感染症の文明史 :【第2部】インフルの脅威

3章 鳥インフルウイルス:(3)驚異的な勢いで感染範囲を広げる「H5系」ウイルス

健康・医療 科学 環境・自然・生物

アジア風邪や香港風邪などのパンデミックを引き起こした鳥インフルウイルスは、家畜からヒトへと感染を広げた。もしこのウイルスが変異して「鳥からヒトへ」だけでなく「ヒトからヒトへ」と感染が広がる事態になれば、「感染爆発」が起きる可能性もある。

強毒のアジア風邪

他のウイルスと遺伝子を交換して「雑種」をつくる「遺伝子再集合」の恐ろしさを知るには、「アジア風邪」(1957年)、「香港風邪」(1968年)の大流行を思い出せばいい。いずれも「A型」の鳥インフルウイルスの仕業だ。40年前後の間隔をおいて流行するインフルの世界的大流行(パンデミック)を引き起こし、スペイン風邪以来、37年目に発生したのが「アジア風邪」。最初の症例は1957年2月に中国南西部の山岳地域・貴州省で報告された「H2N2」の流行だ。

「A型」インフルウイルスの出現と流行の変遷

インフル・パンデミックによる世界の感染者数と死亡者数

感染者数 死亡者数
スペイン風邪 5億〜10億人 5000万〜1億人
アジア風邪 5億人 400万人
香港風邪 5億人 400万人
ソ連風邪 70万人
豚インフル(新型インフル) 4300万~ 8900万人 12万~20万人

出典:C.W.Potter “A history of influenza” Journal Microbiology,Vol.01Issue.4,1 Oct.2001

代表的な季節性インフルによる世界の感染者数と死亡者

感染者数 死亡者数
季節性インフル(毎年) 2億4000万〜16億人 29万〜65万人

出典:C.W.Potter “A history of influenza” Journal Microbiology,Vol.01Issue.4,1 Oct.2001

日本におけるインフルエンザを死因とする死亡者数の推移

1957年後半になって第2波が中国北部、続いて流行は香港に飛び火した。英タイムズ紙は紙面で、「香港の総人口約250万人のうち、少なくとも25万人が治療を受けている」と報じた。当時の香港は第2次世界大戦後の混乱が続いていた。日本の敗戦による英国の主権回復、そして中国本土での国共内戦に伴う混乱で、大量の難民が大陸から香港に流入した。そうした難民の間でインフルが爆発的に広がった。さまざまな感染症が難民に追い打ちをかけるのは、現在のウクライナをみればよく分かる。

ここから、アジア一帯、オーストラリア、米国、ヨーロッパへと伝わり、パンデミックに発展した。世界保健機関(WHO)は、世界で100万~400万人が死亡したと推定する。原因の「H2N2」は、スペイン風邪を引き起こした当時の「H1N1」と並ぶ史上最も強毒化したインフルウイルスの1つとなった。現在ではこの2つとも「低病原性」に変わって、季節性インフルのファミリーとして扱われている。

アジア風邪の日本国内の流行は、1957年5月10日の世田谷区内の小学校から始まったとされる。5月下旬には早くも全国各地で感染が報告されるようになり、秋になると再び流行が激しくなり1958年の春先に収まった。国内では、およそ300万人が感染し、8000人近くが死亡した。感染者は小中学校の児童・生徒に集中した。

狙われる東アジア

アジア風邪から10年余。その余波が残る東アジアは再び「香港風邪(H3N2)」に狙われた。1968年7月に英国領の香港から流行が始まった。人口密度が高い香港では猛スピードで感染が拡大し、2週間で最大規模に達した。流行は約6週間続き、人口の5%にあたる約 50万人が罹患(りかん)した。

その後、流行はアジアからヨーロッパに拡大し、旧東西ドイツで死者は推定6万人に達した。ベルリンでは死者の急増で、地下鉄の構内まで死体置き場になった。葬儀屋が足りなくなったためゴミ収集業者が埋葬を請け負った。米国でも4州を除く全ての州で流行し、約500万人が感染して3万3000人が亡くなった。

日本でも香港を経由して1968年7月に名古屋港に入港した船舶の乗組員が流行の発端になった。10月に入って都内の小中学校で感染者が発生。1969年4月ごろから第2波の流行が始まり、感染者が増えるとともに学校・学級閉鎖が急増した。死亡者数は、1968年の第1波では2万人程度だったが、第2波では5万人を超える大きな被害が出た。

ニワトリの大量処分

こうした相次ぐヒトへのインフル・パンデミックの陰に隠れているが、家禽(かきん)の世界でも鳥インフルエンザは猛威を振るってきた。そうした感染のために引き起こされたニワトリの大量死や大規模な殺処分がよくニュースになる。2005 年以降、世界で 5 億羽以上の命が失われた。こうした感染症の歴史をたどると、19世紀末にはすでにヨーロッパ一帯に広がって、「家禽ペスト」として恐れられていたことが分かる。1910年代から世界各地でも発生するようになり、1971年になって「H5N1」の亜型であることが確認された。

ウイルス研究者はそれまで「H5N1」にほとんど注目してこなかった。その起源は野生のカモの間で無症状の感染を続けていた低病原性鳥インフルウイルスだが、ある時に高病原性に突然変異したと推測される。このウイルスは感染力が極めて高く、家禽が感染した場合、 48時間以内に90~100% が死に至るほどだ。

1996~97年に中国広東省で渡り鳥からガチョウに感染して、同省にいるガチョウの4割が死んだのが最初の大きなニュースになった。さらに香港に飛び火して約450万羽のニワトリが殺処分された。それが、あっというまに世界中に広がった。当時、「H5N1」は、家禽の新たな脅威として注目を集めた。日本、中国、韓国など東アジアの養鶏場から世界62カ国に感染が広がり、深刻な事態を引き起こした。

