地球から見える星の数」は7 × 1022という推定もある。つまり、地球上のウイルスの数は、星や砂粒の数よりもはるかに多い。

ウイルスで満たされた人体

ウイルスは動物、植物、カビ、細菌…すべての生き物に寄生する。例外は、ウイルスだけといわれてきた。ところが、2008年に「ウイルスに寄生するウイルス」がパリのビルの給水タンクに生息するアメーバから発見された。このウイルスは「スプートニク・ウイルス」というソ連時代の人工衛星の名をもらった。

国際ウイルス分類委員会に登録され、名前のついたウイルスは9110種。このうちの約2400種のゲノム配列がウェブで公開されている。それぞれの生き物に異なったウイルスが寄生するから、地球上に存在するすべてのウイルスの種類は1000万種を軽く超えることになるかもしれない。

人体もウイルスで満たされている。米カリフォルニア大学サンディエゴ校のデビッド・プライドらの推定では、私たちの体には、380兆個を超えるウイルスが住みついている。ヒトの細胞は約37兆個とされるから、その10倍だ。

この多くは、「バクテリオファージ」とよばれるウイルスだ。口内、腸内、生殖器、皮膚などには、40兆もの細菌が寄生しており、彼らはそれらの細菌に取り付いている。腸内細菌などが増えすぎないように、調節する働きがあるらしい。それ以外のウイルスが何をしているのかはほとんど知られていない。

人体がウイルスの巣窟であることは、こんなことからも分かる。私たちが1分間、大声で話すとウイルスを含んだ小さなエアロゾルが1000個以上飛び散り、少なくとも8分間空中にとどまる。これらのウイルスのほとんどは人体には無害だが、もしも病原性のウイルスが混じっていれば、新型コロナの流行のような事態になるかもしれない。

東京大学の佐藤佳(さとう・けい)らは、健康な人の体にいるウイルスをはじめて網羅的に調べ上げた。その結果、少なくとも39種類のウイルスが血液、脳、心臓、大腸、肺、肝臓、筋肉など27の組織に潜んでいることを突き止めた。脳には8種類、心臓には9種類が寄生していた。

このなかにはヘルペスウイルスやC型肝炎ウイルスのように、病原性のものも含まれていた。その一方で、宿主の免疫を高めたり遺伝子が働くようにスイッチを入れたりする「味方」も存在していた。研究はまだ緒に就いたばかりで、今後の研究の進展が楽しみだ。

「生物」と「無生物」のはざまで

ウイルスが「生物」なのか、あるいは「無生物」なのか、議論はまだ決着がついていない。1932年に、電子顕微鏡によってウイルスがはじめて姿を現したとき、ほとんどの研究者は「生物」と考えた。

それ以前からさまざまな病気の原因になることが知られていたからだ。ところがその3年後に、ウイルスが有機物の「結晶」として取り出されたとき、これは生物だろうかと頭を抱えた研究者も多かった。あるときは生物のように振る舞い、あるときは物体になる。常識では考えられない存在だ。

「生物」か「無生物」かの論争は現在もつづいている。教科書の「生命」の定義には「細胞・代謝・自己複製」の3要素が必要と書かれている。だが、生命現象はきわめて多様で例外が多い上、物理学や化学などの分野の研究者も論争に参入しているので、議論はややこしい。

ちなみに私は生物派である。頑なに「無生物」を主張する友人の研究者に、こんな意地悪な質問をしてみた。「コロナウイルスを殺す目的で消毒剤がどこにでも置いてあるけど、無生物を殺すってどういうこと」。彼は困った顔をしていた。つまり、白か黒かの議論ではなく、生物の定義を見直したらいいじゃないかと思うが、何と「生物」の定義は300種以上もあり、「定義とは何か」を定義することからはじめねばならない。

ウイルスは遺伝的多様性の保管倉庫

恐ろしい感染症をもたらすウイルスは厄介者だが、実は生命系や生態系に欠くことのできない存在である証拠が次々に挙がっている。たとえば、私たちがウイルスに感染すると、遺伝子の中に侵入して自らの遺伝情報を組み込む。そうしてゲノム(DNAに含まれるすべての遺伝情報)を書き換え、進化に大きく関わってきた。私たちのゲノムの8%は、ウイルスが勝手に持ち込んで挿入したものだ。

