【書評】破格の英雄を顕微鏡で解析する試み:王暁磊著『曹操 卑劣なる聖人』

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三国志の主役の一人、魏の曹操(155-220年)を描いた歴史小説大作『曹操 卑劣なる聖人』の全10巻シリーズの刊行が始まっている。「悪役」として一方的に評されることも多かった曹操について、本シリーズはその能力、才能、人格、交友関係、家族などを細部にいたるまで徹底的に描き出す意欲作であり、曹操ファンには待望の一冊だ。このほど刊行された4巻は、その曹操が天下人へ駆け上がる最重要局面に差し掛かる必読の内容になっている。

「曹操の代弁者」が書いたベストセラー

本書の著者、王暁磊氏の素性は謎に包まれている。天津在住の男性で、「21世紀における曹操の代弁者」と中国で呼ばれる在野の歴史小説家という情報しかない。原題『卑鄙的聖人曹操』は2011年から14年にかけて刊行されてベストセラーになり、累計販売部数は300万部に達している。すでに台湾、韓国で翻訳が刊行され、日本では19年に翻訳出版が始まり、現在は第4巻まで発売されている。

基本的な記述は「後漢書」や陳寿「三国志」などを基にしており、正統な歴史記述から逸脱しているようには感じない。ただ、とにかく詳しい。著者があらゆる資料を狩猟し、顕微鏡を眺めるように解析し、曹操の全体像を表現したいという思いが伝わる。小説形式なのである程度のデフォルメはあるだろうが、曹操論の決定版になりうる力作であるのは間違いない。

恐れられる曹操のイメージ

私にとって曹操との出会いは横山光輝の漫画『三国志』であり、曹操は徹底的な悪者描写で、それはその後に読んだ吉川英治『三国志』でも同様なものだった。しかし、曹操を主人公とする漫画の『蒼天航路』で曹操の魅力に触れ、台湾出身の歴史作家・陳舜臣の『曹操 魏の曹一族』によってさらに多面的な曹操という人物の理解方法を啓蒙された。

中国語には「說曹操曹操就到(曹操の話をすれば、曹操はそこにいる)」ということわざがある。「噂をすれば影」という意味を持つ。このことわざには、想像を絶する恐ろしい人、予測がつかないほど機敏な人といった曹操の集合的イメージが込められている。

当時は科挙もまだなく、名士間の推薦が重要で、評判が物を言った。曹操は、人物月旦(げったん)の許劭という人物から「清平の奸賊、乱世の英雄」と称された。曹操のただならぬ才能には多くの人々が気づいていたが、悪か善かという二分論では測りきれない人物だった。

次第にライバルを圧倒

ひしめくライバルたちの間で最初からレースの先頭を走っていたわけではく、先頭に董卓や袁紹がおり、その次に団子状になって呂布や袁術、劉表、張繍らと一緒に曹操がいた。それが本シリーズの3巻までで、この4巻で曹操は、縦横無尽に中原の大地を駆け巡り、ライバルたちを次第に圧倒し、最大の敵である袁紹との決戦を迎えるために着々と力を蓄えていく。

曹操という人格について、陳舜臣は「彼の本質は成功したオポチュニストである」と述べている。
 「与えられた機会を、迅速に、有利に利用したが、それができたのも、とぎすまされた詩人の直感と、目的地への最短距離を行き、よけいなムダをはぶいた合理主義と、良き人材を身辺に集めていたという、この三つの理由によるだろう」(「曹操は姦賊か英雄か」)
その曹操の文学的直感と合理主義と人材収攬が、まさに最大限発揮された時期でもあった。

この4巻に描かれる曹操はまことに忙しい。今の河南省にあたる兗州を拠点に、旧黄巾党勢力の青州兵を手中に納め、呂布を撃ち、張繍を破り、劉表をおよびやかし、とうとう、混乱に巻き込まれて流亡していた漢王朝の皇帝・劉協を確保して、天下を驚かせる。そこにキラ星のごとく人材が集まった曹操飛躍の時期を描いているだけに爽快極まりない。

ところが、この時期の曹操について従来の通俗的三国志はほとんど筆を動かさなかった。それだけに、初めて曹操について本格的に本を読む人は戸惑うかもしれない。しかし、おそらく曹操の人生のなかでもっとも描きがいのある年代だろう。