2020年から2023年にかけては、世界各地の家禽や野鳥の間で蔓延(まんえん)した。米国では2022年2月から4月にかけて、全米50州のうち47州で6840万羽の家禽が処分された。採卵用のニワトリの3分の1が処分されたため、卵の価格が2倍以上に高騰した。

農林水産省によると日本でも2022年10月から23年4月にかけて25都道府県で76件の感染が確認され、全国で飼われるニワトリの約1割に相当する1771万羽が殺処分にされた。これは過去最大の規模で、卵の卸売価格も過去最高値を更新した。日本ではヒトへの感染を防止するため、家畜伝染病予防法で鶏肉や卵などの移動を制限し、感染の可能性のあるニワトリを殺処分し鶏舎を消毒することがウイルスの致死率に関係なく義務づけられている。

その後も各国で殺処分が続いた。家畜の病気に関する国際組織・国際獣疫事務局(WOAH)によると、2022年1年間だけで5大陸67カ国で家禽と野鳥を併せて1億3100万羽以上が感染して死んだり、殺処分されたりした。

新たに家禽から哺乳類にも感染が広がってきた。2022年10月から翌1月にかけて、スペイン北西部のミンク養殖場で「H5N1」感染が確認され、飼育されていた5万2000頭が全て殺処分にされた。ペルーでは、2022年秋から翌年にかけて6万3000羽の海鳥とともに、約3万5000頭のアシカとオットセイの感染死体が回収された。チリでも2023年4月までに約1万6000頭のアシカやイルカなどの感染死体が発見された。

哺乳類における 「H5N1」感染の症例は、通常鳥のフンやその死体と直接接触したことに起因するとされる。しかし、接触した痕跡のない動物にも感染が広がっているのは不気味だ。哺乳類の中にはブタのように、ヒトに感染すると強毒性の新たな変異株を作り出す動物もいる。

ついにヒトに感染

「H5N1」からはさまざま変異株が生まれた。2004年以降、米国疾病対策予防センター(CDC)に報告されたものだけで、「H5N2」「H5N3」「H5N5」「H5N6」「H5N8」など34種もある。いずれも「遺伝子再集合」によって出現したものだ。これらをまとめて「H5系」と呼ぶ。

遺伝子再集合の起きる仕組み

鳥インフルウイルスの感染はほぼ鳥に限られるが、この中で、「H5N1」「H5N6」「H5N8」の3つがヒトへの感染例がある。「H5N1」のヒト感染は、2003年以降、中東、アフリカ、アジア、欧州など19カ国で発生し、456人の死亡者を含む864例が確認されている。「H5N6」は2014年以降、主に中国などで74人、「H5N8」は2021年に初めてロシアで確認され、7例のヒトの感染が報告されている。

ヒトへの感染は、関係者が最も恐れていた事態だ。最初の感染は、1997 年に香港でニワトリの集団感染が発生したときだった。18人が感染し、6人が死亡し、ヒトへの「H5N1」感染が報告された。2003年1月1日から2024年1月4日までに、ヒト感染症例が合計248例報告されている。このうち139例は、致死率が56%という高率だった。他の「H5系」を含めると、873人の感染者数と460人の死者数が報告されている。

鳥インフルに感染し、ハノイの国立感染症・熱帯病研究所・バックマイ病院の特別病棟で治療中の患者。2004年1月20日撮影。(Photo by Paula Bronstein/Getty Images)
鳥インフルに感染し、ハノイの国立感染症・熱帯病研究所・バックマイ病院の特別病棟で治療中の患者。2004年1月20日撮影。(Photo by Paula Bronstein/Getty Images)

ヒトへの感染は国際社会に衝撃を与えた。鳥インフルウイルスが変異して「鳥からヒトへ」だけでなく「ヒトからヒトへ」と感染が広がる事態になれば、「感染爆発」の危険性が高まる。もしパンデミックが起きた場合には、5000万人から1億5000万人の死者が出る可能性があると、WHOが2005年9月に警告を発した。こうした事態の恐ろしさは、新型コロナのパンデミックで実証ずみだ。中国奥地でコウモリからヒトに感染した段階では散発的な感染だったのが、大都市に侵入して「ヒト感染」になったことから最悪の事態を引き起こした。

2005年10月には、30カ国の政府高官による対策会議がカナダのオタワで開催された。さらに2006年7月にはロシアのサンクトペテルブルクで開催されたG8(主要国首脳会議)で、この感染対策が最優先議題になるなど、その後も国際社会では危機感が高まっている。

幸いにもWHOの警告は当たらなかったが、現在も「H5N1」の脅威は続いている。このウイルスは着々と宿主を広げているからだ。2023年には南北アメリカの14カ国で新たな「H5N1」の動物感染が報告されていることからもその感染拡大の様子が分かる。2023 年 5月にパリで開催された WHOの動物版であるWOAH総会でも、「高病原性鳥インフルの世界的制御における戦略的課題」が重要議題となった。

WOAH科学部長のグレゴリオ・トーレスはこう心配する。「野鳥や哺乳類の鳥インフル感染が、驚くべき勢いで感染範囲を拡大している。陸と海に生息する哺乳類の少なくとも26種にこのインフル感染が広がっていて、まだ気づかない新たな変異がウイルスに起きているのではないか」

(文中敬称略)

3章 鳥インフルウイルス:(4)ヒトに感染する豚インフルが出現 に続く

バナー写真:韓国で鳥インフルの流行を阻止するために埋葬されるアヒルの死骸。2003年12月22日、ソウル南東の天安で撮影(この写真は記事の内容に直接の関係はありません)(Photo by Chung Sung-Jun/Getty Images)

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