【書評】「フロンティア」で花を咲かせた後藤新平ら逸材たちの物語:渡辺利夫著『台湾を築いた明治の日本人』

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日本が台湾を統治した1895年から1945年にかけて、優れた日本の人材が台湾で縦横無尽に活躍した。明治維新によって近代化に成功した新生国家・日本にとって、初めての植民地として日清戦争の勝利で獲得した台湾は、自らの知識とアイデアを存分に発揮できる「フロンティア」でもあった。

渡辺 利夫 WATANABE Toshio

拓殖大学学事顧問、前総長、元学長。筑波大教授、東京大教授、拓殖大教授などを経て現職。山梨県生まれ。日本李登輝友の会会長。著書に『成長のアジア 停滞のアジア』(講談社学術文庫、吉野作造賞)、『開発経済学』(日本評論社、大平正芳記念賞)、『西太平洋の時代』(文藝春秋、アジア・太平洋大賞)、『神経症の時代 わが内なる森田正馬』(文春学藝ライブラリー、開高健正賞)など。

小説形式で台湾理解

本書は、戦前の日本統治下の台湾で活躍した人物たちを、小説の形式で取り上げる。著者は開発経済学の大家である同時に、台湾の歴史や政治にも精通している。登場人物の人生が物語風で描かれながら、著者ならではの詳しい知見が散りばめられ、日本の台湾統治に対する理解を深めるには格好の一冊だ。

主役は、農業、インフラ、水利など、多方面にわたって台湾の社会建設に貢献した専門家たちだ。「台湾農業の父」と呼ばれ、蓬莱米というジャポニカ種の米を品種改良で作り上げた磯栄吉、烏山頭ダムを作り上げて台湾南部の水利を一変させた技師・八田与一、児玉源太郎・第四代台湾総督のもとで民政長官として辣腕を奮った後藤新平、台湾のサトウキビ生産革命を成し遂げた新渡戸稲造、上下水道を普及させて「台湾水道の父」と呼ばれた浜野弥四郎などの人生が、活劇のように生き生きと描かれている。

特に引き込まれるのは、民政長官・後藤新平のくだりだ。コロナ禍に襲われるなかで、後藤の名前は、いろいろな場面で言及された。その背後には、世界を驚かせた台湾の新型コロナ対策の成功の陰に、台湾の伝染病対策に辣腕を振るった後藤の影響が残っていたのかどうかについての関心があり、同時に、足腰が定まらずにふらついたように見えた日本政府の動きにいらだち、「もし、今の日本に後藤がいれば・・・」という嘆き節もあった。

台湾で鍛えられた後藤

本書では、児玉総督とのコンビによって、日本の台湾統治を徹底的に変革し、軌道に乗せた後藤の行動を余すところなく紹介する。

岩手県生まれの後藤は愛知県で医師になり、内務省衛生局に加わってその実力を発揮した。異例の出世で衛生局長に任ぜられ、1895年の日清戦争終戦時には、24万人の帰還兵を検疫する作業を完璧にこなし、世界中から称賛を受けた。当時、臨時陸軍検疫部長だった児玉が後藤の働きに目を見張り、台湾総督になるとき、後藤を連れていったのだ。

後に、初代満鉄総裁、東京市長、関東大震災後の初代復興院総裁などを歴任して戦前の大政治家となる後藤の地金は、台湾で鍛えられたと言えるだろう。

1895年から日本統治下に入った台湾は、多くの難題を抱えていた。抗日武装勢力の蜂起が後を絶たず、アヘン吸引の悪習も蔓延していた。翌96年にはペストが大流行するなど伝染病対策も急務だった。

こうした台湾に、領有4年目の98年に赴任した後藤は、児玉から全権を与えられ、衛生問題を含めた国造りの施策を矢継ぎ早に打ち出していく。

後藤は「台湾はいま病人である。健康体にしなければならない」と考え、アヘンを専売制度によって政府のコントロール下に起き、新渡戸稲造を日本から招いてサトウキビの品種改良で手腕を発揮させた。土地調査を徹底して地租を増収させながら、「国家権力は個人や集団の中に古くから伝わる習慣・制度などを無視して一方的に行使されるべきではない」として、台湾人の習慣を調べ上げて台湾に合った統治方法を模索した。

