【書評】ソ連に「自由と民主主義」をもとめた反逆者:ベン・マッキンタイアー著『KGBの男―冷戦史上最大のスパイ』

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冷戦後期、英国情報部(MI6)はKGBの大物スパイを操っていた。その存在を知る者はごく限られていたが、彼のもたらす情報により、英国はソ連を出し抜き、からくも核戦争の危機を回避した。本作は稀代の二重スパイの半生を克明にたどった、物語性豊かな傑作ノンフィクションである。

 本作には、あまたのスパイ小説を凌駕する抜群の面白さがある。驚くべき事実の積み重ねに、読者はまちがいなく圧倒されることだろう。

〈世界を変えた優秀なスパイはほんの一握りしかおらず、オレーク・ゴルジエフスキーはそのひとりだった。〉
 と、著者は記す。

 ソ連のKGB中佐だったゴルジエフスキーは、英国に寝返って二重スパイとなり、西側に貴重な情報をもたらした後、決死の逃避行で亡命を果たす。彼は、英国情報部(MI6)がKGB中枢に潜ませた冷戦史上最大のスパイだった。
 本作は、彼の諜報活動のすべてを克明に綴った半生記である。

 著者は、ゴルジエフスキー本人のインタビューと、彼を操っていたMI6の当事者たちの膨大な取材をもとに、この稀代の二重スパイの物語を丁寧に編んでいく。
 と、同時に、本作は1970年代から80年代にかけての冷戦後期、激動の国際政治をめぐる裏面史でもある。 

 インテリジェンスが国家の政策を左右する。しかし、情報機関の情報収集と分析とが、どのように政策に反映されたか。それが明らかになることはめったにない。なぜなら、情報機関は影の存在であり、彼らの活躍が公になることなどないからだ。それがスパイの宿命である。
 英国は、ゴルジエフスキーの情報をもとに対ソ政策を転換させる。本作は、その内幕を詳らかにする。これは非常に興味深いものだ。

 後年、英国のサッチャー首相、米国のレーガン大統領は、亡命後のゴルジエフスキーと直接会い、彼の献身的な貢献に対して丁重な謝意を伝えている。
 ゴルジエフスキーは、いかなる諜報活動で「世界を変えたほんの一握り」のスパイになりえたのか。
 まず、そのくだりから紹介したい。

核攻撃の兆候を探れ!

 1980年代前半、ソ連は西側陣営に対して核兵器による先制攻撃に踏み切っていたかもしれない。
 米英は、まさかソ連が本気で核兵器を使用するとは思っていなかった。「相互確証破壊」すなわち「核戦争はどちらが始めるかに関係なく、ひとたび起これば両陣営とも確実に全滅するという考え」によって、核の使用に歯止めがかかっていると推察されていたからだ。

 しかし、1970年代末から状況は変わっていく。
 79年末のアフガン侵攻以降、ソ連は多大な損害を被るばかりで、あきらかに国力が衰退していった。さらに、核兵器を含め軍拡競争では西側が優位に立つようになり、ソ連は次第に焦りを感じるようになる。
 そこから、核戦争勃発の危機が現実のものとなっていく。

 発端はこうだ。 
〈1981年5月、KGB議長ユーリ・アンドロポフは、上級情報員たちを秘密会議に招集し、驚くべき発表をした。アメリカが、核兵器による先制攻撃を仕掛けてソヴィエト連邦を地上から消す計画を立てていると告げたのである。〉

 その席には、ソ連の最高指導者レオニート・ブレジネフ書記長も同席していた。
〈アンドロポフは、アメリカとNATOは「核戦争の準備を積極的に進めて」いると宣言した。そして、KGBの任務は、この攻撃が差し迫っている場合にその兆候を探り出して早期警報を出し、ソヴィエト連邦が奇襲されないようにすることであると告げた。〉

 アンドロポフは、1956年ハンガリーでの反ソ暴動の鎮圧、68年チェコスロバキアでの「プラハの春」の弾圧を主導している。
〈ソ連の衛星国で自由を弾圧した経験からアンドロポフは、攻撃こそ最大の防御であると確信していた。先制攻撃される恐怖から、先制攻撃を引き起こす可能性が生まれたのである。〉

