感染症の文明史 :【第1部】コロナの正体に迫る

4章 新型コロナが残したもの:(4)蚊帳の外に置かれた日本のワクチン開発

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世界各地で新型コロナワクチンが短期間で完成したのは、ワクチン開発史において驚異的なことだ。特に途上国で進められた独自のワクチン開発には目を見張るものがあった。しかし、日本はそうした世界の動きから完全に取り残されてしまった。

オックスフォード大学が運営するOur World in Data(データで見る私たちの世界)によると、新型コロナのワクチンは2023年3月現在、世界で約70%の人びとが1回以上の接種を受けている。20年1月にウイルスのDNA配列が突き止められて欧米の研究者がワクチン製造に着手、同年12月8日には集団接種がはじまって英国の90歳の女性がその第1号の接種者になった。

これだけの短期間で実用化したのは、過去のワクチン開発の歴史に照らして驚異的なことだ。インフルエンザワクチンやはしかワクチンの場合には、開発から実用化まで十数年もかかっている。この背景には遺伝子解析の技術革新や、mRNAワクチンに関する長年の研究の蓄積があった。しかし、残念ながら日本はそうした世界の動きに完全に乗り遅れてしまった。

2周遅れのワクチン開発

新型コロナの収束は、最終的にワクチンの普及に頼るしかない。だが、ウイルスは次々に変異株を生み出しワクチンを回避してくるので、ワクチンとの追いかけっこが当分の間つづくことになるだろう。

新型コロナの感染爆発以来、世界はワクチンの開発競争に入った。2023年3月4日現在、世界保健機関(WHO)は11種のワクチンを承認している。さらに137のワクチン候補が臨床試験中であり、194が臨床開発の前段階にある。すでに一部の国は、WHOの承認を待たずに計40種のワクチンの完全使用または緊急使用の許可を与えている。

過去のパンデミック(世界的大流行)では想像できないスピードで、ワクチン接種が世界的に進んでいる。ワクチン接種の規定回数を完了した人の人口に対する割合は、Our World in Dataの23年4月1日現在の国別集計によると、トップ5の1位はベトナムの92.17%、2位は中国の91.89%、3位がブラジルの88.08%、以下は韓国86.51%、日本84.46%となっている。

日本国民が接種したワクチンは、すべてがファイザー製、モデルナ製、アストラゼネカ製といった輸入ワクチンである。日本製はどこにいったのだろう。国内では塩野義製薬(大阪府大阪市)、第一三共(東京都中央区)、アンジェス(大阪府茨木市)、KMバイオロジクス(熊本市)、VLPセラピューティクス(東京都港区)の5社がワクチン開発に取り組んでいるが、依然難航している。

塩野義は22年11月、第一三共は23年1月に新型コロナワクチンの薬事承認を申請した。ファイザーなど米国勢と比べて2年遅れの申請だ。これから、有効性、安全性、副反応の程度などの確認があり、実用化の時期はまだみえてこない。

異色の科学者に託された国産ワクチン

国産第1号のワクチン開発に名乗りを上げたのは、創薬ベンチャーのアンジェス。開発を担ったのは、同社の創業者でメディカルアドバイザーを務める大阪大学・寄付講座教授の森下竜一だ。国産初のワクチン開発に着手すると発表したのは2020年3月。ちょうど、感染者が急増しはじめたころで社会不安が広がりつつあり、国産ワクチンの開発に期待が高まっていた時期だ。大阪府の吉村洋文知事は、同社とワクチン開発を推進する協定を結び、10万~20万人分を製造して21年の春から秋にかけて実用化をめざすと意気込んだ。

森下は記者会見で「DNAワクチンなら短期間に大量生産でき、緊急対策に適している」と自信たっぷりに語った。私はテレビのニュースでこの発言を聞いて、ワクチン製造をいとも簡単そうに語るのに違和感を覚えた。大阪大学医学部の助教授を務めた医師だったが、これまでワクチン開発を手がけた経験はなかったという。映画『日本独立』(2020年公開)の製作総指揮をとり、第1次小泉改造内閣の知的財産戦略本部に勤務。その後、内閣府規制改革推進会議の委員、大阪市の特別顧問、大阪・関西万博の大阪パビリオンの総合プロデューサーを務めるなど異色の科学者だ。

アンジェス社はワクチンの治験を進めてきたが、22年9月7日に開発中止を発表した。国から「ワクチン生産体制等緊急整備事業」として93億8030万円の交付金が支給されたものの、ついに実現しなかった。当初沸騰した同社の株価は急落した。開発中止の記者会見で、森下は「治験のデータを分析した結果、米ファイザー社製のワクチンなどと比べて、期待した発症予防効果が確認できず中止に踏み切った」と弁解した。

