【書評】大義を持って働くということ:瀬戸晴海著『マトリ――厚労省麻薬取締官』

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近頃、ニュースにたびたび登場する麻薬取締官――通称マトリ。彼らは日頃、どうやってターゲットを捉え、摘発に向けて捜査を進めているのか。マトリのトップを担った著者が克明に綴る、薬物との長きにわたる戦いと、そこに懸けてきた情熱。

一人の麻薬取締官の物語である。

麻薬取締官――通称「マトリ」。
いつから「マトリ」は、人々に知られる呼び名になったのだろう数年前、あの有名な歌手が逮捕された時?
それとも、元プロ野球選手が捕まった時?
大物の俳優や女優が捕まったニュースは、記憶に新しい。

マトリが次に狙うターゲットは誰か。
そんな話題がメディアで取り上げられることもあるくらい、いまやマトリは一般的な言葉になった。

そんな“流行語”に反応して、本書を手に取る人も少なくないのではないか。
著者は元関東信越厚生局麻薬取締部部長。
大学を卒業して厚生省麻薬取締官事務所(当時)に採用されて以来、文字通りマトリ一筋、トップに上り詰めたプロフェッショナルである。裏表紙に載っている著者近影の鋭い眼光は、「この人、タダモノじゃない…‥」と確信させる。

では、メディアを賑わせた派手な事件の裏側が本書で語られるのかと期待すると、いい意味で裏切られるはず。
芸能人の名前など、一切出てこない。代わりに描かれるのは、著者が薬物と戦い続けてきた記録であり、そこに懸けた情熱や使命感だ。
派手な表現はないが、すべてが事実だからこそ迫力がある。

「我々がやっていることは取締りではない。“戦争”だ」
とは著者の知人で、アフガニスタンに赴任しているアメリカ人麻薬捜査官の言葉だが、この表現に国境はないと、本書を読み終える頃には実感する。日本でも、既に戦争は始まっているのだ、と。

裸足で大阪の街を逃げる

著者がマトリとしてデビューしたのは、1980年の大阪。
大阪は「今も昔も『覚醒剤濃厚地帯』であり、検挙者数は東京を凌駕する」場所であり、1980年は“第二次覚醒剤乱用期(1970~94年)”真っ只中だった。

当時のマトリに求められたのは「体力、忍耐力、記憶力、そして鋭い五感の力だった。まさに『猟犬』のような捜査だ」。
携帯電話がまだない時代、自転車で動く売人を見つけると、マトリは公衆電話で本部と連絡を取りつつ追いかけた。命綱は、ポケットに入れた常に大量の10円玉。時には民家の戸を叩いて頭を下げ、電話を借りていたという。

著者が新人時代に送った日々は、まるで昭和の仁侠映画の一場面のようだ。

ある日、先輩とあいりん地区のドヤにあるシャブ屋に踏み込んだ著者は、本部への応援要請を頼まれるもののドヤの公衆電話は故障中。とっさに裸足で駅まで走っていく。当時のドヤでは、よく靴が盗まれていた。

また別のドヤでは、覚醒剤の密売所となっていた部屋を偵察中に「上半身裸で刺青が満開」な男たちに凄まれ、著者は2階の窓から飛び降りて逃げる。ガラスを踏んだのか、裸足の足の裏からは血が滲み、捻った足首も痛むが公衆電話はなかなか見つからない。
ようやく探して上司に電話を入れると「『アホ!』と一喝される始末」だ。

臨場感たっぷり、ハラハラ度合い満点。
ぷんぷん漂う昭和の大阪の匂いが、さらに刺激を高めてくれる。

「私はいらない」と言えただろうか

ドラマチックな捕物劇ばかりではなく、著者が目の当たりにしてきた、薬物がもたらす凄惨な光景も心をえぐる。

優等生だった大学生が、ネットを介して手に入れた覚醒剤にみるみるハマり、げっそり痩せ衰えて親に暴力をふるい逮捕された話や、おとなしいOLが違法薬物を濫用した挙句、ネット上で密売人としてデビューして荒稼ぎしていた様子を知ると、すーっと背筋が冷えていく。

自分の周りに、いや、もし何かボタンをひとつでも掛け間違えていたら、自分も使っていたかもしれないのでは?
学生時代に親しい友人に渡されたら、「私はいらない」と言えただろうか?

そんな質問がぐるぐると胸の中で渦巻く。

「覚醒剤を使って芸能人が逮捕された」とか、「暴走した車のドライバーが、合法ドラッグ(当時)を服用していた」、「大麻が合法化されている国もある」といった断片的なニュースには触れていても、日本と薬物、さらには世界と薬物という視点では捉えたことがなかった。

だが、それは自分がラッキーだっただけにすぎない。

著者が経験してきた、大都市圏を席巻していたイラン人薬物密売グループを壊滅させるまでの地道な捜査や、インターネットによって急速拡大した合法ドラッグ(現・危険ドラッグ)との長い戦いを読むと、「自分が買っていてもおかしくなかった」と強く思えて怖くなる。

それくらい、今の日本では簡単に薬物が手に入る。
そして、取り締まることは非常に難しい。

何のために働くのか?

最終章は、2015年12月に著者が皇居にいるシーンから始まる。

その日は人事院総裁賞の授与式が開かれ、著者率いる「麻薬取締部危険ドラッグ取締対策本部」が顕彰されたのだ。

この章で、それまで冷静だった著者の感情が初めて露になる。

「国民を危険ドラッグから守ってくれてありがとう」
「どうか麻薬取締官たちを労ってほしい」

現上皇上皇后陛下から、著者へかけられた言葉だ。

著者の言葉を借りれば、かつては「捜査官としてやりたい仕事をひたすらに追い求めていた」が、危険ドラッグの捜査は凶悪な薬物犯罪組織と対峙するわけではなく、ダイナミズムに欠ける。

捜査官たちの士気が上がるのにも、時間がかかった。
しかし結果的には大きな成果を上げ、「国民に求められた仕事を果たした」のだ。
著者はそう実感し、麻薬取締官の存在意義を改めて認識する。

職場に戻った著者は、部下たちをこう鼓舞している。
「我々と危険ドラッグとの戦いは終わりではない。初戦はここで終了したが、これから第二戦に入る!」

あなたは、何のために働くのか。
その問いを突き付けて、本書は終わる。

マトリ-厚労省麻薬取締官

瀬戸晴海(著)
発行:新潮社
新書判:272ページ
価格:820円(税抜き)
発行日:2020年1月20日
ISBN: 9784106108471

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