 西側による核攻撃の兆候を探れ!
 アンドロポフは、アメリカ、西ヨーロッパ、日本その他の国々のKGB支局に指令を出す。これは「RYAN作戦」(ロシア語で「核ミサイル攻撃」を意味するラテン字表記)と命名され、最優先の扱いとなった。
 仮に、その兆候があるとの確かな証拠が見つかれば、その前にソ連が先制攻撃を仕掛けることになる。

ソ連は、核兵器の準備を開始していた

 レーガン政権(1981年1月成立)の対ソ政策が、アンドロポフの疑心暗鬼に拍車をかけていた。82年11月、彼が共産党書記長に就任すると、さらにRYAN作戦の重要度が増していく。
 83年に入ると、米ソの緊張関係は抜き差しならないものになる。年初にレーガンはソ連を「悪の帝国」と呼んで非難。西ドイツに中距離弾道ミサイル・パーシングⅡを配備し、モスクワを数分で攻撃できる射程におさめた。さらに3月、「スターウォーズ計画」の名で知られる戦略防衛構想(SDI)を発表し、ソ連が発射する核ミサイルを宇宙から撃ち落とすとした。

 核戦争の危機は刻一刻と迫っている。
 1982年6月、ゴルジエフスキーは、ロンドンのソ連大使館に政治情報担当として赴任していた。彼も、モスクワを出発する前に、RYAN作戦のブリーフィングを受けている。すでに英国の二重スパイとなっていたゴルジエフスキーは、MI6に警告を発した。猜疑心の強いアンドロポフは、本気で先制攻撃を仕掛けようとしている――。

 ゴルジエフスキーは、本国からKGBのロンドン支局に送られてきた電報をMI6に提供した。それには「NATOのソ連に対する核ミサイル攻撃の準備を察知するための恒久的作戦指令」という題が付けられ、攻撃の兆候を探るべき具体的な指示がなされていた。
<この文章こそ、先制攻撃に対するソ連の恐怖が本物で、根強く信じられており、以前より大きくなっていることを示す証拠だった。>

状況はさらに深刻化した。
83年9月、ソ連の迎撃機によって大韓航空機がサハリン沖で撃墜される。
11月2日からの10日間、NATO軍は核攻撃に至るまでをシミュレートする机上演習を行った。米ソは非難の応酬を繰り返す。
 <東西両陣営は、「レーガン流のレトリックとソヴィエトの猜疑心という、破滅をもたらす可能性のある組み合わせ」に後押しされて、おそらく最終戦争となる武力衝突へ向かっているように思われた。>

 ソ連は、核兵器の準備を開始する。東ドイツとポーランドの航空機に核兵器が搭載され、西ヨーロッパに照準を定めたSS-20ミサイル70基が高度な警戒態勢に入り、核弾道ミサイル搭載の原子力潜水艦が北極海に展開された。

英国首相サッチャーはこう判断した

 核戦争の危機は、どうやって回避されたのか。
 英国首相のマーガレット・サッチャーは、ゴルジエフスキーがKGBのロンドン支局に赴任して半年後の82年12月に、この二重スパイの存在を知らされた。
ほかには内務大臣と外務大臣が知るのみだった。
 ゴルジエフスキーがもたらす情報の報告書は、
<特別な赤のフォルダー、通称「レッド・ジャケット」に収められ、首相と外交顧問と秘書官のみが鍵を持つ鍵付きの青い箱に入れられていた。>

 サッチャーは、報告書の数々を熱心に読んだ。そして、「ソヴィエト連邦が西側の意図を見誤ることで感情的な反応をする危険を排除するため」、何らかの手を打たなくてはならないと考えるようになる。
 レーガンの挑発が、予期せぬ核戦争の引き金をひいてしまうかもしれない。サッチャーは、この問題を米国と協議する必要があると判断した。

 MI6とCIAとの関係は良好だが、互いに核心的な情報は秘匿していた。しかし、事態は緊迫している。サッチャーは二重スパイがもたらす情報をCIAに流すよう命じた。あくまで情報源はぼかしたうえで。これがのちに、ゴルジエフスキーを窮地に追い込むことになる。