といっても、ピンとこないだろうから、ウイルスをUSBメモリ、細胞をコンピューターと考えてほしい。だが、このUSBのコネクタもコンピューター側の差し込み口も規格がばらばらで、両者はうまくはまらない。試行錯誤の末にたまたまうまくはまると、USBに収められた情報をコンピューターに移動できる。ときには、勝手にファイルを書き換え、他のコンピューターに感染するヤツ(こちらはコンピューター・ウイルス)もいる。

「胎盤」は、哺乳類がおなかの中で子どもを育てるのに重要な器官だ。胎盤は、ウイルスが外から運び入れた遺伝子によってつくられたことが近年分かってきた。約1億6000万年前に、哺乳類の祖先にウイルスがある遺伝子を持ち込んだのが、胎盤形成のきっかけになったらしい。発見したのは東京医科歯科大学の石野史敏(いしの・ふみとし)名誉教授。世界的なセンセーションを巻き起こした。

哺乳動物の進化の過程で胎盤がつくられたのは、感染したある種のウイルスが宿主の細胞を融合させた結果だ。オーストラリアと北米にしか生息しない有袋類は、このウイルスが働かなかったために胎盤が形成されず、体外の袋で子どもを育てるようになった。

体内の胎児はウイルスによって守られていることも、2000年に明らかにされ、ウイルスに対する考えを一変させることにもなった。胎児は両親の双方から遺伝形質を受け継いでいる。だが、半分を占める胎児の父親由来の遺伝形質は母親の免疫系にとっては「異物」であり、臓器移植の際に起きる免疫反応と同じように、母体から拒絶されて胎児は生きていけないはずだ。でも胎児は無事生まれてくる。これは長い間、大きなナゾとされてきた。

その答えはウイルスの働きにあった。体内に住みついていたウイルスが活性化して、タンパク質でできた1枚の細胞膜(合胞体性栄養膜)をつくって胎児を包み込む。この細胞膜は胎児の発育に必要な栄養分や酸素は通すが、拒絶反応の担い手である母親のリンパ球が胎児の血管に侵入するのを阻止することで胎児を守っている。

また、働きバチがある種のウイルスに感染すると、急に攻撃的になって天敵のオオスズメバチに敢然と立ち向かったり、プランクトンの異常発生で起きる海の赤潮をウイルスが制御していたり、生態系でも重要な役目を担っていることも明らかになった。さらに、地球温暖化を引き起こす炭素循環にも大きく関与している証拠が挙がっている。

カナダのブリティッシュ・コロンビア大学のウイルス学者カーティ・サトルは、「ウイルスが存在しなければ、私たちも他の生物も存在しなかっただろう」といい切る。

断片的ながらウイルスの存在理由がすこしずつ解明されるのにつれて、私はこんな思いにとらわれている。生態系のなかに広大なウイルス・ワールドがあって、その入口のドアがわずかに開いたところではないか。垣間見えたのは、これまで私たちが知らなかった未踏の遺伝的多様性の「保管倉庫」である。ここには抗原、抗体、蛋白質などに関わる情報が保管され、生命進化の秘密が隠されているかもしれない。そして、癌(がん)や難病の治療に道を拓く人類の新たな財産になる可能性を秘めている。

このシリーズでは、「感染症と文明をめぐる永遠につづく闘い」の全貌を解き明かしていく。

1章 新型コロナの正体を探る:(1)コロナに酷似した130年前のパンデミック  に続く

バナー写真=ブラジルのサント・アンドレにあるスポーツ施設の中に設置された野戦病院。2021年5月17日撮影。ブラジルでは当時43万5000人以上が新型コロナウイルス感染症によって死亡しており、米国に次いで2番目の死者数を記録した(この写真は記事の内容に直接の関係はありません)(Photo by Mario Tama/Getty Images)

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