【書評】冷戦末期の欺瞞工作を描いた傑作:マイケル・バー=ゾウハー著『パンドラ抹殺文書』

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KGB高官のなかに、CIAの二重スパイがいることが判明した。ブレジネフ書記長はアンドロポフKGB議長に、ただちに正体を暴き、拘束するよう厳命する。一方、敵方の探索を察知したCIAは、二重スパイを守るため、巧妙な欺瞞工作(相手を欺く工作)を展開する。米ソ情報機関の騙しあいの果てにたどりつく、劇的な結末―-。

 欺瞞工作を描いたスパイ小説のなかでも、面白さでいえば、本作は最上位にランクされるのではないかと思う。
 CIAがKGBを欺くために、偽情報を巧妙に流していく。物語の最後の最後に、すべての種明かしがなされるが、「そうだったのか!」と、わたしは思わず絶句した。
 なにしろ、騙しのスケールと仕掛けに驚かされるのだ。

 ご年輩の読者なら、ベレンコ中尉亡命事件を覚えているだろうか。1976年9月6日午後1時50分、ソ連の最新鋭戦闘機ミグ25が、日本の函館空港に強行着陸した事件である。搭乗していた29歳のヴィクトル・ベレンコ中尉は米国への亡命を表明し、その要望はかなえられた。

 これは、冷戦下の日本を震撼させる大事件だった。自衛隊機の緊急発進など、日本の防空体制がまったく機能しないことが明らかになり、機体を奪還するためソ連軍の侵攻もあるのではないか、との観測も流れたくらいだ。

 では、なぜ彼は亡命したのか。その理由については当時、諸説囁かれた。そもそもCIAのスパイだったという説もある。

 本作には、この亡命事件がとりこまれている。しかも、物語も佳境に入ったところで、欺瞞工作の総仕上げとしてこの事件が勃発するのである。
 これは日本の読者にとっては興味津々。

 わたしが一番関心をもった、このあたりの場面を真っ先に紹介しておこう。
 ドキュメンタリータッチで、物語はぐいぐい進んでいく。 
 領空侵犯したミグ25は、自衛隊機の緊急発進をものともせず、レーダーに探知されにくい低空を飛行して、やすやすと函館空港に着陸する。
 本作では、亡命者はヴィクトル・マスリノフ空軍大尉となっている。

「幻の戦闘機」フォックスバット

 西側の情報機関は、ミグ25を「フォックスバット」というニックネームで呼んでいた。当時、アメリカの戦闘機を凌駕する世界最速の軍用機であり、その性能は謎のベールに包まれている。CIAは、それを探るために大規模な情報収集作戦を展開していたが、まったく成果を挙げていなかった。

 そこへ僥倖というべきか、ソ連の空軍大尉がミグ25を手土産にして、米国へ亡命したいという。
<まさにアメリカの専門家たちがフォックスバットを、エンジンから操縦装置、装備、電子機器に至るまで徹底的に検査できる絶好の機会がおとずれたのである。>

 ソ連は大尉の身柄引き渡しと機体の即日返還を要求。日本はこれを拒否した。
 米国の意向を無視するわけにはいかない。
<…フォックスバットが北海道に着陸してからなんとわずか一時間後には、アメリカ政府の707が、空軍の海外科学技術部の技術者ばかりからなる十七名の専門家チームを乗せ、ワシントンに近いアンドルーズ空軍基地を飛び立っていた・・・>

 専門家チームはその日の夜に函館に到着し、ただちに有刺鉄線をめぐらせた囲いのなかに通される。そこに「幻の戦闘機」といわれたミグ25が鎮座していた。彼らは、<・・・すみやかに分厚い防水シートをはずし、作業にとりかかった。機体を分解し、部品のひとつひとつを系統だてて写真にとり、測定し、記録していったのである。>

 ここからが肝心である。
 17名の専門家チームのなかに、CIAから派遣された要員が5人いた。リーダー格は、ソ連を担当するUSSR部部長のジェフ・クロフォード。彼らはミグには見向きもせず、急ぎ函館市内のホテルに駆けつけ、指定されたスイートルームに入っていった。そこに、ヴィクトル・マスリノフ空軍大尉がいた。

