古民家カフェの窓辺から

大正時代の洋館付き日本家屋「鎌倉 北橋」が供する上質なコーヒーと自家製粉の蕎麦(神奈川・鎌倉)

建築 歴史 文化

洋館ではレトロモダンな格子窓から庭を眺めつつ蕎麦粉のスイーツとコーヒーを、落ち着いた和室では手打ち蕎麦を楽しめる。喫茶店をこよなく愛する文筆家・川口葉子さんが、東京近郊の「古民家カフェ」をレポートと写真で案内するシリーズ。第6回は神奈川の「鎌倉 北橋」。

長谷のランドマークだった邸宅へ

由緒ある社寺や邸宅が残る鎌倉・長谷の旧市街地。その静かな一角にたたずむ「鎌倉 北橋」は、2024年6月にオープンした蕎麦(そば)と珈琲(コーヒー)のお店だ。

築100年を超える「旧加賀谷邸」をリノベーションした建物は、鎌倉市の景観重要建築物。洋館と和館がひと続きになり、明治・大正期の別荘建築の粋を体験させてくれる。足を踏み入れた瞬間、往年のゆとりある暮らしの残り香に包まれるはずだ。2025年に放映されたドラマ『続・続・最後から二番目の恋』のロケ地としても話題を集めた、この優雅な空間を訪れてみよう。

歴史の香り漂う路地

江ノ島電鉄「由比ヶ浜」駅からも「長谷」駅からも徒歩6分。大通りから閑静な路地に入ると、突き当たりに緑深い甘縄神明宮(あまなわしんめいぐう)の鳥居が見える。鎌倉市最古とされるこの神社は、長谷の鎮守として長く親しまれてきた。

この日はたまたま例大祭にあたり、路地に色とりどりの提灯(ちょうちん)が揺れていた。どこか懐かしい眺めを楽しみながら進んでいくと、白壁にパステルグリーンのアクセントが映える洋館が姿を現す。

提灯が並んだ路地の先に鳥居が見えてくると、右手に洋館が現れる
提灯が並んだ路地の先に鳥居が見えてくると、右手に洋館が現れる

エントランスには「蕎麦」「珈琲」と書かれた案内板。蕎麦を味わうなら左側の石畳から和館へ、カフェを楽しむなら右に回って洋館のドアを開けよう。

入口の案内板。「珈琲」の下に掛かった「OPEN」の札で、カフェのほうは営業中と分かる
入口の案内板。「珈琲」の下に掛かった「OPEN」の札で、カフェのほうは営業中と分かる

洋館は和館よりひと足早く開店する。まずはカフェで、コーヒーとスイーツの時間を過ごすことにした。

作家の青春時代が息づく洋館カフェ

自然光のあふれる明るい室内
自然光のあふれる明るい室内

カウンターで注文した、シングルオリジンコーヒーの香りが、湯気とともに鼻をくすぐる。原宿に焙煎(ばいせん)所を構える「NOZY COFFEE」の豆を使ったアメリカーノは、品質と豆本来の持ち味、生産者とのつながりを大切にした一杯だ。

自家製粉の蕎麦粉を使ったグルテンフリーのスイーツは、種類によっててんさい糖やきび砂糖、蜂蜜などを使い分け、どれもまろやかで自然な甘みに仕上げている。「蕎麦粉の生シフォンケーキ」はきめ細やかで、舌の上でふんわり溶けていく。

蕎麦粉の生シフォンケーキとアメリカーノ。ソーサーに添えられたカードに、生産地などコーヒー豆の情報が記されている
蕎麦粉の生シフォンケーキとアメリカーノ。ソーサーに添えられたカードに、生産地などコーヒー豆の情報が記されている

パティシエの鉄谷さや子さんは「小麦粉アレルギーのある人にも楽しんでいただけるように」と語る。豆乳のパンナコッタ、米粉と蕎麦粉で作るキャロットケーキも好評だ。

この洋館には特別な歴史が刻まれている。ダンスホールだった時期もあれば、作家・山口瞳が一家で暮らした時期もあった。山口は20代の頃、1946年から4年半だけ存在した「鎌倉アカデミア」という自由で先進的な高等教育機関に通っていた。そのつながりで、アカデミアの教授を務めた有名作家や生徒がこの館に出入りするように。すぐ近くに邸宅を構えていた文豪・川端康成とも交流を重ねていたという。この部屋で、川端と文学論を交わしたこともあっただろうか。

壁の片隅に残るマントルピースに目を凝らせば、小さく「山口」という落書きが刻まれている。もしかすると、若き日の山口瞳のいたずらかもしれない。

高い天井から下がるシャンデリアとマントルピース
高い天井から下がるシャンデリアとマントルピース

和館で味わう手打ち蕎麦

開店時刻の午前11時、和館の入り口に白い暖簾(のれん)が掲げられる。玄関で靴を脱いで和室へ。8畳と10畳の和室に続く日当たりのいい縁側は、邸宅の主だった加賀谷氏がソファでくつろいでいた場所だという。どのテーブルからも四季折々の庭の表情が見渡せる。

