古典俳諧への招待 : 今週の一句

世中(よのなか)よ蝶々(ちょうちょう)とまれかくもあれ ― 宗因

文化 環境・自然・生物 暮らし

俳句は、複数の作者が集まって作る連歌・俳諧から派生したものだ。参加者へのあいさつの気持ちを込めて、季節の話題を詠み込んだ「発句(ほっく)」が独立して、17文字の定型詩となった。世界一短い詩・俳句の魅力に迫るべく、1年間にわたってそのオリジンである古典俳諧から、日本の季節感、日本人の原風景を読み解いていく。第16回の季題は「蝶々」。

世中(よのなか)よ蝶々(ちょうちょう)とまれかくもあれ 宗因
(1676年作)

「とまれかくもあれ」は「ともあれ、かくもあれ」を縮めた表現で、「ともかくとして」といった意味です。「世中よ、とまれかくもあれ」であれば、「世の中はともかくとして」です。その文脈に「蝶々」をほうり込んで、「蝶々止まれ」の言い回しを挟みました。「蝶々止まれ」は現代の童謡でも「ちょうちょうちょうちょう菜の葉にとまれ」と使われていますね。つまり「とまれ」の部分が掛け言葉なのです。この句をダイレクトに訳すと、「世の中のものごとはともかく置いておくとして、蝶々止まれ」となります。

発想の背景には、一般に「胡蝶の夢」と呼ばれる寓話があります。中国古代の思想書『荘子(そうじ)』に語られている話で、著者の荘周(そうしゅう)が夢の中で蝶になり、夢から覚めて人間に戻ったけれど、自分が本当は蝶々なのか人間なのか分からなくなったというものです。宗因は、「世の中のもろもろの問題は深く考えなくったっていいじゃない。蝶々みたいに遊んで暮らそうよ。人間の姿をしているのと蝶々になって飛んでいるのと、どっちが本当でどっちが夢だか分かりゃしないんだから。ほら、蝶々、この指に止まんなよ。おまえは誰の夢の中の蝶々かな」と言っているのでしょう。

宗因は、1605年生まれ1682年没の連歌師・俳諧師です。この句は、俳諧の門人の惟中(いちゅう)に与えた文章「荘子像賛(そうじぞうさん)」の結びの発句でした。

バナー画像 : PIXTA

俳句