古典俳諧への招待 : 今週の一句

世にふるもさらにしぐれのやどり哉(かな) ― 宗祇

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俳句は、複数の作者が集まって作る連歌・俳諧から派生したものだ。参加者へのあいさつの気持ちを込めて、季節の話題を詠み込んだ「発句(ほっく)」が独立して、17文字の定型詩となった。世界一短い詩・俳句の魅力に迫るべく、1年間にわたってそのオリジンである古典俳諧から、日本の季節感、日本人の原風景を読み解いていく。第55回の季題は「時雨」。

世にふるもさらにしぐれのやどり哉(かな) 宗祇
(1495年成『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)』所収)

宗祇(そうぎ、1421~1502年)は戦乱の時代に活躍した連歌師です。京都を拠点にして各地の武将のもとをめぐり歩き連歌を指導しました。この発句(ほっく)は応仁の乱の起こった1467年の冬に、戦乱を避けて下った信濃の国(現在の長野県)で詠まれたとみられます。その時、宗祇は47歳でした。

「ふる」には、宗祇自身がこの世で年を「経(ふ)る」ことと時雨が「降る」ことが掛けられています。表面上は「私は年をとったが、それでも今なお、冷たい時雨の降る空の下、あちこちに宿りながら旅をしているよ」と解釈できます。しかし「さらに」について類似を強調する語として受け取れば、別の解釈が成り立ちます。時雨はさっと降ってすぐにやむ雨ですから、「この世で長く年を経たけれど、まるで時雨に降られて短い雨宿りをするようなものだった」という意味にも読めます。つまりこの句は「人生は短い」ことを象徴しているのです。

なお、人生と時雨を対比する発想は、平安末期から鎌倉前期の歌人・二条院讃岐の「世にふるは くるしき物を 真木の屋に やすくもすぐる 初時雨かな」(新古今和歌集)がオリジナルでした。この世で「経る」のはこんなに苦しいのに、真木の屋に音を立てて「降る」初時雨はなんてやすやすと通り過ぎることでしょう。この歌を踏まえ、宗祇は時雨を人生の短さの比喩として用い、さらに「やどり」の語によって「人生は短い旅」というイメージを付け加えたのです。

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