感染症の文明史【第2部】インフルの脅威

2章 スペイン風邪:(2)世界大戦を終結させたインフル

政治・外交 社会 健康・医療

1918年春、第1次世界大戦中、西部戦線にスペイン風邪のウイルスが侵入し、ドイツ軍・連合軍、双方の戦力を奪い、それが結果的に終戦につながっていった。しかし、その後も第2波、第3波が襲い、世界中を恐怖に陥れた。

スペインにとっては迷惑な命名

第1次世界大戦の中立国スペインでは、5~6月に約800万人がインフルエンザ(インフル)に感染して国王をはじめ閣僚も倒れ、政府だけでなく行政機関の機能も麻痺(まひ)した。交戦中の多くの国々は情報統制を敷き、インフルの感染者数などの情報を外に出さなかった。しかし、中立国だったスペインだけは統制や検閲がなく、新聞は「数百万人ものスペイン人がインフルで死亡し、国王アルフォンソ13世まで感染した」と報じた。その結果、この記事が世界中のメディアに「スペイン風邪」として取り上げられることになった。スペイン政府は新聞報道に激怒して訂正を迫ったが、すでにあとの祭りだった。

このインフルは「スペインのレディ(貴婦人)」というニックネームでも一般に流布した。フランスでは、この風邪で死んだ詩人にちなんで「アポリネール病」と呼ばれた。あまりにも衝撃的に感染が広がったので、ドイツでは「電撃カタル」、キューバやフィリピンでは、こん棒の一撃という意味の「トランカソ」、ハンガリーでは「黒い鞭(むち)」と呼ばれた。

確かに病名はつけようによっては、当事者の国には気分のいいものではないだろう。「日本脳炎」も日本の起源でもなく国内ではほぼ根絶しているのに、東南アジアで流行すると、日本から持ち込まれたと報道される。気の毒なのは「川崎病」だ。この病気の発見者である川崎富作医師の名から命名されたが、川崎市の大気汚染による公害病だと誤解している人が少なくない。新型コロナでも、反中派の中にはことさら「中国ウイルス」と呼ぶ人がいた。

戦争でなく病気との戦いに敗れた

1918年春、第1次世界大戦中、フランス北東国境の西部戦線ではドイツ軍がフランス軍に猛攻をしかけていた。しかし、ドイツ軍と英仏米の連合国軍の戦闘は膠着(こうちゃく)状態に陥り、両陣営とも塹壕(ざんごう)を掘り、鉄条網を張り巡らせ、機関銃を並べた防衛線を敷いた。だが、ウイルスはこの防衛線をいとも簡単に突破した。兵士が過密な塹壕にすし詰めになり、劣悪な環境で3年半も戦いが続いたところに、インフルウイルスが侵入したのだ。

その時、ドイツ軍は100万人を超える兵士と3000門の火器を西部戦線に移動させていた。英仏両軍の4倍もの戦力によって主要な戦線で連合軍に壊滅的なダメージを与えており、米国の援軍が到着する前に勝利するのは時間の問題だった。ところが突然にドイツ軍の進撃のスピードが落ち、逆に退却を始めた。

ドイツ軍に急激にインフルがまん延し、 6月下旬には西部戦線では毎週平均500人もの死亡が出るほど爆発的な感染拡大が起こったからだ。補給線が途絶えて兵士の士気がみるみるうちに落ち、戦闘どころではなくなった。逆に、米軍の到着によって連合軍の士気は上がりドイツ軍を押し返した。

しかし、両軍ともに兵士の半数以上がインフルに感染し多くの将兵を失ったことで戦争継続が困難になり、終結が早まった。11月11日、ドイツと連合国の休戦協定が締結され、大戦は連合国の勝利に終わった。従軍した通信社記者は「これはヒトとヒトの戦いではなく、病気とヒトとの戦いでヒトが敗れた」と書いた。

戦後に発表された米国陸海軍医務局の戦後報告書によると、米軍の戦死者数は約5万3000人以上だった。それに対して、スペイン風邪による死者は6万3000人を超えた。このうちの約3万人はフランスの西部戦場に到着する前に死亡した(数字は諸説ある)。米陸軍の野戦病院の軍医が同僚に宛てたこんな手紙が、米国立公文書館に保存されている。

「兵士らはこれまでに見たことのない悪質な肺炎にかかり、症状は急激に悪化した。病院に運ばれて数時間後には、チアノーゼ(血中の酸素欠乏で皮膚が青くなる)が体全体に広がり、血の気を失いやがて死が訪れた。1人、2人、あるいは10人が死ぬのを見るのは我慢できるが、ここでは1日あたり100人以上が命を失っている。また私たちは途方もない数の看護師と医師も失った」

戦いに敗れたドイツ軍が被った打撃はさらに大きかった。最終的には約20万人の将兵をインフルで失ったと推定される。戦後、最高司令官エーリッヒ・ルーデンドルフ参謀長は「ドイツ軍が劣勢になったのは、米軍が参戦したためではない。兵士がことごとくインフルにやられ、弱り果てて武器を運ぶこともできなくなったためだ」と釈明した。

スペイン風邪がヒトラーの台頭を許した?

