養蚕の盛衰を記憶する二軒長屋は有形文化財:フランス菓子が人気の「泰山堂カフェ」(埼玉・秩父)
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自然と歴史のなかに、喫茶文化が息づく町
「夜、帰ってくると、電車を降りた瞬間に山の匂いがする」。
これは、東京から秩父へ移住したフランス文学者・笠間直穂子氏のエッセイ『山影の町から』(河出書房新社)の冒頭に記された一節だ。
彼女がこの町に惹かれた理由の一つは、「いい匂いを嗅いでいたかったから」。もう一つは、小さな町に個性豊かな喫茶店が点在していたことだったという。
「どの店も、他と似ていない。つまりこの町には、横並びに合わせることを求めない風土があるのだろう。旅人にも地元の人にも、一人で静かに過ごせる居場所が、さりげなく開かれている」
秩父には、確かに喫茶文化が息づいている。この本と私の出会いの場こそ、黒門通りにたたずむ古民家、「泰山堂(たいざんどう)カフェ」だった。カウンターの上に、オーナーの愛読書として飾られていたのだ。
何げなく訪れるだけで秩父の文化に出会うことができるのが、この美しいカフェの魅力だ。かつて栄えた秩父織物の問屋だった建物が残る、黒門通りの風景そのものが昭和の記憶を物語っている。東京・池袋駅から西武線の特急に乗れば、西武秩父駅までおよそ1時間20分。朝霧の立つ山々に囲まれた町へ、小旅行に出かけよう。
養蚕と織物の通りに息づく時間の層
秩父神社へと続く黒門通りには、大正から昭和初期にかけて、「秩父銘仙」と呼ばれる絹織物の取引所が並んでいた。現在も残る木造2階建ての3棟はいずれも「秩父銘仙出張所」として国の登録有形文化財となっており、養蚕と織物で繁栄したかつての町の活況を今に伝えている。
その1棟が「泰山堂カフェ」だ。切り妻造りの二軒長屋で、向かって右側はアンティーク雑貨を並べたはんこ屋、左側がカフェとなっている。店内はつながっており、どことなく記憶の迷路のような趣を漂わせている。
色ガラスがはめ込まれた英国アンティークの美しい扉を開ければ、オーナーの青田みゆきさんが穏やかな笑顔で迎えてくれる。
アートと歴史が共鳴する空間
カフェやアートに関心のある人であれば、すぐに気づくかもしれない。空間をさりげなく彩る絵画やオブジェには、暮らしのなかでアートに親しんできた人ならではの審美眼が宿っている。構えすぎない居心地の良さが、訪れる者を優しく包み込む。
両親が民芸の器や籠(かご)、根付などを愛好していた影響で、幼いころからそれらの収集品に囲まれて育ったという青田さん。店内のそこかしこに、青田さん自身が集めた秩父のアーティストたちの作品がある。
エントランスに掲げられた絵は、秩父出身の画家・浅見哲一氏によるもの。秩父の風土と暮らしをモチーフにした心象風景が、深い青の色彩を通して静かに語りかけてくる。
青田さんは笠間直穂子氏のエッセイや、秩父のアーティストたちを通して「この町の魅力に気づかせてもらった」という。
フランス菓子と紅茶の調べ
このカフェのもう一つの魅力は、青田さんの娘であるパティシエ・大崎泉さんによるスイーツにある。フランス・リヨンで1年修業を積んだ彼女の菓子は、クラシックかつ洗練された味わいだ。
なかでも人気なのが、南フランスの伝統菓子「ヌガーグラッセ」。生クリームとメレンゲを蜂蜜で自然な甘さに仕立て、ナッツやドライフルーツを散りばめた冷たいデザートだ。ひんやりとしたヌガーが舌の上で軽やかに溶け、カリッとしたナッツの香ばしさやドライフルーツの甘みが混ざり合う。皿にあしらわれたラズベリーソースの酸味が、さらに心地よいアクセントとなっている。
ドリンクのメニューも豊富だ。フランスの紅茶専門店「マリアージュ・フレール」の茶葉は、幅広いラインナップをそろえている。もし迷ったら、お勧めを尋ねてみるといいだろう。泉さんのオーソドックスなフランス菓子の魅力を引き立てる、華やかな香りの紅茶を、母である青田さんが上手にペアリングしてくれる。スパイス香る自家製ジンジャーソーダや、黒酢を使った爽やかなドリンクも夏にぴったりだ。

くるみのタルトと自家製ジンジャーソーダ。右は抹茶とホワイトチョコのケーキ
カフェと家族の記憶
「この建物は、昭和初期に養蚕農家の蚕室(さんしつ=蚕を飼育する部屋)を移築して、住居として建てられたものです」と青田さんは語る。
かつては二軒長屋の、正面から見て右側で、祖父がはんこ屋「泰山堂」を営んでいた。それを母が継ぎ、青田さんがアンティーク雑貨を扱うスペースとして整えた。
2008年、左側で営業していたラーメン店が退去したことを機に、青田さんはその場所を借り受けてカフェへと改装した。
棟梁が古材を生かして手がけた内装は、太い梁や栗材の床に囲まれた落ち着いた空間を生み出している。建築当時のすりガラスの窓もそのまま残り、柱に刻まれた四角い穴は、かつて蚕箱(さんばこ=蚕を飼育する箱)を並べるために棚を渡していた痕跡なのだという。

古い柱の穴は養蚕が盛んだった時代の名残。現代作家の造形物と不思議に調和する
私が心惹かれたのは、階段下にしつらえられた小さな“おこもり席”。ランプが淡くともり、壁面の額と彫像に柔らかな陰影を落としている。子ども用にも見える椅子は、木工家・黒田辰秋の弟子にあたる作家によるもので、見た目に反してどっしりと安定した座り心地だ。

一人でこもるのに最適なスペース。店内のあちこちにアート作品がある
青田さんがカフェを開こうと思い立った理由は、「お菓子修業から戻ってきた娘のため」だという。しかしその根底には、自身がかつてたくさんの喫茶店で過ごした記憶と、“ほっとする時間”への思いがある。
「祖母は東京・人形町の生まれで、戦時中に秩父へ疎開したことから、母も私も秩父で育ちました。子どもの頃、祖母が里帰りするたびに日本橋の三越へ連れていってもらい、喫茶室でアイスクリームを食べるのが大好きでした」
その語りには、幼い日のときめきと、幸福な喫茶時間の香りが漂う。
秩父という土地の奥行きに触れる
泰山堂カフェに来店するのは、観光で秩父を訪れた人が多いという。静かな時間を望むのであれば、平日の開店直後が理想的だ。
「午前中に神社巡りを楽しまれたあと、お茶の時間に立ち寄る方もいらっしゃいます。ここでリフレッシュしていただけたら嬉しいですね」
四季折々の秩父散歩の中継地として。そして、土地に根差した文化に触れる場として。泰山堂カフェは、歴史と暮らしと詩情がゆるやかに重なり合う場所だ。山の匂い、草木の匂いとともに、この町の魅力を胸いっぱい吸い込みに訪れたい。
泰山堂カフェ
- 住所:埼玉県秩父市番場町11-6
- 営業時間:午後1時~5時(ラストオーダー午後4時30分)
- 定休日:火・水曜日
- アクセス:秩父鉄道「御花畑」駅または「秩父」駅よりいずれも徒歩7分/西武池袋線「西武秩父」駅より徒歩12分
- 公式サイト:https://www.instagram.com/taizando_cafe/ ※7歳未満は入店できません
取材・文・写真=川口葉子
バナー写真:黒門通りから見た泰山堂カフェ



