【書評】冷戦の戦士に捧げる「鎮魂歌」:ジョン・ル・カレ著『スマイリーと仲間たち』(後編)

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ソ連から亡命してきた軍人が、ロンドンで惨殺された。二重スパイだった男は死の直前、ソ連情報部の巨魁にして工作指揮官、カーラの名前を口にしていた。伝説のスパイ・マスター、ジョージ・スマイリーが引退生活から呼び戻される。ついに両雄が激突する——。その後編。

前編から続く)

 この作品のどこに面白さがあるのか。
 物語の楽しみ方は、読者のお好みでいく通りもあるだろう。

  私は、過去作品の登場人物、すなわちタイトルにあるスマイリーの仲間たちの再登場の場面で、思わず拍手喝采してしまった。
 彼らとスマイリーとのやり取りを、ひと言ひと言、噛みしめるように読んだものである。

 そのひとりが、トビー・エスタヘイス。
 スマイリーは、一枚の写真を手掛かりに捜査を続ける。それは、浮かんだ疑問のひとつひとつをつぶしていく作業だった。
 なぜ殺害された亡命軍人のウラジーミルは、自分との接触を求めたのか。直接の工作担当者はエスタヘイスだったはず。これが最初に浮かんだ疑問だった。
 

「夢に見ていた獲物」

 スマイリー・シリーズの過去作品を読んだ読者ならご記憶かと思う。血の気の多いハンガリー人で、かつてスマイリーがスカウトした情報部員。
 スマイリーは、引退して美術商の身分を手に入れたエスタヘイスに会いに行く。

 案の定、ウラジーミルは、エスタヘイスと接触していた。老いた「将軍」は、彼にこう告げた。
「マックスがいつも夢に見ていた獲物を釣りあげた」
 マックスはスマイリーの暗号名。
「夢に見ていた獲物」は、ソ連の工作指揮官カーラを指す。
 さらに、スマイリーに伝えてくれと、
「サンドマンがひとりの女のために伝説をこしらえている」
 そういえばわかる、と言い残している。
 エスタヘイスは亡命者を相手にしなかった。だからスマイリーに接触しようとする。その過程で、ソ連側にも行動が筒抜けになっていた。誰かが密告したのだ。

 スマイリーに目指すべき光が見えてくる。エスタヘイスの証言によって、亡命者殺害事件の輪郭がうっすらと浮かんできた。
 だが、エスタヘイスはスマイリーにこう忠告するのだ。
「いまになってクレムリンめがけ騎兵隊最後の突撃かい。もうおれたちはおわったんだよ、ジョージ。もう資格がないんだ。ご用ずみだよ。やめたがいい」
 

「ひとつのリンゴの半分同士」

 もうひとり、ミス・コニー・サックス。元英国情報部ソ連調査課の主任。彼女のあたまのなかには、ソ連の情報員に関する膨大なデータが内蔵されている。
『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』では、スマイリーに協力してサーカス(英国情報部)の中枢に潜む二重スパイ「もぐら」の摘発に一役買った。その続編『スクールボーイ閣下』では、スマイリーとともにサーカスに復職。本作では、年老いて隠遁生活を送り、病で死に瀕している。 

 スマイリーは自ら運転する車で州境を越え、山荘に住むコニーを訪ねる。
 彼女は、スマイリーに重要なヒントを与える。カーラにまつわる女性について。
 その女性こそ、カーラにとって致命的な弱点だった。のちにスマイリーはそこを突いていくのだが、皮肉なことにスマイリーにとっての弱点が愛する妻アンであるのと相似形をなす。
「あんたとカーラは姉妹都市だって。ひとつのリンゴの半分同士だって」
 と、コニーは言い放つ。かつて冷戦を戦った仲間だからこその辛辣なひと言だった。

 そして最後に、遺言であるかのように言う。
「やめなさい、ジョージ。カーラはあんたをたたきつぶしたのよ。あんたを欺き、あんたの時間をもてあそんだのよ。(略)カーラはあんたの失われた過去を返してはくれないから」

 いよいよカーラとの対決を目前にして登場するのが、ピーター・ギラムである。フランス人の血を引き、敏腕ではあるが女難の癖がある、愛すべきスパイ。彼は、『寒い国から帰ってきたスパイ』以来、スマイリーの側近だった。

 そのギラムもすでに50代になっており、引退間際のポストに追いやられているのだが、スマイリーが最後に頼りにしたのは、やはりギラムだった。
 彼の眼にスマイリーはこう映った。
<ジョージと知り合って以来、あれほど真剣で、あれほど謎に満ち、あれほど必至の彼を、あとにも先にも知らない(略)>

「身柄か、でなきゃご破算だ」

 もうひとつの読みどころ。
 ル・カレは、この三部作を通じて組織と個人の問題を読者に問いかけてきた。
 共産主義はいうにおよばず、自由主義の国であっても、組織(国家)の存続のために個人の犠牲はやむをえないものであるのか。

 スマイリーは、なんのために闘ってきたのか。
 かつての仲間が引き留めようとしたにもかかわらず——。
 カーラを追い詰める作戦を展開するには、組織の支援が必要になってくる。もはやスマイリー個人の力だけでは先へ進めない。
 そこで現在のサーカスのチーフ、ソウル・エンダビーとの談判の場面。ここでのやりとりは、組織と個人の問題を考えるうえで感慨深いものがある。

 エンダビーは、サーカスのお目付け役である外務省の東南アジア担当の官僚にすぎなかったが、前作『スマイリーと仲間たち』において、CIAと結託することでスマイリーを追い落とし、チーフの座についたという人物。

