【書評】線引きという障害を越えていく、メロドラマの傑作:李琴峰著『ポラリスが降り注ぐ夜』

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台湾出身の作家で、日中両言語の書き手でもある李琴峰(り・ことみ)が、デビュー作『独り舞』、芥川賞候補作となった2作目『五つ数えれば三日月が』に続く3作目を発表した。新作は、新宿2丁目のバー「ポラリス」に連なる多様な性的アイデンティティを持つ女たちの織りなす7つの恋の物語だ。

さまざまなセクシュアル・マイノリティ

 多大な期待を持って読み始めた作品が、期待を遥かに超えていく作品だったとき、人は言葉を失う。「人は」などと言っているが、要は、私がすっかり『ポラリスが降り注ぐ夜』に飲み込まれて、声が出ない状態なのである。

 なぜなら、自分にとってあまりに切実な小説だから。これから生きていく上で、必要な言葉だったから。ヘテロ男性という私の属性はほとんど登場しない作品にもかかわらず。書評をするために、読みながら思考したことをメモするわけだが、途中からメモを取れなくなった。思考できなくなった。小説の登場人物たちの言葉に誘われて、自分に抑圧されていた私が行間から姿を垣間見せ、私は取り乱すことを繰り返した。

 「アジア最大のゲイタウン」新宿二丁目にある、女性オンリーのレズビアン系バー「ポラリス」を舞台に、ひと夜の七つの物語が深く連関し合いながら展開するこの小説は、李琴峰の三冊目にして、現時点での最高作だろう。新宿二丁目という小さなコミニュティに集う個々人のパーソナルな物語を繊細に語りながら、ジェンダー、セクシュアリティのあり方はもちろん、その人たちが生きざるをえない人種、国籍、政治的現実、歴史をしっかり描き込んで、こんなにまで普遍の高みに達している小説は、日本語の現代文学では初めてではないだろうか。

 七つの物語に登場するのは、さまざまなセクシュアル・マイノリティの「女性」たちである。カギカッコを付けたのは、世の通念での「女性」を意味しないから。女性・男性を分ける線引きに悩む女性まで含めて、それぞれの女性を生きる人たちである。誰も、自明な女性ではない。自明だとされる「普通の女性」像に傷つき、苦しんだ経験を持つ。

 新宿二丁目が、そのコミュニティの中では圧倒的なマジョリティであるゲイではなく、女性の目線から描かれるだけでも画期的なのだが、この作品ではマイノリティ同士の中でも生じうる力関係が丁寧に描かれる。

カテゴライズの言葉

 そこで問題になるのは、カテゴライズだ。登場する人たちのセクシュアリティをカテゴリーで表せば、レズビアン、バイセクシュアル、Aセクシュアル、ノンセクシュアル、トランスジェンダー、パンセクシュアルとなるが、当人たちにとってはその言葉よりもまず自分がある。その後で言葉がくる。どこか一般からずれて生きづらさに苦しんでいる者が、カテゴライズの言葉に出会って自分がそれに当てはまると知ったとき、初めて自分の存在が肯定された気持ちになれる。

 作品内ではカテゴライズをめぐって、幾度も言葉が交わされる。
「カテゴライズされることで自分自身の存在に対する安心感が得られるのなら、してもいいんじゃないかな? だって、言葉がないのはあまりにも心細いんだもの」「(カテゴリーの)名前というのは、自分は一人じゃないってことの証拠なの。そして名前がないのは、生まれていない、存在しないも同然よ」(p97「蝶々や鳥になれるわけでも」)

「敢えて言葉で自分を定義する必要を感じません。昔は男と付き合っていたし、今は女と付き合っているけど、自分をバイセクシュアルだとは思っていません。かといって完全なレズビアンでもない気がします。どの言葉を使っても、自分自身を部分的に削り取ってしまうような気がするんです」(p198「深い縦穴」)

「境界線が描けないところに無理やりその線を入れるという行為は、必ず誰かを引き裂く結果になるので、怡君(イージュン)にはそれがどうしても暴力的に思われた」(p40「太陽花たちの旅」)

「二丁目でバーを十何年もやっているとね、来た客が一人一人違うってのを段々分かってきたの。名前がいくつあっても足りないくらいみんな違うから、そんな簡単に説明されてしまうのって、いいのかなって」(p253「夜明け」)

 この議論に正解はないし、どれも理のある言葉だ。重要なのは、この小説が、どの立場の人も正しさにおいて優位に置かず、個々人の揺らぎや曖昧さを大切にし、惑いをじっと待って言葉にしていることだ。

 すべての性はグラデーションの中にあって、それぞれが微細に異なり、だから懸命にコミュニケーションを取ろうと努める。親密さを求めるそのさまこそが、性なのだと思う。引用したような言葉に、私はいちいち涙した。それは私自身が解放を感じられたことの涙だ。

政治にも踏み込むスケール

 こういった繊細な感情や思考を収容する器としての物語が、また素晴らしい。
 私はマヌエル・プイグや映画監督のペドロ・アルモドバルのメロドラマに感化を受けていて、優れたメロドラマに浸ることは物語の愉楽と毒に溺れることだと思っているが、李琴峰はそのようなメロドラマを作る資質をふんだんに持っていると感じている。本書は、その一つの完成形ではないか。

 文学はいつでも、世の無意識の価値観を作る、形式としての物語をなぞりつつ、その形式性を壊していく、という運動のただなかにある。日本語の文学は、私自身の作品も含めて、物語の形式性に取り込まれることを恐れるあまり、腰が引けて物語の中に飛び込んでいききれていないところがある。虎穴に入らずんば虎児は得られない。これでは物語の形式力を壊すことはできない。相手のいない、寂しい独り相撲をとっているかのよう。溺れないかぎり、裏切ることさえできないのだ。

 だから、政治も描けない。政治を避ければ、それは政治の物語に屈したことになる。
 李琴峰文学は、かまわず踏み込んでいく。デビュー作『独り舞』ではその強引なまでの推進力、スケールの大きさに感銘を受けた。

 『ポラリス』でも、その姿勢は変わらない。台湾人、中国人、日本国籍を持ちオーストラリアで育った日系の女性。その人たちが体験してきた暴力の背景には、その社会の政治と歴史が存在していることが省かれない。台湾人のトランスジェンダーの女性は、家族との葛藤に苦しみ、それを政治デモにぶつけてひまわり学生運動に身を投じる。中国人のレズビアンは、父親のいない理由を誰も教えてくれないのは、天安門事件の結果であったことを知る。二丁目を研究している日本の学生は、「生産性がない」という言葉でマイノリティを差別した政治家の辞職を求めるデモに参加する。

 メロドラマは、障害が大きいほど物語としての濃さを増していく。李琴峰文学では常に、当人たちには存在していないはずの障害が、他者から線引きという形で作られていくことに葛藤し、抵抗し、乗り越えていこうとし、時には失敗して悲劇を生み、時には成功して希望となる。

 その障害とは、セクシュアリティをめぐる線引きであったり、国籍をめぐる線引きであったり、さらには作品が書かれている言語のネイティブ性をめぐる深い深淵であったりする。それらを正面から突破しようと何度でも試みるから、こんなにも血の通った文学として、読む者に生きていく力を与えてくれるのだ。

ポラリスが降り注ぐ夜

李琴峰(著)
発行:筑摩書房
四六判:272ページ
価格:1600円(税別)
発行日:2020年2月28日
ISBN:978-4-480-80492-1

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