【書評】奪う者と奪われる者の爽快なる逆転劇:陳浩基著『網内人』

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香港人ミステリー作家、陳浩基の新作『網内人』が、このほど出版された。2017年に日本で上梓され、一躍華文ミステリーの勢いを示すヒット作となった前作『13・67』に続く大部の本格ミステリーで、ネット世界の奥深さを何重もの仕掛けで見せつける迫力にあふれた作品だ。なかなか知り得ない香港の歴史や文化の肌感覚を、謎解きのなかで読者に体感させる著者の力量は健在だった。

香港の息苦しさ

 作品を読み続けるうちに、私たちは今どのような世界に生きているのか、という問題を、いかに知らないまま生きているのか、ぐいぐいと突きつけられているような気持ちになり、とても息苦しさを覚えた。その息苦しさは、香港の息苦しさそのものかもしれない。この作品について、陳浩基自身も「二〇一五年の香港の街を読者に感じてもらえる本である」と語っている。

 一人の少女の自殺から、物語は動き出す。

 本作の主役を務める女性アイは、自殺少女の姉である。たった一人の家族。絶望の果てに、「なぜ」への答えを求めて彷徨い、たどり着いたのは、電脳世界の住人「網内人」であるネット専門の探偵アニエだった。

 アイは、香港人の多くがそうであるように、大陸から渡ってきた移民の子孫である。移民たちが「白手(裸一貫)」ではいあがった成功物語が香港にはあふれているが、それはごく一握りの人々にすぎず、実際のところ大半の人々は香港社会の片隅で慎ましく必死に生きている。

 1940年代後半、国民党と共産党の内戦をきっかけに、大量の難民が大陸から香港を目指した。アイの父方の祖父母も人波のなかで香港に渡った。だが、夢を叶えることのないまま1976年の大火で2人とも命を落とした。孤児になった父は同じく大火に見舞われた母と出会って結婚したが、2人は高校にも行かず、あくせくと働き続けるしかなかった。

 2人の娘が生まれたが、父は仕事中に事故死に遭う。ほとんど保障も受けられず、母も苦労しながら働いた末、白血病にかかって2人の娘を残して他界する。そして、とうとう、唯一残された妹まで・・

 弱い者は何もかもが奪われてしまう。アイと家族は常に奪われる立場にあった。

 もともと厳しい競争社会の香港だが、この10年でチャイナマネーが流入し、地価は大きく値上がり、人々のチャンスはさらに限られたものになっている。しかし、そんな社会の構図をひっくり返してしまうウィザード(魔法使い)にたどりついた。それが探偵のアニエだ。マンションの一フロアを「要塞」として、そこにたどり着く人々の全てを丸裸にしたうえで、依頼を受けるか受けないか決める。まさにいまの時代にふさわしい電脳探偵であるが、アニエにはまだ別の顔がある。復讐請負人だ。

 アニエは、思いもよらぬ方法で、強者から無慈悲に奪っていく。自分を強者と思い込んでいた者たちは、なぜ奪われたのかも気づかないままで。奪う者と奪われる者とのあまりに爽快な逆転劇が展開される。ネットの世界でアニエは絶対的な強者だ。しかし、アニエからは強者の匂いは漂わない。強者であることを避けるため、人目から身を隠し、複数の身分の使い分け、正体をさらそうとはしない。

 それにしても、アニエという探偵兼復讐請負人のキャラクターは魅力的だ。アニエはつぶやく。「おれは裁判官じゃない」

 自らを被害者のための「単なる道具」と位置付け、被害者が受けた苦しみをそのまま相手に返すことに徹する「倍返し」ならぬ「等返し」をモットーとしている。

 『13・67』のクワン警視に名探偵ホームズの面影があるとすれば、アニエはアルセーヌ・ルパンを想定しながら描いたと陳浩基は言う。アニエに依頼したIT素人のアイは、むしろアニエを説明役として、アニエのハッカー技術を聞き出す役割を負いながら、次第に名コンビの様相を呈していく。ネットの無機質な話が進みながら、物語全体にむしろ人間らしいテイストを漂わせているのは前作『13・67』とも通じる。

 もともとまったく正反対、水と油のような2人だったアニエとアイ。凄腕のハッカーであるアニエに対して、スマホすらうまく扱えないアイ。しかし、アニエのふところに躊躇なく入り込んでいくアイに対して、やがてアニエは「おれとお前は似ている」と語りかける。

 その一言は、結局のところ、人間は何をしているかではない、どう生きているかが大事なのではないか、という作者のウエットな価値観を物語っている。謎解きや復讐の先にあるのは、結局、虚無でしかない。謎を解いていくプロセスに価値があると言わんばかりである。

魔窟のような複層的ミステリー

 この本の物語は、幾重にも複層的になっており、迷路か魔窟を歩かされているように読者は感じるかもしれない。香港は街全体が魔窟のようなところがある。かつては九龍城のような魔窟があり、いまもチョンキン・マンションのような魔窟的ビルがある。碁盤の目の街並みとは対極にある香港の雑踏を、自在に闊歩する香港人の空間感覚がこの作品にも十分活かされているようだ。

 それにしても、ネット技術に関する著者の造詣の深さには驚かされる。かつてネット会社で働き、多くの技術書を読み込んだことがあるというだけあって「中間者攻撃」などの難解な用語がちりばめられ、それらがわかりやすく具体例として描かれている。

 ネットは、人の小さな悪意を増幅させる。個人攻撃のひどさには目に余るものもあり、ネットから遠ざかりたいと考える人も多いが、コロナ時代になって我々の生活インフラとしてのネットはますます重要になっている。

 著者は「ネット自体に善も悪もない。人間性が反映されるだけだ」という立場であり、その思想は、アニエの言葉を借りて本書の中でも雄弁に語られている。

 「良いところだけを見ているときは、ネットは偉大な発明だと絶賛して、人類文明の大いなる進歩だと口にするが、悪い側面がわかれば途端に、すべてをネットのせいにして、規制しろとうそぶいてみせる。現代人は自分を先進的だと思っているが、百年前、二百年前の意識や考え方とそう大きく変わっちゃいないのさ。問題はネットにあるんじゃない。自分自身のなかにあることを気づいていない」 

 いま香港は大きな転機を迎えている。7月に国家安全維持法が施行されたあと、香港はどうなっていくか、人々は固唾を呑みながら見守っている。私はそれほど悲観していない。香港の人々は、アニエのように凡人が思いも寄らない方法で、他人が設定したルールを憎らしいほど巧みに回避しながら、また何か大きなことをやってくれるに違いないからだ。

『網内人』

陳浩基(著)、玉田誠(訳)
発行:文藝春秋
四六判:544ページ
価格:2300円(税別)
発行日:2020年9月25日
ISBN:9784163912615

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