カメラの向こう側で: 小津安二郎と家族
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生誕120年、没後60年を迎えた世界的な映画監督小津安二郎。親族へのインタビューを通して、人間・小津安二郎に近づくことで、彼の映画作りについて新たな理解を得ることができた。
「世界の小津」は、甥の長井さんにとって父親のような存在だった。多くの人に愛され、家族を大切にし、同時に自らが生きた時代をフィルムに収める才能に長けていた。姪の小津亜紀子さんの伯父との記憶は幼少の頃にさかのぼる。お酒やいたずらにまつわる思い出もあった。現在、亜紀子さんは、小津の著作権を管理している。小津が生きた「昭和」は日本にとって激動の時代であり、映画という芸術世界のターニングポイントでもあった。
東京の下町生まれ
小津は、1903年12月12日、東京の下町・深川で生まれた。幼少期は父、母、兄、2人の妹と6人家族でにぎやかに暮らしていた。父親の寅之助は、当時、特に綿栽培の肥料として需要が高かった干鰯(ほしか)の商売をしていた。
1913年、家族は東京を離れ、寅之介の故郷・三重県松阪市に移り住んだ。小津は柔道に励む一方、スケッチを描いたり、日記を書いたりするのも好きだった。10代になると、できたばかりの映画館にこっそり通っては、アメリカのサイレント映画を楽しんだ。高校を卒業後は、父の期待に背き、大学には進学せず地元の代用教員として働きだした。そして1923年、小津は最終的に東京に戻り、映画界の扉をたたいた。
甥(おい)の長井秀行さんは、芸術一家に生まれたわけでもないのに、映画監督となったのは、当時の時代の産物であり、伯父は「いい時代に生まれた」と考えている。
もちろん、映画人として順風満帆だったわけではない。元々、監督志望で入社したが、最初は空きがなく、撮影部の助手としてキャリアをスタートした。「伯父は大変な努力をしました」と長井さんは語る。その努力が実を結び、小津はデビュー作の無声映画『懺悔の刃』(1927年)から、遺作となったカラー映画の『秋刀魚の味』(1962年)まで、50作以上の映画を世に送り出した。
小津の子どもたち
甥っ子や姪っ子にとって、小津は「優しく、面白く、決して子どもに何かを押し付けたりしない人」だった。小津は生涯未婚で、子どももいなかったが、彼の周りにはよく子どもたちが集まっていた。『晩春』(1949年)や『お早よう』(1959年)などの映画のセリフにも、彼の子どものころの光景が描写されている。
小津の母・あさゑは、1945年3月10日の東京大空襲の後、娘の嫁ぎ先の千葉県野田市に疎開していた。46年2月、シンガポールから復員した小津も、母親や妹・弟が暮らす野田で暮らし始めた。
亜紀子さんは小津の弟・信三の娘で、伯父との最も古い記憶は、野田であさゑ・安二郎の家とニ軒続きで暮らしていた幼少期にさかのぼる。
夜になると家族みんなで集まり、酒を飲みながら雑談を楽しんだ。幼い亜紀子さんは、小津の膝の上にちょこんと座ってお菓子をもらって食べていると、おちょこに指をつっこんで亜紀子さんにちゅっちゅっと吸わせたことがあった。「お酒の味を教えたかったのか、それが私の初めての日本酒経験。お陰さまで大酒飲みになった」と笑う。「伯父はいたずらっ子みたいに、私たち子どもを相手にするときには、子どもと同じ目線になってかまってくれた」そうだ。
長井さんは、小津の4歳下の妹・登貴の息子。若くして夫を亡くした登貴にとって、「兄の安二郎は大きな支えになっていた」と長井さんは振り返る。そして、長井さんにも大きな影響を与えた。「伯父の人生の指針は、他人に迷惑をかけず、嘘をつかないということです。高い倫理観を持ち、私に多くのことを教えてくれましたが、それが何よりも大切なことだったと思います」
