歌川広重 : 北斎との違い際立たせたセルフ・ブランディングで風景版画の頂点に
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人気商売を副業に選んだ御家人
江戸の浮世絵とは、おもに美人風俗画と歌舞伎役者絵とで構成された、この世のありさまを描く作例である。庶民に向けて販売された版画や版本(木版印刷の刊本)は、往時の職人階層に属する浮世絵師らによって描き出されたが、肝心の広重は町人出身ではない。江戸城の馬場先門にあった火消屋敷勤めの定火消同心、つまり、幕臣・御家人身分の侍の家に生まれている(町人らによる町火消ではないので注意)。
幕府御家人は、禄高(ろくだか)の低い下級武士のため副業が黙認されており、安藤重右衛門を俗称とする広重の場合、画道に強く関心を寄せたようである。しかし、実際に彼が目指したのは御用絵師系の狩野派のように格式高い絵画ではなく、浮世絵、つまり春画をも含む俗世の美人画や役者絵であった。仮にも武士が職人たちの技芸、それも人気商売の絵師業で勝負するなど異色のことだが、これには数え年十三のとき、実母と実父を相次いで失い、家督を継いで祖父や姉たちと暮らす彼に訪れた心境の変化を読み取る向きもある。
広重が幼時に巷(ちまた)で評判だった浮世絵師は、歌川豊国や葛飾北斎などであった。広重は豊国への入門を希望したが適わず、その弟(おとうと)弟子の豊広の門人となる。これが15歳の出来事であり、お武家の仕事、つまり公職の傍らで美人画などを学び、あるいは描くという生活を、甥(おい)に家督を譲る27歳以降もしばらく続けている。

デビュー初期の作品『美人風俗合 江戸新吉原』(静岡市東海道広重美術館)
広重の浮世絵師デビューは文化末年、20歳過ぎごろと考えられ、当初は美人画や役者絵、戯作(げさく)の挿絵など、いかにも浮世絵師らしい仕事ぶりをみせる。しかしながら、商品である版画や版本は売れ行きがすべて、絵師は言わずもがなの浮き草稼業である上に、同じ歌川派所属の絵師たちでさえ我先に競い合う状況下では、追随の画風では毛頭勝ち目はない。おそらく文政期は必死に作画を継続しつつ、多くの可能性を模索していたものと推測される。
北斎『富嶽三十六景』にかなわなかった『東都名所』
風景版画、当時の言葉で「名所絵」への本格的な広重による進出は、天保期に入ったころとみられる。このとき、広重が手がけたのは『東都名所』という連作で、慣れ親しんだ江戸の数々のスポットの風景を売り物とし、そこに人事風俗を織り交ぜて描く、という揃物(そろいもの)であった。
浮世絵ではこれ以前にも、西洋由来の透視図法を導入して遠近感を強調した「浮絵」と呼ばれる風景画が、過去に2度ほどブームとなった歴史がある。だが、広重はこの作例で透視図法の消化のみならず、画面手前に題材を置く近像拡大や、水平線を下降させ空を広く描くなどの斬新な描法を取り入れており、おそらく文政後期に都の円山四条派などの絵画学習を進めた成果が、そこに反映されたとみることができる。この連作は風景表現を旨とするため、空や川・海などに青を多く用いた「広重ブルー」の出発点でもあるのだが、まずまずの健闘をしたものの全10図で終了した。というのも、実はそこには強力なライバルがいたからである。
すでに浮世絵界のレジェンド、齢七十を超えたあの葛飾北斎は、『東都名所』刊行と同時期に著名な『富嶽三十六景』を新たに送り出し、世上はこれを大歓迎する。信仰の対象でもある霊峰を描くこの連作は、デフォルメを効かせた造形感覚による、北斎一流のサービス精神に富む奇抜で面白い画面で、多くの人々を魅了したのであった。これに伍すほどの人気は、遺憾ながら『東都名所』にはなかったのである。
「目の当たりに眺望」する写生的表現に活路
ただ、このときの両者の作例は、浮世絵という舞台に新たに名所絵という新カテゴリー誕生を宣言する形となり、北斎はそのあとも瀧(滝)、橋、海などをテーマとする連作版画を次々と発表していった。これに対して広重は、ずっと後年、三代広重の伝えるところによれば1832(天保3)年に東海道を実際に旅したとされ(異論もあるが、ややあとの天保中期ごろには明らかに東海道を旅した形跡が認められる)、海沿いに展開する街道風景を、三十六ならぬ五十三の宿場図で描くという大勝負に出る。これが天保4年から刊行された保永堂版『東海道五十三次』であり、文字通りの大ヒット作、出世作となる。このとき、広重はすでに37歳となっていた。

『東海道五十三次之内 / 日本橋 朝之景』(ボストン美術館)

