哀悼・スパイ小説の巨匠逝く:読んでおきたいジョン・ル・カレ作品

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英国のスパイ小説の巨匠ジョン・ル・カレが12月12日に亡くなった。享年89。いまの国際情勢に目を向ければ、中国の攻勢をまえに平和の国NIPPONにも、ル・カレ作品が、リアルなものとして読まれる時代がようやく到来したといえるのではないだろうか。ここに哀悼の意を表し、いくつかの作品を道案内しておきたいと思う。

私にジョン・ル・カレの作品を薦めたのは、松本清張先生(1909~1992)である。

さっそく『寒い国から帰ってきたスパイ』と『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』『スクールボーイ閣下』『スマイリーと仲間たち』のスマイリーシリーズ3部作の文庫本に、『リトル・ドラマー・ガール』、そして当時最新刊だった『パーフェクト・スパイ』の単行本を書店で買い求め、夢中になって読んだ。

いまから30年以上前の話だ。

1980年代後半、清張先生は、海外と日本を舞台にしたミステリー小説をいくつか残している。『聖獣配列』『赤い氷河期』『詩城の旅人』などであり、作家晩年の作品となるが、日本の巨匠もまた、気になる作家としてル・カレを愛読していたのかもしれない。

私が知る清張先生は「作家に引退はない」「私は最期まで書き続ける」というのが口癖で、亡くなった年にも週刊誌2誌に連載をもち、新たに出版する単行本のゲラに手を入れていた。年齢を感じさせないその精力的な仕事ぶりに驚かされたものだ。

ル・カレにも「引退」の文字はなかった。

日本では今年2020年7月に『スパイはいまも謀略の地に』が出版されたばかりである(英国では19年)。実に88歳にして25作目の長編となるが、過去の回想ものではなく、その時々の国際情勢を踏まえた意欲作で、筋立ては目新しいものだった。

同作は、ブレグジット(英国のEU離脱)で揺れる英国(正式離脱は20年1月)にロシアが大物スパイを送り込み、対ロ工作で現場を駆けずり回ってきたMI6(秘密情報部)の熟練スパイが、その陰謀を阻止するという物語である。

この主人公の仕事の流儀が、昨今のハイテク情報戦に負けず劣らず、培ってきた人脈を駆使してのヒューミント(人的情報)であり、孤軍奮闘、諜報戦を勝ち抜いていく様が痛快である。こうしたヒーローとなるスパイ像は、ル・カレの出世作『寒い国~』から連綿と続く系譜となっている。

なぜスパイという職業を選んだのか

ル・カレは1931年の生まれ。弱冠32歳の年に発表した『寒い国~』の大ヒットが転機となって作家となる以前、英国情報部に勤務していたことは周知の事実である。彼はなぜスパイという職業を選んだのか。

アダム・シズマン著『ジョン・ル・カレ伝』は、本人の長時間インタビューをもとに書かれた伝記だが、ル・カレは採用されたとき、「まるで聖職者になるような気持ちだった」と振り返り、「内心非常に興奮しながら、外見はぼんやりした人間を装っているという考えを愉しんでいた」と語っている。

この話は興味深い。スパイになる動機は、冒険心、好奇心、功名心、はたまた正義感からといろいろある。ル・カレ作品の数々には、そうした様々なタイプのスパイが登場し、洞察力の深い巨匠は、その内面を深く掘り下げていくのである。緻密で巧みなプロットもさることながら、そこに彼の作品の魅力があり、時代を超えて読み継がれていく理由がある。

そもそもル・カレは50年代初頭、オクスフォード大学在学中にMI5(保安局)にスカウトされ、情報提供者となっていた。当時、ケンブリッジ、オクスフォードなどの名門大学の学生のなかには共産主義に感化され、後にソ連の二重スパイになった情報部員がいる。なかでも大物は、MI6のワシントン支局長まで務めたキム・フィルビーだった。

ル・カレは在学中、「オクスフォード大学共産主義クラブ」に参加して、仲間の学生についての情報をMI5に提供していたのである。

卒業後、教職を経てMI5に入ったのは58年、26歳のときだった。その後、MI6に転じ、61年に二等書記官として西ドイツの首都ボンの英国大使館に勤務。63年からハンブルクの領事を務めた。

このときの経験が、『寒い国~』の下敷きになっている。キム・フィルビーの逮捕を知ったのは、西ドイツ勤務時代のこと。それから10年を経て、名作『ティンカー、テイラー~』(1974)が生まれた。情報部に潜む裏切り者の「もぐら」(二重スパイ)を老スパイマスターのジョージ・スマイリーが焙(あぶ)り出していく物語である。

設定こそ違え、この作品が、キム・フィルビー事件に触発されているのは間違いない。彼自身が回想録である『地下道の鳩』(2016年)で、「『ティンカー、テイラー~』を書くときに私の道行を照らしたのは、キム・フィルビーの薄暗いランプだった」と告白している。