長井さんは若いころ、小津から「付き合え」と言われてよく飲みに誘われた。「いろんな話をしましたし、よく本を薦められました。夏目漱石とか、私があまり理解できない映画もです」。当時、大学生だった長井さんは、小津が映画の構想を練り、映画人たちと語り合った蓼科の山荘も何度も訪れている。
酒を好み、人とのつながりを愛す
小津は気に入ったレストランを手書きの地図を添えて丁寧に手帳に記録していた。「グルメ手帖」などと呼ばれており、贅沢三昧していたように思われるが、それは実像とは程遠い。小津と一緒に食事をしたことがある人は別の面も知っている。小津は、東京や、1952年に移り住んだ鎌倉では定食屋にもよく行っていた。
長井さんは、うなぎを食べようと、時には電車で、時には小津の友人の車でわざわざ北千住(足立区)まで出かけたこともあった。また、美味しいトンカツを食べに、友人の池田忠雄監督が暮らしていた御徒町(現在の台東区東上野)の蓬萊屋にも行った。『秋日和』(1960年)や『秋刀魚の味』(1962年)には、このジューシーなヒレカツのことを話すシーンがある。
小津は鎌倉駅の近くにあるすし屋の常連だった。長井さんの記憶では、「食べるよりも飲む方が多かった」という。小津は酒好きで、親しい仲間と飲むのが特に好きだった。「おしゃれな店には行きませんでした。伯父が好きだったのは人とつながることで、みんなと一緒にいることを楽しんでいました」
小津のミューズ
「伯父が好き勝手できたのは、独身だったからだと思います」。長井さんは、小津がなぜ一度も結婚しなかったのか、というメディアで長年繰り返されてきた質問にこう答えた。とはいえ、小津が誰とも恋愛をしなかったわけではない。彼の人生と仕事に重要な役割を果たした女性が数人いる。
小津の人生には、母親・あさゑの存在が非常に大きな影響を与えており、その緊密な関係は人生の最後まで続いた。母と息子は生涯のほとんどを同じ屋根の下で暮らし、亡くなった時期も1年ほどしか離れていなかった。
家族の事情もあった。兄が結婚した直後、小津は嫁と姑の複雑な関係を目の当たりにする。日本のしきたりでは長男が両親の面倒を見ることになっているが、実際に母親の世話をしたのは小津だった。
小津は3歳の頃に脳膜炎にかかり生死をさまよったが、あさゑの献身的な看病のおかげで一命をとりとめ、小津はこのことを生涯深く感謝し続けた。亜紀子さんは、伯父は人と一緒にいるのが好きな一方で、とてもシャイな人だったと記憶している。彼女が知る限り、小津が好意を抱いた女性が少なくとも3人いた。「でも告白できなくて、結局他の人に先を越されてしまったようです」
仕事の面では、「小津は女優と個人的な関係を築くことを好まなかった」と長井さんは言う。晩年にかけて、『東京物語』に登場するアコーディオン奏者の村上茂子と親しい関係にあった。「とても可愛らしい人でした」。長井さんは、小津の晩年の恋人についてそう語った。
小津と最も関連付けられる女性は、伝説の女優・原節子である。彼女は1949年から1953年まで、「紀子」という活発な女性を主役にした三部作で、若き戦争未亡人や結婚を渋る若い女性を演じ、これらの作品は映画史上の不朽の名作と評価されている。実生活では、女優と監督のこの2人が結婚するのではという噂がささやかれた。しかし長井さんは、「伯父は彼女のことをとても尊敬していましたが、結婚するつもりは全くなかったと思います。2人ともプロの映画人でした」と説明する。
原節子も生涯独身で、1963年に小津が亡くなると電撃的に映画界を引退した。そのことが新たな噂と謎に火を付けたが、解明した者は誰もいない。彼女はスポットライトから完全に退き、長年その真相を明らかにしようとした自分の伝記作家のインタビューさえ拒み続けた。