趣の異なる和館と洋館の入り口
趣の異なる和館と洋館の入り口

昼会席「さくら」を注文する。前菜の盛り合わせ、蕎麦、甘味が順に運ばれてくる。

昼会席「さくら」
昼会席「さくら」

店主で蕎麦職人の北橋悠人さんは、収穫したままの殻付きの実「玄蕎麦(げんそば)」を、各地の農家から直接仕入れる。混じった石や土などを取り除く「石抜き」から、磨き、殻むき、そして石臼挽(び)きまでのすべての作業を店内で、自ら手掛ける。素材にかける思いが、蕎麦本来の香りと滋味深い味わいを生み出すのだ。

切った蕎麦の美しさに職人技を見る
切った蕎麦の美しさに職人技を見る

朝一番の仕事は、出汁(だし)を取ること。本枯れ節と鯖(さば)節、宗田節を使い分け、江戸前のきりっとした蕎麦つゆを作る。
「蕎麦つゆは昆布の旨み、かつお節の香り、しょうゆのバランスが大切です。どれか一つが突出しないように気を遣います」と北橋さんは語る。

職人の技と歴史が織りなす空間づくり

北橋さんは元証券会社勤務。20代後半で東日本大震災を経験し、「今のうちに、したいことをしておかなければ」と、世界各国を巡る旅に出た。その旅で食の世界に魅了され、帰国後に蕎麦職人への道を歩み始めたのだ。

下北沢の名店で料理長として5年間にわたり活躍。自身の店を開くために物件を探すなかで、まだ加賀谷さんが暮らしていた邸宅に出会い、内部を見学した。

「中に入った瞬間、いい気が流れているのを感じた。洋館に差し込む光や、喧騒(けんそう)を離れた路地に漂う緑の匂い、甘縄神社に守られているような感覚など、すべてが心地よく感じられました」

建物の保存を願う加賀谷さんの思いを尊重し、歴史的価値を損なわないよう元のレイアウトを生かしながら時間をかけてリノベーションした。古い柱や天井、床の間はそのまま活用し、和館の土壁を塗り直して、落ち着いた色調の京壁へと再生。

古い柱や天井をそのまま生かした和室
古い柱や天井をそのまま生かした和室

入口の案内板は鋳鉄作家・田中潤さんの作品。和室のタモ材のテーブルと椅子は、体の曲線になじむよう飛騨の職人が手がけた。

「お客さまが触れるもの一つひとつに、できるだけ素材の良さと職人の技を感じてもらえれば」という北橋さんの意図が随所に表れている。元のオーナーである加賀谷家の人たちも来店し、建物が残ったことを喜んでくれたそうだ。

唯一無二の空間に身を委ねて

洋館の窓から差し込む光は、天気や時間帯とともに移ろい、古いガラス越しの景色は、雨の日にはゆらゆらと幻想的に滲(にじ)む。

洋館の床板は改修時に1枚ずつ分解し、手間暇をかけパズルのように組み合わせて敷き詰めた
洋館の床板は改修時に1枚ずつ分解し、手間暇をかけパズルのように組み合わせて敷き詰めた

蕎麦を楽しんだ後にカフェでコーヒーを嗜(たしな)むも良し、カフェだけを利用するも良し。パティシエの鉄谷さんは「コーヒー1杯からでもお気軽にどうぞ。読書しながらゆったりお過ごしになるのもいいですね」とほほえむ。

和館はお昼どきには賑わうこともあるが、平日の午後1時以降なら落ち着いて過ごせる。大切な人と食事やお酒を囲みたいとき、洋館の高い天井や庭を眺めながら独りでゆったりと過ごしたいとき──華やかな時代も静かな時代も記憶する邸宅は、さまざまなシーンを受け止めてくれる。

貴重な空間を心ゆくまで体感した後は、すぐ裏手の甘縄神明宮の階段を上がり、鎌倉幕府を開いた源氏の歴史に思いをはせるのも一興だ。100年を超える建物の中で現代の職人が紡ぐ味わいを堪能し、悠久の時の流れを感じる──そんな「鎌倉 北橋」ならではの時間が待っている。

鎌倉 北橋

  • 住所:神奈川県鎌倉市長谷1-11-32
  • 営業時間:【蕎麦】午前11時~午後3時、午後5時~8時30分(蕎麦がなくなり次第閉店) 【カフェ】午前10時~午後6時(土日祝のみ午前9時に開店)
  • 定休日:火曜日
  • アクセス:江ノ島電鉄「長谷」駅より徒歩6分
  • 公式サイト:https://kamakura-kitahashi.com/

取材・文・写真=川口葉子

バナー写真:庭側から見た「鎌倉 北橋」

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