スペイン風邪はさまざまな影響を残した。最大のものは、第2次世界大戦のタネをまいたという見方がある。1919年4月3日、戦勝国が戦後処理を話し合うパリ講和会議が開かれた。ここで、ドイツに対する賠償請求が重要議題となった。米国のウィルソン大統領は、ドイツに過大な賠償金を強いれば戦後の平和秩序に悪影響を及ぼすとして、賠償金を求めないことを主張した。一方で、クレマンソー仏首相、ジョージ英首相はドイツへの強硬姿勢を崩さず、ドイツに2度と戦争を起こさせないためにも巨額の賠償金を課すべきだとして対立した。

会議の最中、ウィルソン大統領が突然に高熱、腹痛などの症状で倒れた。同行の医師が毒を盛られたと考えたほど深刻な事態だった。原因はスペイン風邪の感染だった。大統領は会議を欠席し4日半ベッドで過ごした。その間に会議では英仏の強硬意見が大勢になり、病気で意気消沈した大統領はこの決定をしぶしぶ受け入れた。巨額な賠償金を課せられたドイツは国内で不満が高まり、その結果、ヒトラーの台頭につながった。もしも、米大統領がスペイン風邪に感染せず自説を貫いていれば歴史は変わったかもしれない。「歴史のif」である。

猛烈な第2波が襲来

1918年に話を戻す。スペイン風邪の流行は夏にいったん収まり、このまま終息するのではないかという期待が高まった。さまざまな行動規制もマスク着用も撤廃された。だが、これは嵐の前の静けさにすぎなかった。

ヨーロッパ戦線には、英国、フランス、米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、中国、インド、西インド諸島、南アフリカ、フィジー、ポルトガルなどから 200万人もの将兵や労働者が集まってきていた。8月ごろから終戦の11月の前後にかけて、帰還兵らが母国にウイルスを持ち込んだために、それぞれの国で感染が拡大していった。

8月にはフランスのブレスト、米国のボストン、西アフリカのフリータウン(当時、英国植民地シエラレオネの首都)の3カ所の港で、ほぼ同時に感染爆発が起きた。これらのウイルスは、初期のものとは比較にならないほどに強い毒性を獲得していた。そのため、感染者は軍人から一般市民に移ってさらに多くの命を奪うことになった。

例えばブルターニュ半島に位置するフランス最西端の港ブレストは、米軍が上陸や撤退に利用していた最大の港である。ここから大西洋を渡って米ボストン港(マサチューセッツ州)に帰還した軍艦に乗っていた2人の水兵が感染していたことが分かり、ボストン市内の病院に隔離された。しかし、ここから市民の間に一挙に感染が拡大した。

ボストン市当局はマスク着用を義務化して公立学校を閉鎖。集会を制限したが、流行は大火のように燃え広がった。シカゴ(イリノイ州)では、公共の場でくしゃみや咳(せき)をした者が逮捕された。

ナッシュビル(テネシー州)でも、映画館、ダンスホール、ビリヤード場への出入りや公共の集会が禁止され、牧師さえも教会の礼拝をできなくなった。

多くの地域では生活が麻痺した。シカゴの警察官は、公共の場でくしゃみや咳(せき)をした者を逮捕した。

街は閑散として外出する人は全員がマスクを着用した。サンフランシスコでは、マスクをしていないと逮捕された。町の入り口は自警団が固めて見知らぬ人を追い返し、あちこちで小競り合いが起きた。劇場の入り口には「咳くしゃみをする者の入場禁止」の掲示が張り出された。あやしげな治療法や薬がはびこるなど、新型コロナ禍を経験した私たちにとってもはやおなじみの光景が繰り広げられた。

1918年のインフルエンザの大流行中、米国ワシントン州シアトルでマスクを着用する警察官(Photo by Gado/Getty Images)
1918年のインフルエンザの大流行中、米国ワシントン州シアトルでマスクを着用する警察官(Photo by Gado/Getty Images)