長井さんにとってその答えは簡単だ。「原さんは小津と仕事をするのが大好きでした。最高の自分を引き出してくれたからです。2人の年齢は17歳離れていて、小津が亡くなったとき、彼女はすでに年を取っていました」。長井さんはそう述べた後、「残念ながら、映画界ではもう歳だということです」と説明した。「彼女は40歳を過ぎて引退しました。質の悪い映画には出たくなかったのでしょう。まさにキャリアの頂点にいましたから」
長井さんによると、原節子は時代を先取りした女優で、男社会の映画界に大きなインパクトを与えた。「称賛されたのは小津でしたが、原節子もとても素晴らしく、もっと評価されるべきです」。長井さんの批判は、過去だけでなく現在の映画界にも向けられた。2015年に原が95歳で亡くなったとき、海外で集めた注目と比べて日本のメディアがあまり取り上げなかったことに失望したという。
心の中にはいつも蓼科があった
長井さんは、小津の人柄について、「謙虚で偉そうに振る舞ったりせず、思いやりのある優しい人」として覚えておいてもらいたいと話し、「下品な冗談も好きでしたけどね」とおどけて付け加えた。
小津は質素で派手なことは好まず、数々の賞を受賞しても、それが彼の作品に影響を与えることはなかった。長井さんによると、蓼科の森の中で脚本を練りながら暮らした晩年は、小津にとってとても幸せな日々だった。「昭和の人間でしたから、厳しい自然環境の中で暮らすことは伯父にとっては苦ではなかったようです」
冬の間に構想を練り、夏になると映画を撮る。小津は作品作りの相棒である脚本家の野田高梧と共に、現在も保存されている山の別荘で、この創作と休息のサイクルを10年近く繰り返した。しかし1963年、小津は病に倒れた。彼の作品に蓼科の風景は描かれていないが、「小津の心の中にはいつも蓼科がありました」
小津と野田は、よく松の木に囲まれたポーチに座って脚本を練っていた。長井さんは、ある日、小津と森の中を散歩していたとき、マフラーをしてゴム長靴を履き、杖を持って歩いている小津の姿を写真に撮った。そのカメラは、伯父からもらった高価なもので、長井さんはずっと大切にしていたが、地元の人々の愛情への感謝を込めて2016年に茅野市の展示ホールに寄贈した。蓼科では1998年から、小津を称える映画祭が地元の人々によって毎年開催されている。
蓼科での伯父との最後の記憶は1963年にさかのぼり、脚本家である野田の別荘「雲呼荘」に初めてテレビが来たときだった。「みんな集まって、小さなテレビで公共放送を見ていました」
彼岸花
小津亜紀子さんは、蓼科の映画祭に毎年参加している。2023年の秋も例外ではなく、イベント期間中、小津の最後の創作の場だった「無藝荘」を訪れた。庭には赤い花が咲き誇っていた。小津がとりわけ好んだ彼岸花で、好きな理由としてその色を挙げていた。
小津のカラー映画でもこの鮮やかな赤色が印象的に取り入れられ、1958年の『彼岸花』では、まさにこの花の名前がタイトルになった。
小津の人生で、彼岸花にはどのような意味があったのだろうか。亜紀子さんは、若かりし小津の1927年9月25日付の日記にそのカギがあると考えている。その日、幼少から青年期を過ごした三重県にある祖母の家から久居駅(三重県津市)に向かっており、列車の窓から外を見ると、線路の両側にすくすくと彼岸花が赤い花を咲かせていたと日記に記している。
秋分に咲く花として知られる彼岸花は、日本の失われた記憶を呼び起こす。毎年、秋が訪れると一斉に赤い花を咲かせるように、小津の最後の創作の場に彼岸花を植えたのは亜紀子さんのアイデアだった。
写真撮影:コデラケイ
バナー写真:長井秀行さん(左)と小津亜紀子さん