 エンダビーは、スマイリーの話に半信半疑。
「まさかジョージ、わが国を最後の破滅へ誘いこもうとのソ連の悪だくみじゃあるまいな」
 エンダビーが念を押すように確かめると、スマイリーは、
「もうこの国にそれほどの値打ちはないんじゃないか、ソウル」
 と返している。

 エンダビーは、作戦失敗の責任は取りたくないが、成功の果実は独占したい。協力するのかしないのか煮え切らないエンダビーに対して、
「獲物がほしいかほしくないかというだけの問題だ」
 と、スマイリーは突き放す。

 エンダビーは、
「身柄か、でなきゃご破算だ」
 と。失敗したときにはスマイリーがすべて責任を負う。それならば、作戦の遂行を黙認しよう。カーラをわが陣営の軍門に下すことができれば、手柄は自分のものとなる、という計算がはたらいている。

 この手の、損得勘定が得意で、立ち回りに長けた人物でしか組織のトップにはなれないものなのか。
 誰もが認める、その道のエキスパートが必ずしも生き残るわけではないのだ。
 優れたスパイ・マスターであるスマイリーは、無理難題を引き受けさせられるものの、報われることはない。本人もなにものぞんではいない。だから、なんのために闘っているのだろうか、と思う。

 エンダビーもスマイリーに聞いてみる。
「きみはこれを仕事でやっているのか、それともたのしみでか。どっちだ」
 スマイリーの言葉はこうだ。 
「たのしみを意識したことはいちどもない(略)というか、区別を意識したことがないんだ」

アメリカ製の「キャメル」

 私にはずっと気になっていたことがあった。
『ティンカー、テイラー~』で描写に力を入れ、本作でも再現されているスマイリーとカーラが直接やりとりした過去の重要な場面。
 まだカーラが工作指揮官になる前の、かなり以前の挿話。スマイリーは、たまたま西側の囚われの身となったカーラに、亡命するよう説得していた。

 このとき、ヘビースモーカーのカーラにスマイリーが煙草をすすめる。銘柄は、カーラが好んで吸っていたアメリカ製の「キャメル」だった。
 結局、彼は煙草を吸わず、ひと言も発しないまま席を立つのだが、このとき、スマイリーが差し出したひと箱の「キャメル」とライターを持ち去っていく。

 ライターは、妻のアンから贈られたもので、「ジョージへ、アンより愛をこめて」と文字が刻んである。その記念の品をわたしてしまうのだ。
 のちにアンと別れること、しかもその原因の一端が二重スパイの「もぐら」がらみであるのだから、なんとも意味深な場面になっている。
 強く印象に残ったので、私は、このライターはどこの製品なのかとずっと想像していた。
 妻からの贈り物だから、きっと英国製のライターではないか、と。

「黄銅鉱のように光っていた」

 その疑問が、はからずも本作で解けたのである。
 先に紹介したエンダビーとスマイリーとのやりとりで。
 エンダビーがスマイリーに聞く。
「カーラはまだ、きみがアンにもらったライターを持っているのかね」
 その答えに驚いた。
「ありきたりのロンソンだった」
 と。続けてスマイリーはそっけなく言う。
「それにしても、永持ちする品物だな」 

 そうか、「ロンソンだったのか!」と私は膝を打った。別の個所で「黄銅鉱のように光っていた」とも描写されている。
 だが、ここでまたしても疑問がわいた。「ロンソン」はアメリカ製のオイルライターだ。
 なぜなんだろう。ディテールにこだわるル・カレであるだけに、なにか意味を持たせているのだろうと推測するが、こればかりは作者に聞いてみなければわからない。

 たかが煙草の話ではないか、と思われるかもしれないが、スマイリーによる捜査の最初の手掛かりが、フランス製の煙草のひと箱だった。
 そして、いよいよクライマックスでの肝心要の場面。煙草とライターが再び重要な小道具になっている。
<つめたい風がアメリカ煙草のにおいを、喫煙者よりひと足先にはこんできた>
<凍てついた路面になにか金属のおちる音が聞こえ(略)>
 しびれるシーンだ。なるほど、「永持ちする品物」だったわけである。

「両者はおなじ不治の病」

 閑話休題。
 いよいよカーラとの対決という緊迫した場面。ル・カレは、
<秘密諜報員の世界では、安全と極度の危険のあいだはほとんどないにひとしく、瞬時に裂ける薄膜でしかない。>
 と看破している。
 スマイリーが画策した作戦は、はたして勝利か破滅か——。

 だが、ここにいたるまで、東西両陣営ともに数多くのスパイが命を落とし、犠牲になっていった。
 スマイリー自身が述懐している。
<カーラの過去深くはいって行くことは、それだけ自分の過去にもはいって行くことで、ときどき、一方の人生は他方の人生の補足にすぎないのではないか、両者はおなじ不治の病の原因なのではないかと思うことがあった>
 なんのために闘ってきたのか、スマイリーは老いてなお自らに問いかけているのである。

 三部作を通して振り返ってみたときに思う。スマイリーを通じてル・カレの描いてきたものは、冷戦の戦士に捧げた「鎮魂歌」ではなかったか。

ジョン・ル・カレ著『スマイリーと仲間たち』

スマイリーと仲間たち

ジョン・ル・カレ(著)、村上 博基(訳)
発行:早川書房
ハヤカワ文庫  575ページ
初版年月:1987年4月10日
ISBN:9784150404390

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