【書評】雪と氷の日常生活:山田恭平著『南極で心臓の音は聞こえるか 生還の保証なし、南極観測隊』

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「南極では自分の心臓の音が聞こえる」。高校時代に聞いた一言に導かれ、著者は研究者となり、越冬隊の一員として南極大陸で1年4か月を過ごす。分厚い氷に覆われ、ときにマイナス60℃を超える厳しい寒さのなか、隊員たちはどんな毎日を過ごしているのか。

梅雨が終わっても、新型コロナウイルスの勢いは止まらないようだ。
東京はGoToキャンペーンからも外れ、せっかくの夏休みなのに、どこにも行かない(行けない)という人も多い。気が付けば自分も、ずいぶん長いこと新幹線や飛行機に乗っていない。

せめて気持ちだけでも旅行気分を味わいたいと、書店をうろうろしてみた。
本州?沖縄?アジア?ヨーロッパ? 
そこで見つけたのが本書だ。せっかくなら最果ての地、南極を目指そう。

著者は当時国立極地研究所の特任研究員。第59次南極地域観測隊の越冬隊のひとりとして、大気を研究するため2017年11月から2019年3月までの約1年4か月を南極で過ごした記録が本書である。

「科学者による南極の記録」というと硬いものをイメージするが、本書はまったく違う。
滞在中から連載されていたブログを書籍化しており、文体は柔らかく、目線も非常に親しみやすい。
宝くじで高額当選でもしない限り、“普通の人”はおそらく一生行くことがない南極という土地に、一気に興味関心が湧きおこってくる。

金持ちになるか、南極観測隊になれ

著者が南極を目指すと決めたのは、高校1年生か2年生の時。
南極地域観測隊として南極に行ったOBが高校に講演に訪れ、「南極に行けるのは金持ちか観測隊だけである(10日程度の南極ツアーが100万円程度。確かに金持ちなら可能だ)」、「南極観測隊なら研究者になるのが最も容易な道である」、そして「南極では自分の心臓の音が聞こえる」と話したことがきっかけだった。

3番目の「自分の心臓の音が聞こえる」は、誰もいないところに行って風がどこにも流れていなければ、南極は穏やかで清廉で静謐で、自分の心臓が脈打つ音が聞こえるくらい静かな場所だという意味だ。

この講演をきっかけに南極に行くという夢を抱いた著者は、叶えるために研究者を志す。
こういう話はたいてい「言うは易く行うは難し」でそう簡単にたどり着けるとは思えないのだが、10年と少し経ち、20代も終わろうという頃には実現させてしまうのだから、なかなかすごい。

本書の軽快な文章を読んでいるとつい忘れてしまうが、南極の生活は相当に過酷だ。
南極大陸の95%以上は雪と氷に覆われ、海岸付近ではマイナス10℃程度と比較的あたたかい平均気温(それでも十分寒い)は、内陸、つまり南極点に近づくほど寒くなり、常にマイナス30℃を下回るという。

観測隊の生活拠点は、南極大陸のすぐ傍に位置する東オングル島にある昭和基地。
古くは南極に取り残された犬タローとジローを描いた『南極物語』や、最近は観測隊の一員である料理人を主人公にした『南極料理人』など、南極をテーマにした映画に必ず登場する場所でもある。

食堂や医務室、図書室があり、100人を超える観測隊員がともに暮らす昭和基地には、どことなく平和な雰囲気が漂う。
規則正しい生活の傍ら、週末には雪上でバレーボール大会が開かれ、スキヤキをつつく。
ブリザードで基地が雪に埋もれれば、総出で雪をかく。
そして真冬には、分厚い海氷にドリルで穴をあけて釣り糸を垂らす「生態調査」が行われ、食卓を飾る。
目に映るのは、美しいオーロラや蜃気楼だ。

南極という非日常のなかで織りなされる日常が、著者の手にかかると、なんとも楽しく幸せなものに感じられる。

快適な生活のために科学はある

結局、著者は心臓の音を聞けたのか?

大勢の人間が共に暮らす昭和基地の生活は、残念ながら清廉とも静謐ともちょっと遠い。
夢を叶えるチャンスは、2度にわたる「内陸旅行」としてやってきた。
旅行といえば響きはいいが、1~2か月の間雪上車に乗って移動しながら、日々観測業務を行うという過酷な生活だ。

南極点に近づくにつれ、気温と気圧は低下する。
たとえば、通過点のひとつ「みずほ基地」の平均気温はマイナス32.3℃。
標高は2000mを超え、気圧は地表付近の7割程度まで落ちる。
お湯は100℃を待たずに沸騰し、肉体への影響は心肺機能以外にも広がっていく。著者は歯肉が腫れて物が噛めなくなった。

その環境で、たとえばある日は観測装置を取り付けるためにカチカチに凍った雪を掘る。
「長靴で覆われた爪先はほとんど凍傷になりそう」で、「足の先が凍って、指先が何倍にも膨らんだように感じた」。「ぶるん、ぶるん、と胸の内側で水の入った袋が揺れているような感覚」だという。

なぜ、ここまでして観測が必要なのか。
曰く「南極内陸の気候のことはわからないことだらけだから」。
たとえば喫緊の課題と言われている地球温暖化ひとつとっても、世界の温暖化傾向は一律ではない。

北極は世界平均の2倍と強い温暖化傾向を示しているのに対し南極の傾向は緩く、寒冷化しているように見える場合すらある。原因はオゾンホールにあると推測されているものの、南極大陸で頻繁に観測を行うことは難しいため、まだはっきりしたことはわかっていない。

温暖化が進めば海水面が上昇して陸地が減り、作物の供給バランスも変化する。衛生状態も悪化し、病気も拡大するだろう。一方で寒冷化はもっと危険で、人類の生存が脅かされてしまう。
それを食い止めるためには、南極での観測が不可欠なのだ。

観測隊には著者のように大気を研究するチームもいれば、過去80万年分の気候環境を推定するため、地下3000mを超える氷を掘り出そうとしているチームもいる。地吹雪の観測をしているチームもいる。いずれも南極に来なければ、できない研究だ。

著者は書く。
「地球のためではないし、自然のためではない。自分のために、快適な生活のために環境変化を食い止める。そのために科学はある」

一見エゴイスティックな言葉だが、科学者にとっての真実だろう。
私たちが生活し続けるために、南極観測隊がいるのだ。

そして――、清廉で静謐な南極大陸の内陸で、自分の心臓の音は聞こえるのだろうか?高校生の時に見つけた夢を、著者は叶えることができたのか。
その答えは、ぜひ本書で見つけてほしい。

読み進めるうちに、今いる場所からものすごく遠いはずの南極大陸が、なんだか身近になってくる。

海岸を埋め尽くす「売るほどの大量ペンギン」、南極の氷にシロップをかけて作った急ごしらえのかき氷、マイナス60℃の空で揺らめくオーロラ……。
東京の8月の空から降り注ぐ厳しい日差しが、ほんの少し和らいだようにも感じた。

南極で心臓の音は聞こえるか 生還の保証なし、南極観測隊

山田恭平(著)
発行:光文社
新書判:320ページ
価格:1000円(税別)
発行日:2020年7月1日
ISBN:978-4-334-04484-8

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