歴史学者の井波律子の曹操に関する論文「曹操論」のなかで、曹操が群雄のなかから一頭地抜けて地位を獲得する契機について、「なんといっても建安元年、献帝を許に迎え、漢王朝の庇護者となったことであった」と指摘する。拮抗する勢力が多数存在するなかで、「人心を自らの側に収斂し主導権を握るのには、シンボル化された道義的優越――大義名分が必要だった。そのとき、対立者袁紹は、決定的に後手に回っている」と指摘する。

確かにこの天子奉戴によって、曹操は「奸雄」としての非難をその後数千年にわたって浴び続けるわけだが、乱れに乱れた漢朝が、異民族の侵入を許さないまま、まがりなりにも王朝を魏、その後の晋へと引き継げたのは、曹操が生涯をかけて混乱の収集に当たったからにほかならない。

多面的な人格

ただ、本書で描かれる曹操は、超絶的な能力を持つ英雄でもなければ、悪徳の限りをつくす非情の軍人でもない。人間曹操の多面的な人格が立体的に描かれている。

例えば、4巻で曹操は、自らに降ったはずのライバルの張繍に対して、淫蕩にふけって油断を見せたために逆襲され、長男の曹昴、甥の曹安民、忠臣の典韋を失って、大きなダメージを受ける。その後、自らが支える皇帝・劉協のいる許の都に戻って拝謁したとき、普段は見下している劉協から「そちは朝廷の柱石、くれぐれも体を大事にするのだぞ」と嫌味を言われ、「やれやれ、今後は安易に謁見できんな」と漏らすところなど、曹操の弱さをかいま見せているようで思わぬニヤニヤと読み進めてしまう。

曹操の魅力は「矛盾した人格」ということになろう。本書のサブタイトル「卑劣なる聖人」がまさに言い表している通りだ。多数の無辜の人命を奪う残虐さと、優美な詩文に長ける文学性を兼ね備えた人でもある。通常、中国の王朝を拓いた英雄は豪傑だったり、軍略の天才だったり、比較的わかりやすい個性の持ち主なのだが、曹操にそれはない。だからこそ、口伝中心の英雄物語が好まれた時代には、曹操の「悪」が強調され、対象的に凡庸なほどにお人よしとされた劉備は「善」の象徴として持ち上げられた。

ただ、近代に入ると、魯迅などの文学者が肯定的な曹操論を述べるようになった。1950年代には中国で大きな曹操論争があった。農民兵を活用した曹操が農民の味方で「革命的人物だった」かどうかをめぐる議論で、当時は革命史観が重視されたゆえの論争だった。最近の曹操をめぐる論争では、2009年に河南省で見つかった曹操陵墓とされる遺跡について、政府当局は曹操で間違いないとしたが、歴史界からは証拠が足りないと激しい批判が出た。

曹操ファンの多い日本

曹操となると誰もが熱くなる傾向がある。ただ、日本人は中国人ほど曹操嫌いではなく、かねてファンも少なくなかった。曹操に対する道義的な疑問は、日本人が中国人ほど重要視しない儒教的価値観に基づくものであることも関係しているだろう。日本人は、一人の英雄譚として、純粋に曹操を楽しめるところがあり、本書の存在意義もなお高まる。

66歳で亡くなるまで、曹操は生涯、戦場にあって権力の確立と混乱の収拾に務めた。その才覚は、軍人としてのみならず、詩人・兵法家・行政官など多岐にわたって発揮され、実力的に可能であった皇帝の座につくことなく、自らの墓地に「金銀財宝を蔵するなかれ」と命じて淡々と世を去った。これもまた、陳舜臣が評する合理主義かもしれないが、逆にいえば、そうすることが己の評価を高めるという文学者としての直感もあったのかもしれない。

井波律子が「まことに、見事な人物というほかない」と絶句した曹操の人生は、本シリーズの5巻以降でさらに心を躍らせるほど見事に展開されていくに違いない。

曹操 卑劣なる聖人

王暁磊(著)、後藤裕也(監訳・訳)、稲垣智恵(訳)
発行:曹操社
四六上製593ページ
価格:2400円(税別)
発行日:2020年10月15日
ISBN:978-4-910112-03-9

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