KGBロンドン支局長に就任した二重スパイ

<かくして、二〇世紀で屈指の重要度を持った情報共有作戦が始まった。>
 と、著者は書く。
 当初は半信半疑だったCIAも、次第に信用せざるをえなくなった。
<やがて、ゴルジエフスキーの諜報活動の成果が膨大かつ詳細になってくると、情報はアメリカ政府の最高レベルにまで到達するようになり、大統領府内部の政策にも影響を与え始めた。>
 米国は、ソ連側の不安が大きな危険になっていることを理解した。

 レーガンは、反ソ的なレトリックを和らげ始めた。
 著者は、レーガンの回顧録から彼のこの言葉を引用する。
「ソ連政府高官の多くが、我々を敵として恐れているだけでなく、彼らに先制攻撃を仕掛けるかもしれない侵略者としても恐れているのだと、私は次第に理解するようになった」

 さらに、後年、明らかになったCIAの秘密内部文書のなかから、「ゴルジエフスキーの情報はレーガン大統領にとっては天啓だった。(中略)ゴルジエフスキーがMI6を通じてタイミングよく警告してくれたおかげで、事態が行き過ぎるのを抑えることができた」との一節を紹介している。

 ゴルジエフスキーの情報はどこが優れていたのか。著者はこう書いている。
<ソ連の情報部が何をしているのか(および、何をしていないか)だけでなく、ソ連政府が何を考え何を計画しているのかも明らかにし、そうすることでソヴィエト連邦に対する西側の考え方を変えた。>

「脅威」は、敵方の「能力」と「意図」ではかることができる。
CIAが工作員を使って集めていた情報は、もっぱら「軍事や軍の研究開発に関わる情報」(能力)だった。ゴルジエフスキーは、それだけでなく「指導者層の考え方に関する情報」(意図)までもたらした。
 彼は、イギリス首相官邸とアメリカ大統領府の戦略思考に大きな影響を与える情報を提供した。ソ連の「意図」まで明らかにしたという点で、非常に能力の高い稀代のスパイだったといえるだろう。

 その才能は、その後の英国の対ソ政策でもおおいに活かされた。
 1984年2月14日、病死したアンドロポフ書記長の葬儀が行われ、参列したサッチャー首相は、ソ連に好感をもって迎えられた。彼女は、事前に、ソ連に受け入れられるためにはどのように振る舞うべきか、ゴルジエフスキーに助言を求めていた。その台本通りに彼女は自分の役を演じた。

 84年夏、将来の書記長候補と目されるミハイル・ゴルバチョフがイギリスを訪問した。このときにも、サッチャーはゴルジエフスキーの振り付けによりゴルバチョフを厚遇した。
<ふたりはまるで同じ台本を読んで演技しているようであり、ある意味、実際そうであった>
 ゴルバチョフもまた、二重スパイとは知らず、ゴルジエフスキーの助言に従ってサッチャーと対峙していたのである。

 このときの対話から、サッチャーはゴルバチョフを「一緒に仕事ができる人物」と評価し、レーガンにその印象を伝えている。
 これがのちに、東西の歴史的な対話につながっていったのであろう。
 ゴルジエフスキーは、まちがいなく「立役者のひとり」であった。

「ベルリンの壁」と「プラハの春」

 本作は、序文と3部、エピローグから構成されている。ここまでに紹介したのは第2部のあらましである。
 第1部では、ゴルジエフスキーが二重スパイになってロンドンに赴任するまでの彼の生きざまが描かれている。彼は、なぜ二重スパイになることを決意したのか。そして、どのような情報を西側に伝えたのか。そこに前半のヤマ場がある。

 ゴルジエフスキーは1938年10月の生まれ。父親はKGBの職員で、比較的恵まれた生活を送っていた。モスクワ国際関係大学(ロシアのハーヴァ―ド大学といわれる名門校)を卒業し、兄がKGB入りしたのと同様、1962年に彼も自然の流れで同じ道を歩むようになる。
 結婚後、66年デンマークのソ連大使館に勤務、72年からの二度目のデンマーク勤務の際に、二重スパイとなることを決意する。

 二重スパイになる動機には、いくつかある。金銭目的や相手の情報機関に弱みを握られた、所属機関への恨みからなど。ゴルジエフスキーの場合は、「政治的・イデオロギー的なものだった」と著者は書く。