金鉱かガセネタか・・・

 CIAによる尋問(デブリーフィング)は7時間におよんだ。
 その成果をもって、クロフォードは東京のアメリカ大使館からCIA本部に連絡を入れた。報告した相手は、同部情報担当副長官のハーバート・クランツ。

<「しゃべったか?」クランツは勢いこんできいた。
「ああ、しゃべったなんてもんじゃない」クロフォードは答えたが、その声はもうひとつ冴えなかった。「だが金鉱を掘りあてたんだか、ガセネタをつかまされたんだかわからん」>

 亡命者は、知る限りのソ連の軍事機密を暴露した。その内容には、CIAがすでにつかんでいた情報も含まれていたのだが、 
「・・・問題は、われわれがまだつかんでいなかった初耳の情報のほうで、これがけっこうあるんだ」
 と、クロフォードは報告する。

 その未確認情報のなかには、ソ連海軍が最新式の巡航ミサイルの開発に成功したとするものがあった。これはとんでもない爆弾情報だった。
「・・・もしこのマスリノフの話が事実だとすると、われわれのミサイルはもう廃物だ。となると、こんどのSALT会議が非常にやったいなことになる」(クロフォード部長)
「それはまずいな。会議は二週間後に始まるんだ」(クランツ情報担当副長官)

 ソ連の新型巡航ミサイルの完成が事実なら、軍事バランスは一気にソ連優位に傾くことになる。
 そう、この物語は、1970年代の米ソ緊張緩和(デタント)の時代を背景にしている。両国間で、核弾頭を搭載する戦略兵器の制限に関する交渉(SALTⅡ)が行われているが、水面下では、双方のミサイルの削減数をめぐって激しい駆け引きがあった。

 空軍大尉は真実を語っているのか。それとも亡命劇は、ソ連が米国にガセネタをつかませるための欺瞞工作だったのか。しかし、そのためにソ連は虎の子のミグ25を犠牲にまでするのだろうか?

 疑い出せばきりがない。はたして、なんのための亡命だったのか。それが本作の核心につながってくる。

 そして、ここからが最大のヤマ場だ。CIAは、亡命大尉がもたらした未確認情報の裏付けをどうやって取るつもりなのか。それにはうってつけの人物がいた。
 それは、「パンドラ」という暗号名で呼ばれる二重スパイ――。

緊張緩和(デタント)の時代

 本作が発表されたのは1980年のことで、日本語版は81年6月に刊行された。
 作者の経歴紹介によれば、マイケル・バー=ゾウハーは、1938年ブルガリアの生まれ。ナチの迫害をのがれてイスラエルに移住。新聞特派員を経て、中東戦争に従軍、のちに国会議員になったという人物である。
 この、米英ではない、イスラエルの作家が描く、東西冷戦の実相というところにも、この物語の面白さがある。

 作品の背景となる70年代は米ソ緊張緩和(デタント)の時代と呼ばれたが、79年のソ連のアフガン侵攻によって再び両国関係は緊張へと逆戻りする。本作は、その直前の、米ソの諜報戦を描いたものだ。
 緊張緩和といっても、依然、両国の情報機関は熾烈な戦いを展開している。

 少し歴史をひもとけば、1969年から米ソの間で戦略兵器の制限に関する交渉(SALT・Ⅰ)が始まった。これは、互いに核弾頭を搭載する戦略ミサイルの数を制限し、軍事バランスをとろうとするもので、ニクソン大統領とブレジネフ書記長との間で72年に5年の有効期限つきで合意が成立した。

 引き続き、73年より第2次交渉(SALT・Ⅱ)が始まり、79年6月、カーター大統領とブレジネフ書記長との間で条約調印までこぎつけたが、12月のアフガン侵攻により、米議会は条約批准を否決する。

 本作には、ブレジネフ書記長とKGBのアンドロポフ議長が実名で登場する。アメリカの大統領の名は出てこないが、カーター大統領が該当する。
 作家が、彼らをどう描写したか。これは実に興味深い。ちなみに、アンドロポフは、ブレジネフ没後、1982年に書記長に就任するも、84年2月に病死する。