翌1919年の春にかけて、ニューヨーク市や首都ワシントンなど全米50の大都市のうち30都市でもインフルが原因とみられる死亡者が急増した。その結果、死体の引き取り手もいなくなり、自宅に放置されるケースが増えた。葬儀費用は通常の6倍にもなり、埋葬にも特別の手当てを要求されたため、やむなく遺族が自分たちで墓を掘った。低所得者の住む地域では、インフルによって稼ぎ手を奪われたために食料不足がさらに深刻化した。

1918年のインフルエンザの大流行中、赤十字社のボランティア看護師が米国カルフォルニア州のオークランド市立講堂を臨時病院として使用、多くの患者の看護をした(Photo by Underwood Archives/Getty Images)
1918年のインフルエンザの大流行中、赤十字社のボランティア看護師が米国カルフォルニア州のオークランド市立講堂を臨時病院として使用、多くの患者の看護をした(Photo by Underwood Archives/Getty Images)

西アフリカから奥地へ

シエラレオネの首都フリータウンは、ヨーロッパと南アフリカを結ぶ西アフリカ航路における石炭の補給基地として重要な港だった。1918年8月、ニュージーランドの軍艦タヒチ号が入港、港湾労働者が石炭の積み込みにあたった。ところが、航海中に乗船していた兵士らの間でインフルが集団発生していたため、ウイルスが労働者を通じて市内に広がっていった。シエラレオネでは人口の5%がインフルで死亡したと推定される。ウイルスは周辺国の港から港へと運ばれ、さらに鉄道と河川航行船によって西アフリカ内陸部へと広がった。タヒチ号はそのまま英国のプリマスに向けて出港したものの、船内では死者と患者が続出。到着した時には、1120人の兵士のうち、健康な者は262人に減っていた。タヒチ号は「死の船」として有名になった。

日本でも同様の事態が発生した。469人が乗り込んだ軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」が、1918年11月に立ち寄ったシンガポールで、一時上陸した乗組員がウイルスに感染して艦内に持ち込んだ。艦内で集団感染が発生して、乗組員の65%に当たる306人が発症して48人が死亡した。致死率は16%だった。広島県呉市の長迫(ながさこ)公園にはこの時に亡くなった殉職者の慰霊碑がある。

世界の全ての地域で発生

スペイン風邪は、上記のような流行の爆発地点から、さまざまなルートで広がっていった。欧米では戦争が終結して、各地で祝賀パレードが行われ、集会が解禁されて多くの市民が集まったために集団感染を引き起こすことになった。死者は第2波から第3波にかけて集中した。オーストラリアは港湾での検疫が効果を発揮して第1波で感染者は出なかったものの、ヨーロッパで戦っていた兵士の帰還とともに第2波の流行に巻き込まれ、約8万人に死をもたらした。

その後ヨーロッパから革命の混乱が続くロシアを通過し、シベリア鉄道によってウイルスは、イランやアジア各地に運ばれていった。インドにはアフリカ経由で侵入し、さらに中国と日本にも広がった。一方、南米には欧米から感染が広がった。最後はニュージーランドやサモアを含む南太平洋の遠く離れた島々にまで及んだ。最もひどかった西サモア(現・サモア)では人口の9割が発病し、約2割が死亡した。

インフルは1年弱で地球を1周した。1919年春の第3波は第1波よりも死亡率は高かったが、第2波ほど致命的ではなかった。第2波で集団免疫ができていたためとする見方もある。世界では第3波を最後に流行が収まった国が多かったが、一部ではその後1920年代まで持続した地域もあった。スカンジナビア半島や孤立した南大西洋の島々では、この時期にパンデミック(世界的大流行)が発生したため「第4の波」とされることもある。

スペイン風邪第1波〜第3波の感染拡大の経路

インフルは世界のほぼ全ての地域で発生したが、居住地域で流行を免れたのは、ブラジルのアマゾン河口にあるスイスほどの面積のマラホ島、南大西洋のセントヘレナ島、そして南太平洋のニューギニア島ぐらいしかなかったといわれる。

(文中敬称略)

2章 スペイン風邪:(3)日本での第1波は台湾巡業中の力士から、第2波はヨーロッパ戦線から に続く

バナー写真:1919年、第1次世界大戦の戦後処理について話し合ったパリ講和会議。左よりイタリアのオルランド首相、英国のロイド・ジョージ首相、フランスのクレマンソー首相、米国のウィルソン大統領(Photo by: Universal History Archive/Universal Images Group via Getty Images)

医療 感染症 医学 インフルエンザ ウイルス 世界史 ウイルスの正体 シリーズ感染症の文明史 インフル スペイン風邪