【新刊紹介】誰もが「心の闇」をかかえている:吉田修一著『湖の女たち』

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独特の世界観で評価される作家・吉田修一の最新刊である。本作は、琵琶湖を舞台にした謎めいた物語に仕立てられている。そこに描かれるのは、ひとりの老人の死をとりまく人々の生きざまであり、われわれは平穏な生活の裏で、誰もが「心の闇」をかかえていることに気づかされるであろう。

私が若き日に読んだ井上靖の『星と祭』は、若い男女が琵琶湖にボートを漕ぎだして転覆、無理心中か、という謎に端を発し、主人公が精神世界を巡礼する作品である。以来、私にとっての湖といえば、神秘的、幻想的なイメージにつながっていた。なにやら得体の知れない魔物が棲むもののようにも感じられる。
本作もまた、琵琶湖を象徴的な舞台背景にして、人間の心の奥底に潜む闇を抉り出した秀作である。

物語は、ミステリー仕立てで進んでいく。琵琶湖の西岸にある介護療養施設で、百歳になる老人の人工呼吸器が作動せず、早朝、息を引き取っていた。これは医療ミスなのか、それとも殺人事件なのか。所轄署の捜査は行き詰っていく。

登場人物たちは、それぞれに心の闇をかかえている。
事件を担当する刑事・濱中圭介は、施設で働く介護士・豊田佳代を事情聴取し、あることがきっかけで、ふたりは異常な性愛関係に陥っていく。男にはそうした嗜好があり、女にはそうならざるをえない業がある。

老人はなぜ殺されたのか。被害者には、第二次大戦中、満州で731部隊に所属し、人体実験を指揮していた過去がある。戦後、京大教授となり、満州時代の仲間のふたりは、それぞれ、地方銀行の頭取、有力医療法人の経営者に収まり、地元の名士となっていた。彼らは、暗い過去を隠している。

事件を取材する週刊誌記者は、背後にこの人間関係が関連していると疑っていた。満州で見合い結婚した被害老人の妻は、記者にいまわしい過去の記憶を告白する。ハルビン郊外の湖のボート小屋で、日本人の男児とロシア人の女児が、寄り添うように裸で凍死しているのが発見された。
変質者の犯行、心中説もあったが、事件は迷宮入りになる。だが、その日、凍った湖面に丹頂鶴が舞う美しい光景を眺めていた妻は、真相を知りながらも、いままで沈黙を通してきた。遠い過去の湖の記憶が、現代の琵琶湖につながるのか。

もうひとり、重要な登場人物がいる。事件のあった施設で働くベテラン介護士の美しい孫娘である。中学生になったばかりの少女は、女王様然として取り巻きの男の子に崇拝されていた。少女の目に、琵琶湖はどう映っていたのか。

 さて、圭介と佳代の異常な性愛は次第にエスカレートし、捜査の遅滞とともに破局に突き進んでいく。事件の結末はどこに収斂していくか。
湖には、人を惹きつける魔力がある。

新潮社
発行日:2020年10月30日
四六版:318ページ
価格:1600円(税抜き)
ISBN:978-4-10-462807-0

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