「パンドラ」と「アキレス」

 それでは、なぜ、ミグ25の亡命事件が起こったのか。物語の全体像をつかむために、ここで冒頭の場面に時間を巻き戻してみる。
 発端は、モスクワ駐在の米大使館員を装うCIAの女性工作員が、KGBに身柄を拘束されたことだった。
 彼女は、暗号化された機密文書を所持していた。
 KGB議長ユーリ・アンドロポフは、クレムリンに赴き、ブレジネフ書記長に報告する。

 「暗号文書の質問と指示から判断しますと、これを・・・・・・これを受けとるはずだった人物はKGBの高官ということになります」
 その人物は、KGBの最高幹部12人のうちの1人という可能性が高く、数年にわたって米国のためにスパイ活動をしていたことが判明したのである。
 それが誰かはわからない。ブレジネフはアンドロポフに、正体を暴き、身柄を拘束するよう厳命する。
 その人物こそ、CIAが暗号名で「パンドラ」と呼ぶ、超一級の二重スパイだったのだ。

 それから2週間後、米大使館員を装ったCIA工作員の自宅の電話が鳴った。声の主はロシア訛りの英語で早口に告げ、電話を切った。
「赤い・・・・・・アキレス・・・・・・パンドラに・・・・・・接近・・・・・・」
 電話を盗聴していたKGBチームは、発信源をすぐさま突きとめ、往来の電話ボックスに駆けつけたが、すでに空だった。

 それは、「パンドラ」からCIAに緊急事態を知らせる電話だった。
 内容は、自分の正体がバレそうになっている、至急、救助を請う、という切実なもの。よりにもよって、「パンドラ」とはライバル関係にある「アキレス」にかぎつけられたという。「アキレス」も、CIAが別のKGB高官につけた暗号名だが、こちらはCIAがもっとも警戒する強敵である。

「パンドラ」の正体を知る者は、CIAのなかでもウィリアム・ハーディ長官ほか、わずかしかいない。長官は大統領に急ぎ報告する。
 取り得る策はなにか。ただちに米国に亡命させればよいが、それは最後の手段。SALTの交渉が大詰めを迎えている今、できれば正体を暴かれることなく、情報源としてKGB上層部に温存しておきたい。
 そのためには「アキレス」を暗殺するしかないが、これは大統領が承認しなかった。
 そこで暗殺ではなく、敵にそれと気づかれることなく「アキレス」を「抹殺」する。その方法として長官が提案したのが、非常に手のこんだ欺瞞工作だったのである。

公文書に隠されたヒント

 もう少し、物語を進めてみる。 
 英国の公立記録保管所で、KGBの工作員が、ある歴史的な公文書を閲覧しようとしていた。そこには二重スパイが誰であるのか、解き明かすヒントが記されている。そもそも「パンドラ」は、英国の情報機関からCIAが引き継いだものだった。

 ところが文書係の手違いで、その文書は、論文執筆で資料を探しに来ていた大学院生の手に渡ってしまう。それがさらに、ガールフレンドのフランス人の娘シルヴィーに託される。

 KGBは娘を襲い、文書を強奪しようとするが、そこへ助けに入ったのが、彼女を監視していたCIAの敏腕工作員ジェームス・ブラッドリーだった。このジェームスとシルヴィーとが、物語をけん引していくヒーロー、ヒロインとなる。

 こののち、文書の謎を解いた二人がKGBの追撃をかわし、「パンドラ」を救うために奔走する。それが本作の最大の読みどころ。ここまで何人もKGBの高官が登場するが、いったい誰が「パンドラ」で「アキレス」なのか、最後まで正体は隠されているので、読者は推理しながら物語を存分に楽しめる。
 そして、ミグ25の亡命事件が起こるのだ。 

 はたして、無事、二重スパイを助けることができるのか。むろん、種明かしをするわけにはいかないが、ジェームス・ブラッドリーにも、「パンドラ」が誰なのかは知らされていない。そこに、欺瞞工作の大きな仕掛けが隠されているとだけ言っておこう。
 CIAの長官は、かなりの悪だ。

「パンドラ抹殺文書」

マイケル・バー=ゾウハー(著)、広瀬順弘(訳)
発行:株式会社早川書房
文庫版:363ページ
価格:860円(税抜き)
発行日:2006年3月31日
ISBN:978-4-15-041112-1

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