『東海道五十三次 / 蒲原 夜之雪』(メトロポリタン美術館所蔵)
広重による風景表現は、今日の名所絵ハガキのように、平明で親しみやすい写生的表現であり、また雨や雪などを道具に使う情緒に溢(あふ)れるものであった。北斎の、誇張された奇抜な造形にひかれた江戸の大衆だったが、広重の展開する静かな作風の東海道版画が世に出ると、風向きは大きく変わる。ちょうどこのころから、天保の飢饉が始まるという不安定な世情も、温雅な画面を得意とするニューカマー広重の人気を、後押ししたのかもしれない。そして、広重はそののち街道風景、江戸や諸国の名所風景を、要請に応じて次々と発表し、風景版画のテリトリーを事実上ほぼその手中に収めることになる。
北斎と広重は天保期浮世絵に新たに名所絵というジャンルを開拓した功労者だが、それ以外でも両者は激突した。それは花鳥版画という、従来浮世絵ではマイナーなカテゴリーに甘んじた作品群であり、両絵師はそれぞれに工夫を凝らした作例を発表した。
だが結論から言えば、この分野でもやはり勝者は広重となり、江戸の民衆は短冊版など縦長の小画面に描きあらわされる広重の、情感に富む花鳥画版画に軍配を上げる。決して大ベテラン北斎が劣るのではなく、それは往時の人々の嗜好(しこう)によって、導き出された結論なのである。つまり、それまで美人画と役者絵とで占められていた絵草子屋(版画や版本を企画、出版、販売する商人)の店頭に、風景や花鳥の版画がつぎつぎと並べられた時代、それが19世紀幕末期の浮世絵版画の変容を示す現象といえる。

左『雪中芦に鴨』(メトロポリタン美術館所蔵)右『烏瓜に目白、芍薬に小鳥』(ボストン美術館所蔵)
広重は、自らの画風については「写真(写生の意)をなして是に筆意を加」(『絵本手引草』嘉永期)えたものとし、また大先輩北斎の富士図を「絵組(絵柄や構図)のおもしろきを専らとし」たものと非難して、自らの富士山図を「まのあたりに眺望」した「全くの写真」(『富士見百図』安政4年作画)であると区別している。すなわち、真実味のある写生風こそが自らの持ち味であると自己分析しており、これが風景と花鳥の双方に通じる広重画の人気の源泉であったことになろう。

『富士見百図 / 駿州三保之松原』(メトロポリタン美術館所蔵)
さて、快進撃を続ける広重は、相変わらず東海道ものや江戸名所ものを多くの版元から出版し続け、人気絵師の一角を守り続ける。ことに北斎が1849(嘉永2)年に亡くなったあとは、浮世絵界は彼が所属する歌川派の絵師らで事実上席巻され、定番の美人画や役者絵は国貞改め三代豊国、武者絵は国芳、そして名所絵で広重が鼎立する状況となる。いまや人気絵師となった広重には、当然個別に絵画制作の依頼も寄せられるようになるが、今日とくに有名なものに、甲斐国の道祖神祭りのために現地で描いた巨大な幔幕(まんまく)や、出羽国天童藩の依頼で御用金を供出した豪農たちへの返礼品とされた数々の掛け軸作品などがあり、広重もすっかり江戸の一流浮世絵師の仲間入りを果たしていることを裏付ける。

天童藩の依頼で描いた掛け軸 左『龍田川之紅葉』 右『吉野之桜』(画像提供 : 広重美術館)
巨大地震からの復興を後押しした『名所江戸百景』
晩年の広重も、風景表現では様々な試みを重ね、たとえばそれまで多用した横長の画面を止めて縦長で使用したり、実際には足を運んでいない風景図様を他絵師の先行作例から巧みに再構成して描いたりと、多くの工夫を重ねている。『六十余州名所図会』はその典型例ながら、晩年期最大の果実こそが、揃物版画『名所江戸百景』の大型企画であった。

左『六十余州名所図会 / 阿波 鳴門の風波』 右『六十余州名所図会 / 伯湖 大野 大山遠望』(ボストン美術館所蔵)
1855(安政2)年に江戸を襲った巨大地震で甚大な被害を被った武都の風景を、それら本来のあり得べき美しい姿で描き出すこの事業は、被災した多くの庶民らを勇気づけるという意味でも、名所絵師広重にとっては半ば使命であったと想像される。晩年に多用した縦長の版画画面に、自身も慣れ親しんだ江戸御府内や近郊の風景を描き続けることで、予期せぬ災害に傷ついた心を癒される思いの江戸人たちも、多かったことだろう。わずか3年ほどの間に大判版画100図以上という驚異的な出版速度が実現できたのも、それを求める多くの購入者、支援者たちがあっての快挙である。

左『名所江戸百景 / 堀切の花菖蒲』 右『名所江戸百景 / 両国花火』(ColBase)

『名所江戸百景 / 亀戸梅屋敷』(ColBase)は、ゴッホが模写(ヴァンゴッホミュージアム)したことでも知られる
ちょうど予定の100図を終えて出版が終焉に向かうころ、広重は往時流行したコレラに罹患(りかん)したと伝えられ、残念ながら1858(安政5)年に62歳で不帰の客となる。
死期を悟った広重は、借金返済の方途をこと細かに家人に託すなど、人気絵師であるにもかかわらず、低い画料や弟子の多さもあってか厳しい経済状況が続いていたことをうかがわせる。遺書や脇差など形見の品も伝存しており、友人だった三代豊国の描いた死絵(没後の肖像版画=バナーの画像)からは、さすがに分別をわきまえた武家の風格と、温厚そうな人柄を伝える面相とが確認でき、生前の彼の人となりをしのぶことができるのである。
バナー写真 : 三代歌川豊国が描いた歌川広重の肖像版画(ColBase)

