古民家カフェの窓辺から

築100年の洋館で、友を招くような心尽くしのお菓子とホスピタリティ―横浜・山手「えの木てい」

建築 歴史 文化

洋館の前で記念写真を撮る女学生をリビングに招き入れてお茶を振る舞ったことが開業のきっかけという。母のレシピを受け継いだケーキも新作ケーキも、香り高いティータイムにふさわしい。喫茶店をこよなく愛する文筆家・川口葉子さんが、東京近郊の「古民家カフェ」をレポートと写真で案内するシリーズ。第12回は横浜・山手「えの木てい」。

百年の記憶を味わう洋館アフタヌーンティー

横浜山手エリアのカフェといえば、真っ先に名前のあがる「えの木てい」。この洋館で育ったオーナーの安藤美穂さんに話を聞くと、木洩れ日の揺れる喫茶時間の向こうに、驚きの歴史が待っていた。

幕末から大正時代にかけて、外国人居留地として美しい洋館が建ち並んだ山手の高台。エノキの巨樹に守られた「えの木てい」は、築100年になる英国式洋館をそのまま使った喫茶室だ。

アーチ窓が並ぶ白壁と赤い屋根が視界に入ってきただけで、もう幸福な気持ちになる。1979年の開店以来、半世紀近く愛され、今も行列が絶えない理由は、スイーツのおいしさだけではない。暖炉とアンティーク家具のある喫茶室や、緑に包まれたテラス席で過ごす時間そのものに、厚みがあるのだ。

その厚みを醸し出しているのは、世紀をまたいでこの館に刻まれた、ふたつの家族の物語だ。

素材の良さが光るローズガーデンセット

今回楽しんだのは、予約不要の平日限定アフタヌーンティー「復刻版ローズガーデンセット」。これは2014年まで港の見える丘公園で営業していた支店「ローズガーデンえの木てい」で好評だったメニューを復刻したものだ。

上質な素材でつくられた品々をゆったりとした空間で味わう
上質な素材でつくられた品々をゆったりとした空間で味わう

ポットサービスの紅茶と、2段重ねのスタンドが運ばれてくる。上段は、ざっくり、しっとりした心地よい口どけのカレンズレーズン入りスコーンに、クロテッドクリームとイチゴジャム、日替わりのケーキ2種。下段にはサンドウィッチとピクルス。高品質にこだわった生クリームやハムなど、素材の持ち味が光るおいしさだ。

安藤さん一家の物語:米軍による接収と帰還

1927年築のこの洋館は、建築家の朝香吉蔵が設計。当時、この一角にはえの木ていと同じデザインの住宅が3軒並び、西洋の住宅街を思わせる、山手の憧れの街角だったという。いまや現存するのはこの一軒のみとなった。ちなみに、隣接する「山手234番館」も同時期の朝香吉蔵の設計だ。

木枠の上げ下げ窓、二方向から上がれる階段、現在でも薪(まき)がくべられる暖炉など、みな建築当時のままの姿で残されている。

現オーナーの安藤家は戦前から山手に居を構えていたが、戦後、米軍によって接収された。いつか山手に戻ってきたい――父の安藤彦郎さんの思いは、1969年にこの洋館が売りに出されたことで実現した。

前住人は東京裁判で日本人被告の弁護人を務めた米国人のフランクリン・ウォーレン氏。

「ウォーレンさんが、150年前のアンティーク家具など、欲しいものがあればどうぞと譲ってくれたそうです」と、当時小学生だった安藤美穂さんは語る。
「ご高齢の一人暮らしで、庭は雑草が茂っていました」

じつはこの洋館、母の安藤千鶴子さんにとっては大切な思い出が眠る場所だった。女学生時代に、庭で写真のモデルを務めた経験があったのだ。

この洋館の主となった安藤さんファミリーは、元の姿を大切にしつつ新たな生命を吹き込んだ。その暮らしの温度こそが、のちに誕生するカフェの豊かな土壌となったのだ。

リビングルームをカフェへ

開店のきっかけは、ある冬の日の出来事だった。自宅の前で女学生2人が記念撮影をする姿を見かけた千鶴子さんは、「よかったら入って温まって」と彼女たちをリビングへ招き入れた。紅茶と手作りケーキをふるまったところ、2人から歓声が上がったという。

「それで母がリビングでカフェを開きたいと言い出したんです」と安藤さんは笑う。
もともと周囲に住む英国人やドイツ人のファミリーと親交をもち、お互いにホームパーティーに招きあう習慣があったため、ケーキ作りも温かいおもてなしも好きだったそう。