 彼は、1961年22歳のときに「ベルリンの壁」建設を目の当たりにし、衝撃を受ける。さらに68年チェコスロバキアの「プラハの春」弾圧を知るに及び、自らの体制に違和感をもつのである。
 西ヨーロッパの開放的な文化に触れたことは大きなきっかけだった。一度目のデンマーク勤務から帰国して、再度、復帰したときには、
<モスクワでの二年間で、共産主義体制に対する違和感はさらに強くなり、デンマークに戻ったことで、ソ連の文化的不毛と汚職と偽善に対する幻滅は、いっそう強くなった。>

 ゴルジエフスキーは自ら進んで西側の情報機関との接触を模索した。MI6がいかにして彼を自陣に引き入れていったか。互いに罠ではないかとの疑心暗鬼に始まって、やがて信頼関係を築き上げていくまで、読み応えは十分。彼はけして英国に金銭的な見返りを求めなかった。

 ゴルジエフスキーは、「新たな役割」と「私の存在の目的」を手に入れた。
<その役割とは、ソ連体制を覆すことにほかならないと、彼は信じていた。この善と悪との戦いの結果、やがてソ連に民主主義がもたらされ、ソ連人は自由に生き、読みたいものを読み、バッハを聴けるようになると思っていた。>
 彼は本国では禁止されているソルジェニーツィンを読み、バッハやハイドンなどの音楽を好んで聴いていた。

 ここから、彼の二重スパイとしての人生が始まったのである。

交響詩「フィンランディア」

 最後のヤマ場に触れておきたい。
 1985年4月28日、ゴルジエフスキーはKGBのロンドン支局長に就任。英国は最高の切り札を手中にした。
 1940年代末、KGBに操られた英国情報部の二重スパイ、キム・フィルビーはMI6のニューヨーク支局長となり、西側の情報をソ連に流し、英米の情報機関に再起不能とも思えるダメージを与えた。今度は英国が圧倒的に優位な立場になった。

 ちなみに英新聞『タイムズ』出身のジャーナリストである著者マッキンタイア―は、英国情報部にまつわるノンフクション作品を数々発表しており、いずれも高い評価を得ている。なかでも「キム・フィルビー かくも親密な裏切り」(中央公論新社)は是非、読んでおきたい一冊だ。

 話を本作に戻せば、ことはMI6の思惑通りには進まなかった。
 5月中旬、ロンドン支局長に就任してまもなくのゴルジエフスキーに、突然、帰国命令が出される。表向きは、就任祝いをするというもの。
 彼は、常に裏切りが発覚するのではないかという恐怖と戦ってきた。ついにそのときが来たのだろうか。拷問の末に処刑が待っているのか。
 ここで亡命する選択肢もあった。しかし、額面通りの命令ならば、すぐにロンドンに戻って貴重な情報を提供し続けることができる。彼は帰国を決意した。

  ゴルジエフスキーは、KGBに拘束された。二重スパイの疑いをかけられていたのだ。 
 どうして露見したのか。これは本作を読んで確認してほしい。思わぬところから情報がもれていたのである。
 MI6は、かねて最悪の事態を想定し、モスクワから救出するための巧妙な作戦を用意していた。著者は、この逃避行にまるまる最終章を割いて、その作戦行動の詳細を描き切っている。
 この場面は本作の白眉である。
 KGBはいたるところで厳しい監視の目を光らせている。脱出劇は、失敗の危機に何度も直面する。ここは圧巻の描写の連続で、二転三転する迫真の展開に読者は息を飲み、一気にページをめくることになるだろう。

 1985年7月20日、ゴルジエフスキーは無事ソ連国境を通過し、隣国フィンランドにたどり着く。
 このとき、彼は同国の作曲家シベリウスの交響詩「フィンランディア」を耳にした。
 何も知らない妻子を故国に残しての葛藤と苦渋の決断であった

「KGBの男―冷戦史上最大のスパイ」

ベン・マッキンタイア―(著)、小林朋則(訳)
発行:中央公論新社
文庫版:492ページ、
価格:2900円(税抜き)
発行日:2020年6月10日
ISBN:978-4-12」-005310-8

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