【書評】落日の国のスパイ(前編):ジョン・ル・カレ著『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』

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英国情報部の中枢に、ソ連の情報部が送りこんだ二重スパイがいる。真相究明を託されたのはすでに引退していたスマイリーだった。裏切り者を特定するカギは、手痛い失敗に終わったチェコでの作戦「テスティファイ」にある。過去の記録を丹念に調べ、関係者の証言を積み重ねていくうちに浮かび上がってきた真実とは——。巨匠の名声を不動のものにしたスパイ小説。その前編。

 ジョン・ル・カレの出世作でありスパイ小説の傑作、『寒い国から帰ってきたスパイ』が出版されたのは1963年のこと。今回、紹介する作品が世に出たのは1974年で、10年の歳月が流れている。

 そのあいだに、スパイの世界はどう変わっていったのだろう。
『寒い国~』では、ベルリンの壁をはさんで、英国と東ドイツの情報部の暗闘を描いていた。
 登場人物は重なっている。今回のミッションは、ソ連が英国情報部の中枢に潜ませている二重スパイの摘発である。ここでは、前作で影のような存在だった古参幹部のジョージ・スマイリーが主役として登場する。

 物語の展開は、前作以上に迷路のように入り組んでいる。読者は、行先を示す羅針盤をもたされず、難解にして錯綜した世界に放りこまれていくことだろう。しかし、ジグソーパズルの一片一片を埋めていくように、読み進めるうちにやがて全体像が忽然と見えてくる。そこに本作を読む醍醐味がある。

 この作品は、スパイ小説の最高峰である。是非、読んでいただきたい一冊だ。

 

『寒い国~』からおよそ10年後の世界

 さて、ル・カレは老獪な作家になっている。
 プロローグは、背中に深傷を負うジム・プリドーが、臨時雇いの教員としてパブリック・スクールに赴任。孤独な少年ビル・ローチと友情を結ぶ場面である。

 およそスパイ小説とは思えない書き出しとなっており、その後も節目節目でスクールでの生活ぶりや、ふたりのやりとりが描写されるのだが、それが物語に深い意味合いをもたせている。
 ここでの記述をうっかり読み流していると、ラストシーンの感動がじゅうぶんなものではなくなってしまうので要注意。

 ちなみに、著者のル・カレは英国情報部に入る前に、名門パブリック・スクールのイートン校で教鞭をとっているが、教え子にビル・ローチとそっくりな少年がいた。
 ル・カレは彼に同年代の頃の自分を重ねあわせており、それだけ本作は思い入れの深い作品になっている(文庫新訳版収蔵の著者による序章より)。
 著者は、主役であるスマイリーに託して、読者になにがしかのメッセージを送っているが、この少年を登場させたことにも深い意味をもたせている。

 それでは、物語の本筋はこうだ。
 かつて情報部で指揮官の右腕だったジョージ・スマイリーは、引退生活を送っていた。

 彼は年老いている。
 その風貌はといえば、分厚いまんまるのレンズの眼鏡をかけ、ずんぐり小太りで、短足の足運びは敏捷というにはほど遠かった。
 美人の妻アンには浮気の噂があり、いまは別居している。お相手は彼女のいとこのビル・ヘイドンと囁かれていた。彼はまた、スマイリーのかつての同僚であり、情報部でナンバー2の地位にいる。
 噂は、スマイリーの耳にも入っていた。 

 引退から一年が過ぎたスマイリーの前に、かつての部下であるピーター・ギラムが現れる。
 人目につかぬ深夜、ギラムはスマイリーをオリヴァー・レイコンの自宅に連れていく。内閣官房の高官であるレイコンは、情報部のお目付け役でもあった。 

 

「もぐら」の暗号名は「ジェラルド」

 ここから物語は動き出す。
 レイコン宅で、東南アジア担当の工作員と引きあわされたことから、スマイリーは困難な事件の解明にまきこまれていく。

 発端は、香港で工作員が目をつけたソ連情報部員の妻イリーナの告白である。
 彼女は西側への亡命をのぞんでおり、引き換えに極秘情報をもたらした。

 それは、モスクワ・センター(ソ連情報部)の工作指揮官であるカーラが、戦前に英国で将来「もぐら」(二重スパイを働く潜入工作員)となる人材をリクルートしていた。そのなかの一人、「ジェラルド」という暗号名の「もぐら」は、いまや情報部の上級職員にまで出世しているというのである。

 工作員は、「情報部の安泰にかかわる重要な情報がある」と本国へ伝え、イリーナの亡命を具申した。
 だが、それからほどなくして彼女の姿が香港から消えた。「ジェラルド」を通じて、寝返ったことがソ連情報部に内通されていたのである。
 彼女は拘束され、モスクワに強制送還。ほどなく処刑されていた。
 工作員も身の危険を感じ、すぐさま香港を脱出するが、帰国しても用心のため情報部には近寄らず、ピーター・ギラムとだけ連絡をとったというわけだ。