そして1979年に「えの木てい」をオープン。その信条は、自邸に招いた友人のために心を尽くすようなお菓子とホスピタリティ。だから素材のクオリティは決して落とさないこと。湯温と蒸らし時間を正確に守り、濃いめに淹れた紅茶にも、その精神は香っている。

ウォーレン氏の物語:東京裁判の残照

「えの木てい」の歴史に深く刻まれているのが、前住人のフランクリン・ウォーレン氏だ。東京裁判では日本人被告たちの弁護人を務め、戦勝国が敗戦国を裁くことへの異議を法廷で訴えた人物だ。日本文化への理解と愛を抱いていた彼は、裁判後も日本に留まって遺族とも交流を続け、晩年までこの館で暮らした。

現在のえの木ていのにぎわいとは対照的だが、晩年は「電球一つしか灯らない薄暗い部屋」で、ひとり静かに過ごしていたという。

現在も店内で大切に使われているアンティーク家具のなかには、東京裁判の際に判事が座っていたと伝わる椅子が2脚含まれているそうだ。ティーカップの湯気の向こうに、歴史の質量が置かれている。店内の活気がふっと引いた夕暮れ時、この館には深い静けさが降りてくるのだろう。

大切に使い続けているアンティークの家具でゆったりとしたひと時を楽しむ
大切に使い続けているアンティークの家具でゆったりとしたひと時を楽しむ

母のレシピも継承しながら

大学時代から千鶴子さんを手伝ってきた美穂さんは、2000年に2代目オーナーとなり、紅茶インストラクターの資格を取って、英国式洋館にふさわしいアフタヌーンティーを始めた。かつては兄の部屋だったという2階の個室は、事前予約をすれば季節のアフタヌーンティーが楽しめる。

2代目オーナーの安藤美穂さん
2代目オーナーの安藤美穂さん

1階の喫茶室では、気軽にケーキとコーヒーを注文するのもいい。チーズケーキなどは千鶴子さんの昔ながらのレシピを守り続けている。

チーズケーキに添えるソースとして人気を誇ったチェリーソースを「お土産にしたい」というゲストの要望に応えたのが看板商品「チェリーサンド」だ。さっくりした食感のサブレでクリームを挟んだもの。ふわふわのクリームの中からダークチェリーが顔を出す。

2階のギフトショップでは、生ケーキや紅茶のほか、このチェリーサンドもテイクアウトできる。

テイクアウトして大切な人へのおみやげにもできる
テイクアウトして大切な人へのおみやげにもできる

震災、そして未来へ

半世紀の歴史で、何度か存続の危機が訪れたこともある。2011年の東日本大震災では、建物の土台に深刻なヒビが入ってしまった。美穂さんは単なる修復にとどめず、1カ月間休業し、壁をはがす大規模な耐震工事を決断した。次の数十年を見すえ、この貴重な文化遺産を次世代へつなぐという覚悟だった。

庭に堂々とそびえるエノキの木は、店名の由来となっただけではない。かつて猛烈な台風が襲来して、近隣の家々が屋根を飛ばされる被害にあった時に、エノキが盾となって洋館を守ったのだ

「エノキの枝は折れてしまったんですが、建物は被害を受けなかったんです」

一家が引っ越してきたときには、まだ庭の外灯ほどの高さだったというエノキは、いまや2階の屋根を見下ろす高さ。洋館と家族の日々を見守り続けてきた沈黙の証人だ。

5月、6月は横浜のそこかしこでバラが咲き誇る季節。えの木ていをはじめ、歴史を秘めた洋館をめぐる山手散歩に出かけよう。

スタート地点は、みなとみらい線「元町・中華街」駅がおすすめだ。改札を出てすぐ、6番出口のエレベーターに乗って屋上に出れば、そこはもうさまざまな花に彩られたアメリカ山公園。ゆるやかな坂道を上がってえの木ていに向かう道すがら、緑輝く横浜外人墓地にも注目してほしい。ウォーレン氏もここに眠り、長い夢をみている。

シンボルのエノキの木陰には心地よい風が吹いていた
シンボルのエノキの木陰には心地よい風が吹いていた

えの木てい 本店

  • 住所:横浜市中区山手町89-6
  • 営業時間:12時~午後5時(L.O.午後5時30分)、土日祝11時30分〜午後6時(L.O.午後5時30分)
  • 定休日:なし
  • アクセス:みなとみらい線「元町・中華街駅」より徒歩8分
  • 公式サイト:https://www.enokitei.co.jp/

取材・文・写真=川口葉子

バナー写真:1927年に建てられた洋館「えの木てい」の外観

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