米国の科学専門誌「サイエンス」のスタッフライターであるデニス・ノーマイルは、同誌の23年2月9日号に日本のワクチン開発に関する論文を寄せている。大意は以下の通りだ。

「新型コロナのパンデミックは、日本のワクチン研究開発能力の弱さを露呈した。日本の当局が初の国産ワクチンの認可を検討しはじめたのは、多くの途上国が独自のワクチン開発をはじめてから数カ月後のことである」

「日本は困難な課題に直面している。安定した地位や報酬が得られる研究職が限られているため、若い科学者が主要な研究分野に進むのを躊躇(ちゅうちょ)している。21年に発表された新型コロナの研究論文でもっとも引用された研究者300人のリストに、日本からはわずか2人の科学者が名を連ねただけだった。対照的に研究施設がはるかに少ないイタリアと香港からは、それぞれ18人と14人がリスト入りした。ある報告によると、パンデミック前の日本の研究費は米国の2%未満で、英国、ドイツ、中国にも及ばない。このため、感染症の専門家も、この分野に進出してくる若い研究者も少なかった」

自国製ワクチン開発を成功させた途上国の気概

ノーマイルが指摘した「多くの途上国で進む独自のワクチン開発」にも触れておこう。開発している途上国は、日本よりもはるかに設備も開発費用も劣るはずだが、自国産ワクチンを成功させている。

キューバ政府はワクチンを他国に頼らず、独自に開発することを決断。国立フィンレイ・ワクチン研究所が中核になって「ソベラナ・プラス」など3種類のワクチンの開発に成功した。ファイザー社などが開発したmRNAワクチンではなく、遺伝子組み換え技術による製造法を採用した。「ソベラナ」はスペイン語で「主権者」の意味で、独自に開発したという気概が伝わってくる。

キューバ政府は、一定の治験を終えて2022年7月から成人へのワクチン接種を開始し、その後、接種対象を2歳以上の子どもにまで広げた。11月18日現在で、国民の89%が3種類のいずれかのワクチンを少なくとも1回以上接種したという。政府はどのワクチンも、発症予防の有効性が90%を超えたと発表した。WHOはまだ承認していないが、23年1月末現在、英国を含め8カ国が承認し、ベネズエラ、ベトナム、イラン、ニカラグアなどにも輸出された。

米ハーバード大学公衆衛生学部の教授らで組織する調査団が22年11月にキューバを訪れ、ワクチンの開発状況を視察した。その報告書の中で「キューバの努力は世界の発展途上国が公衆衛生上の緊急事態に対処するためのモデルケースになった」と称賛の言葉を贈った。

WHOは21年6月、インドの製薬会社バーラト・バイオテックが国立研究機関とともに開発したワクチンの「コバクシン」の緊急使用を承認した。これはウイルスの毒性をなくして、免疫をつけるために必要な成分を取り出した「不活化ワクチン」である。コバクシンは、ファイザー社が開発した2つのmRNAワクチンにつづき、WHOが承認した7番目のワクチンとなった。

インドは、21年11月にワクチンの接種を開始。22年末までに全体で21億9000万回以上が投与され、対象人口(12歳以上)の95%が1回以上の予防接種を受けた。WHOは、「この承認により、多くの貧しい国で有効なワクチンとして接種する道が開かれた」としている。

インドネシアのジョコ大統領は22年10月13日、国産ワクチン「インドバック」の国民への接種開始を宣言した。このワクチンは、国営製薬会社ビオ・ファルマが米国の大学と協力して、遺伝子組み換えタンパク質をベースにして製造した。それまでインドネシアは、ワクチンの4億回分すべてを輸入に頼っていた。

ビオ・ファルマ社は、これまでもポリオ、ジフテリア、はしかなどのワクチン製造を手がけており、153カ国・地域へのワクチン輸出の実績がある。23年内に 2000万回分のインドバックを、24年末までに1億回分を生産することを目標に掲げている。現在、同社はアフリカ諸国へのワクチン寄付を計画している。

(文中敬称略)

4章 新型コロナが残したもの:(5)世界の科学技術の潮流から取り残された日本 に続く

バナー写真=警察や憲兵隊の顔を撮影してはならないとするグローバルセキュリティー法案に抗議するため、ロックダウン中のパリのレピュブリック広場にマスクをつけた数千人の市民が押し寄せた。2021年1月30日に撮影(この写真は記事の内容に直接の関係はありません)(Photo by Kiran Ridley/Getty Images)

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