その『地下道の鳩』でも書かれていることだが、彼の人生に最大の影響を及ぼしたのが父親の存在であることは、本人がたびたび言及しているところである。息子を名門校に入れながら、自身は天才的な詐欺師であり、身勝手で独断専横的な父親。ル・カレ自身のスパイという職業選択にも、その影響があるようだ。そうした自伝的色彩の強い作品が『パーフェクト・スパイ』(1986)である。

冷戦期以降のスパイ小説

私の中で、ベスト3に入るル・カレ作品は『リトル・ドラマー・ガール』(1983)である。イスラエルの諜報機関モサドが、パレスチナ人の爆弾テロリストを暗殺するために、英国女優チャーリィをある人物に偽装させ、敵地に潜入させるという大胆な作戦を展開するという筋立て。この書を読むと、今日まで続く、かの地の紛争の原因がよく理解できる。ル・カレは、決してイスラエルの側に立って筆をすすめているのではない。前掲『地下道の鳩』でこう記している。

「私がみずからに課した仕事は、彼女とともに旅をすることだった。双方からの主張を聞き、チャーリィが葛藤したように葛藤し、決して両立することのない忠誠心、希望、絶望の数々をできるだけ経験するのだ」

冷戦期には、英米ソのスパイの暗闘を描いた作品が多くの作家によって輩出されたが、1989年の「ベルリンの壁」崩壊とともに、さしものスパイ小説のタネも尽きたかに思われた。

しかし、ル・カレの真骨頂はここからだった。次々と、その時々の国際情勢をテーマにした傑作を生みだしている。

『ナイロビの蜂』(2001)は、アフリカを食い物にする多国籍製薬会社の暴虐を告発した作品である。ケニアの首都ナイロビに駐在する英国人外交官ジャスティンの妻が殺害された。彼は真相を追ううち、製薬会社の陰謀に行きつく。抵抗できず蹂躙(じゅうりん)されていく現地の人々の事情は悲惨だ。

『誰よりも狙われた男』(2008)は、アフガン紛争を背景にしている。イスラム過激派の一員として国際指名手配されている青年イッサが、政治亡命を希望してドイツに密入国した。同国のテロ対策捜査官のギュンターは、彼を逮捕すべくCIAを巻き込むのだが――。イッサは、はたして凶悪犯だったのか。グアンタナモ湾収容所での囚人虐待が背景にある問題作だ。

『われらが背きし者』(2010)は、冷戦後、ロシアマフィアが跋扈(ばっこ)する暗黒時代が背景にある。マフィアの一員であるテッサは、家族ともども組織から命を狙われている。彼は、マネーロンダリングの情報提供の見返りに、英国への亡命を希望し、MI6と接触しようとしていた。偶然、知り合った英国人大学教授と妻は、彼の願いをかなえようとするのだが、さらなる陰謀に巻き込まれていく。情報部に正義はあるのか――。

ル・カレ作品を初めて読まれる方へ

あらかじめお断りしておくと、ル・カレの描く物語世界はまるで迷路のように入り組んでいる。しかも複雑にいくつもの伏線が張られ、読み馴れないうちは難解に思われるかもしれず、物語の先行きは、まったく見通せない。しかし、やがて全体像が忽然(こつぜん)と見えてくる。そこにル・カレ作品を読む醍醐味がある。

そして、これは彼の全作品に当てはまることだが、読み進むうちに彼の独特な文体は味わい深いものとなり、いつのまにか読者は彼の術中にはまってしまうのである。

2017年に刊行された『スパイたちの遺産』は、冷戦時代に活躍したスパイたちの鎮魂歌である。本作の主人公は、『寒い国~』『ティンカー、テイラー~』でスマイリーの片腕となったお馴染み、敏腕だが女難の癖のあるピーター・ギラムだ。

彼はすでに英国情報部から引退しているのだが、ある日、かつての作戦で犠牲になった遺族から今になって告発される。情報部の法務担当者はギラムを事情聴取し、こう言い放つ。

「昔の犯罪の責任のなすり合いが、いま大流行です。(略)清廉潔白な今日の世代対あなたがた罪深い世代。われわれの父親たちの罪を贖(あがな)うのは誰か。たとえ当時は罪ではなかったとしても」

情報部で封印されていた過去の作戦の全貌が明らかになっていく。かつての冷戦戦士は裁かれるのか。訪ねてきたギラムに、老スマイリーは諭(さと)すように話す。スパイは何のために人知れず戦ってきたのか。ル・カレの遺言のようにも読める。

「世界平和のためだ、それがなんであれ。そう、もちろん戦争はない。しかし、平和のための努力においては、石一個おろそかにしてはならないのだ」

ル・カレの豊潤な作品世界を、至福の読書の時間を、是非、堪能してほしい。

バナー写真:ジョン・ル・カレ(2010年) Press Association/アフロ

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