【書評】風なき町村の欲望渦巻く物語:常井健一著『地方選』

Books 政治・外交 地方

ゼネコン汚職事件に絡み、逮捕・失職しながらも、刑期満了後、再び衆議院議員に復帰。今に至るも選挙で負け知らずの中村喜四郎を描いた『無敗の男 中村喜四郎 全告白』で話題を呼んだ著者が次に選んだテーマが地方選挙。中央政治とは対極にあるミニマムで閉塞した地方選挙で著者が剔出(てきしゅつ)したものとは。

躍動する人間の姿を活写

近代日本の歴史は、錦の御旗(みはた)の奪い合いに勝った地方(ぢがた)の頭(かしら)が、明治の「統治エリート」となって各藩が持っていた社会的リソースを占有し、地域基盤を維持させたまま「丸抱えで上から社会(society)を作る」ものだった。それゆえ、我々は政治コミュニティの生成も、上から順に動脈が延びて、やがて毛細血管を広げていくというイメージを持ちがちである。

確かに「個の粒立ちよき連帯」としての社会的中間層などというものは、幕藩体制直後はこの国には存在しなかったし、その成長のためには、国家による生産手段の実質的無償譲渡(各種官営工場の払い下げ等)が必要で、それなしには近代社会のテイクオフは不可能だったろう。

しかし、それから1世紀半を経て、旧内務省的思考を引きずる霞ヶ関が「地方消滅」を憂いつつも、それは実は地方「自治体」の消滅であることに無自覚であり、かつ日本語となった「ローカル」という言葉が「郊外・田舎」と脳内変換されるわが社会において、今一度確認すべきは、”local” が「その場その場の」という町や村の固有性を意味していることである。

いずれ相当数の自治体が消滅するだろう。今や国政は、加速度的に「権威主義的かつ集権化」し、経済強者は首都圏に富を求めて身を寄せ、少子高齢化は地方ほど、その露骨な姿を晒(さら)している。しかし、それでもなんでも地方(ぢがた)の「人間」は、どっこいそこに生き続けている。

常井健一は、そんな時代に直面して、1979年生まれの若さで、現代日本政治を「その場その場」を変人として生きる者たちを通じて描こうとしている。名も知れぬ町村にて、人々の懐にスッと入り込む天性の能力を発揮して、そこに躍動する人間の姿を見せてくれる。本書は、伝説の政治家中村喜四郎を描いた前作の『無敗の男』(文藝春秋、2019年)に続く、ジャーナリストとしての常井の地力を最大限に発揮させた一冊である。

登場人物の欲望はこれを見守る我々の欲望

『無敗の男』を描いた彼は、同時に「負けた者」からも視線をそらすことがない。各章全7か所のルポルタージュには、「小さな町や村から密かに世界を震撼させる出来事が起きている」という定番のセンセーショナリズムはない。「世界が変わる」ということは、常井にとって最優先の焦点ではないからだ。

原発マネーが暗躍し続ける青森県大間町も、道内最も豊かな収入を誇る農業王国でコンビニ店員が村長になった北海道中札内(なかさつない)村も、長期政権の歪みが鮮明なまま変わらない大分県姫島村も、有権者の9割が自民党二階幹事長を支え、最年少町議が52歳の古色蒼然(こしょくそうぜん)たる和歌山県北山村も、盤石の構造が残っていたり、亀裂が入ったり、妙な風が吹いたりと、いろいろである。

共通するのは、長らく続いた無投票の王国に各々の事情によって選挙が起きたことであり、そこで「何かが人を成長させる」プロセスが浮き上がっていることだ。だから選挙は、「政治そのものとしての素材」というよりもむしろ、個別の“人”を発見する契機に過ぎない。選挙がついに何十年ぶりかに行われる。そして権力の牙城が崩れる……ではない。崩れたり、崩れなかったりだ。崩れなくても、何かが孵化(ふか)されていることが明らかになる。

永きにわたる無風は、わだかまりと溝と心の傷を残す争い(選挙)を回避し、小さな地域が協力しあって生きていくために必要とされた結果だったのであろう。だがどの地にあろうと、政治を起動させる根本的原理とは「人間と政治社会の複数性」である。政治とは、いくら近代の図式で独立した個人として把握されようと、そこから近代民主政治が構想されようと、自分以外の人間の存在なしには原理的に作動しない。無風王国に「二人目が現れる」という事実は政治の起動要因である。

しかし、常井はそれをそこに登場する人物による「原理を行動に翻訳した結果」とは、決して描かない。人間は「どうしても二人目とならずにいられない」という気持ちに突き動かされて、再選率84.2%の町村選挙に立つのである。そこには「政治的動機」と「人間の本性」の区別はない。

政治学という、ある種の文法を具えて対象に向き合う者は、「無風王国でついに選挙が!」となれば、そこに「構造的変化」のようなものを発見しようとする。しかし、常井は経済や社会的階層の構造という条件が政治的アクター(行為主体)を規定するはずだというマルクス的視点にも、ある種の地域独特のエートス(集団が遵守する慣例や慣行)を継承した政治家が固有の動機付けによって世界を切り開くだろうとするマックス・ウェーバー(政治学者)的な読み込みにも拘泥(こうでい)しない。ただひたすら、王国がそこに至った歴史的経緯と、何かに育てられた、決断し、行動する「ある意味での変人」の欲望の稜線(りょうせん)に沿って、その場その場で起きている行動を描写していくのである。

したがって、常井が徹底してこだわるのは「封建遺制としての農村共同体のならわし」でも、「眠ったようなムラに現れた近代エリートによる利益共同体形成の辣腕(らつわん)ぶり」でもない、そうしたスキーム(枠組み)を一度棚に上げて、直視するべき対象としての「そこにいる人」である。

無風だった原発の村に数代にわたる権力基盤を築いた現職町長に、役場職員として隠然たる不満を抱えていたOBたちに支えられた新人が立ち向かう。そこに謎の「脱原発女性候補」が絡み合い、中央政治の図式の縮小版だと高をくくる者は、そこからマクロ共通「要因」を探し出そうと心の習慣が働くが、そこでは鋼のような権力基盤を持つ現職が予想どおり勝利し、負けた新人は「なんで負けたか、わかんねぇんだ」と首(こうべ)をたれる。

そこまでを描くのに、陣営の選対事務所の普請(ふしん)観察から始まり、気になる人物を探し続け、暇な投票日の取材で見つけた「町村・郷土史」を読みふける。各取材地での論考の終わりに「下げ(オチ)」はあるようでない。しかし、政治を生きる人間としての何かが浮上する。それを読者自身が発見するための「吐息(といき)がかかるような出来事」を、常井はそっと差し出す。

風なき町に人が立つ時、我々はそこにどんな物語を当てはめようとするだろうか? 英雄待望、政治の悪の根強さ、善意の洪水、誠実なる無能、弱者の抵抗、終わりの始まり、始まりの終わり……。そこには政治を見守る人間の各々の、その場その場の欲望の物語があるはずである。そしてそれらは、この『地方選』に登場する人々の欲望であり、同時にこれを見守る我らの欲望でもあるだろう。

その夥(おびただ)しくも人知れぬ交差点を、常井健一は珠玉の一冊によって切り取ってくれた。

我々には「政局報道」など無用である。必要なのはそこに「立つ者」のより詳細な姿である。

地方選 無風王国の「変人」を追う

常井 健一著
発行:KADOKAWA
四六判 288ページ
価格:1700円+税
発行日:2020年9月25日
ISBN: 978-4-041-09839-4

書評 本・書籍 地方選挙