衛生問題では、日本の主要都市に先んじて前出の浜野を起用して日本でもまだ未整備だった上下水道を導入している。これはマラリアやペストなど伝染病の流行防止に大きな効果をあげた。ペストの原因となっているネズミ退治を徹底し、数千万匹のネズミを捕獲したという記録も残っている。後藤の主導で、日本から多くの医師や研究者が派遣され、腸チフス菌の検出に成功した堀内次雄のように医学的業績を残した者も少なくない。

李登輝元総統も尊敬

1906年まで8年間にわたって民政長官であった後藤の八面六臂の活躍は台湾で今日まで語り継がれており、李登輝元総統をはじめ、後藤を「台湾の恩人」だとして信奉する人は少なくない。 

本書によれば、後藤には衛生問題についての強固な思想的バックボーンがあった。それは人間社会も適者生存によって進化していくものだとするソーシャル・ダーウィニズム(社会進化論)と呼ばれるものだ。

後藤は日本の衛生局時代に『国家衛生原理』という本を著しているが、「国家は生命体」であり、「国務即広義衛生(国の仕事はすなわち広義の衛生である)」と説いている。

本書は「後藤の『国家衛生原理』は公衆衛生原理として台湾に導入され、その実現の場をここに得た」と記す。本書で描かれる後藤の公衆衛生に関する政策や発言は、今の時代から見てもまったく色あせることがなく、示唆に富んだ内容である。後に日本の台湾統治の功績として評価される教育の普及やインフラ整備などについて、後藤はそのすべてに関わったが、出発点となったのは、生命体としての国家は、衛生環境の改善があってこそ「健康体」としてその能力を発揮できるという信念だった。

それは近代国家・日本の台湾統治においては、広義の公衆衛生こそが政治家の大切な仕事だったということを意味している。「疫病が近代国家を生んだ」(仏経済学者のジャック・アタリ氏)と言われるが、疫病から市民を守ることが、近代国家の任務であり、経済の発展にも民心の安定にもつながり、国を強くすることができる。後藤は台湾でその任務を徹底的に実行したのだ。

その意味で、後藤が台湾に伝えた公衆衛生の伝統は、今回の新型コロナ対応では、日本ではなく、むしろ台湾で実践されたのではないかとの見方も、あながち的外れではないかもしれない。今日の日本ではあまり語られない「公衆衛生」という言葉が、台湾のコロナ対策で頻繁に使われていたことも印象深かった。

台湾はフロンティア

かねて、台湾でどうして一流の人材がこれほど日本から駆けつけ、日本にもないような大事業を実現させたのか、という疑問があった。

その理由について、著者は「台湾が本土とは異なる独自の『法域』であった」ことが関係していると指摘する。台湾は本土の憲法やさまざまな法律が及ぶところが少なく、帝国議会からも多分に独立した存在であった。統治開始当初は「内地延長論」も唱えられたが、結局、台湾は総督の発する律令が強い効力を発揮することを認める「六三法」によって本土とは別の法体系となった。だからこそ、自由闊達に明治の人材が台湾でその能力の花を咲かせることができたとの見解だ。

台湾は当時の日本人とって「未開のフロンティア」であった。そのフロンティアに思う存分にデザインをほどこしたのが、後藤であり、そのほかの明治の逸材たちだった。後藤は「台湾近代化の基盤づくりのことごとく」に対して、「偉大な貢献をなした」と筆者は称賛する。また、後藤にとっても、台湾という理想の実現の場に出会えたことは、政治家として、衛生学者として、幸福なことであった。

台湾を築いた明治の日本人

渡辺 利夫(著)
発行:産経新聞出版
四六判:260ページ
価格:1700円(税別)
発行日:2020年4月1日
ISBN:978-4819113830

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