 

「厩舎を一掃するといっておく」

 工作員の情報を放置しておくわけにいかない。
 幹部のなかに裏切り者がいる。であるなら、誰が調査役に適任か。「ジェラルド」に気づかれないためには、部外者に頼むしか方法はないだろう。

 レイコンは、こうした事態を情報部を監督する外務大臣に報告せざるをえない。
 彼はスマイリーに命じた。
「きみが仕事を引き受けて、厩舎を一掃するといっておく。もどるもよし、進むもよし、なんでも必要なことをやってくれ。なんといっても、きみの世代の出来事だ。きみらの置き土産だ」 

 ここでスマイリーは、過去の忌まわしい事件を想起した。
 指揮官が失脚し、スマイリーも引退に追いこまれた一年前の、チェコでの手痛い作戦の失敗。このとき、部下のジム・プリドーが銃撃されて囚われの身となった。待ち伏せされていたのだ。
 さらに現地の協力者が次々と処刑され、英国のスパイ網は壊滅した。

 ここにきて、読者ははじめてパブリック・スクールで臨時に雇われた教員が彼なのか、と知ることになる。

 この作戦は、「テスティファイ」と呼ばれていた。いまになってみると、情報部内に巣食う「もぐら」が作戦内容を漏らしていたとしか考えられない。
 当時、スマイリーは裏切りの可能性を上層部に訴えていたが聞き入れてはもらえなかった。今回は決着をつけなければならない。

 スマイリーは、どうやって「もぐら」をあぶりだすのか?
 資料を読みこんでの推理。そして関係者を訪ね歩いての尋問。そこから「もぐら」の正体がしぼりこまれていく。これが本作の読みどころである。

 

「テスティファイ」作戦とは?

 もう少し、物語を読みすすんでみよう。
 手始めに、スマイリーはピーター・ギラムに命じ、情報部の資料室にある膨大な記録にあたることにした。
 直近になってはぎ取られたファイルがある。
 香港から工作員がイリーナの情報を送信した日の当直日誌だった。削除に関係した者が裏切り者なのか。 

 スマイリーが訪ねたひとり、ミス・コニー・サックスは、情報部で「調査の女王」といわれていた。
 彼女は入手可能な資料や記録を丹念にあたっていく手法で、ロンドンのソ連大使館員を装った文化アタッシェが、工作指揮官カーラ直属のスパイであることを見抜いた。
 この大使館員が、カーラと「ジェラルド」とをつなぐ連絡係になっている。

 しかし、そのことを上訴したコニーは、情報部から追い出されてしまう。その二、三週間後に、ジム・プリドーがチェコで背中を撃たれた。

 そうなのだ。
 なによりも、チェコでの作戦「テスティファイ」についての調査が肝だった。
 当時、スマイリーも作戦内容について指揮官から知らされていなかった。
 詳細を知るのは指揮官に命じられて現地に入り、銃撃されたプリドーだけだ。
 しかし、当時の状況を断片的に知る関係者が何人かいた。
 スマイリーは彼らを訪ね、作戦の輪郭を明らかにしていく。

 最終的に調査の行き着く先は、ジム・プリドーに会うことだった。
 プリドーが勤務するパブリック・スクール。
<教会のすぐそば、楡の木陰にブルーのフォードがとめてあった。>
 彼は、校舎の窓からその光景を眺めていた。
<カードアがあいて、厚手のオーバーを着たジョージ・スマイリーが、足元に気をつけて降り立った。>
 スマイリーとプリドーとの対話。本作のヤマ場である。

 誰が裏切り者だったのか。
 指揮官は、かねてより組織の中枢、幹部のなかに「もぐら」がいると疑っていた。容疑者は5人いる。彼は、密かにプリドーにチェコへの潜入を命じる。
 モスクワ・センターの信頼厚いチェコ軍情報部の高官が、西側との取引をのぞんでおり、その際に「もぐら」の正体を明かすというのだ。彼と接触して名前を聞き出すこと。それが「テスティファイ」作戦だったのである。

 指揮官は、容疑者5人の暗号名をプリドーに告げた。ティンカー(鋳掛け屋)、テイラー(仕立て屋)、ソルジャー(兵隊)、プアマン(貧者)、ベガーマン(乞食)。5人の容疑者をそれぞれの暗号名に充ててある。万一、チェコからの脱出で窮地に陥ったときには、ひと言、暗号名だけでも自分に伝えるべし——。

後編に続く)

ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ(新訳版)

ジョン・ル・カレ(著)、村上 博基(訳)
発行:早川書房
ハヤカワ文庫  549ページ
初版年月:2012年3月
ISBN:9784150412531

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