【書評】インテリジェンス・オフィサーとしての顔:手嶋龍一著『スギハラ・サバイバル』

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第二次大戦下の欧州から、多くのユダヤ難民が日本の通過査証を手に新天地を目指していった。それから70年後、9・11同時多発テロ、リーマン・ショックと金融市場が大暴落する度に、何者かが事前にドルを売り抜き巨額の富を手にしていた。英国情報部員のスティーブンがその謎に迫る。『ウルトラ・ダラー』に続く著者渾身の「インテリジェンス小説」第二弾――。

 タイトルの「スギハラ」は「杉原千畝」から付けられている。第二次大戦下の欧州で、リトアニアの領事代理だった杉原が、ユダヤ難民のために自らの判断で通過査証(ビザ)を発行、多くの人々を救った美談として彼の名前を知っている読者は多いだろう。

 だが、インテリジェンスの観点からこのときの杉原の行動を眺めてみると、違った側面が見えてくる。本作の著者は、物語のかたちをとりながら、その影の部分に鋭い光を照射した。けっしてヒューマニズムだけでは語ることのできない、冷徹な国際政治の現実を浮き彫りにしてみせたのである。
 それはどういうことなのか。作中の著者の記述にしたがいながら、まず、そこから紹介していこうと思う。

リトアニアへ逃れたユダヤ難民

 ポーランドの美しい古都クラコワで古書店を営むユダヤ人のヘンリクは、スターリンの弾圧に抵抗する地下組織に参画していた。運命の1939年9月1日、ドイツ空軍が大規模な空襲を敢行、それから17日後、独ソ不可侵条約を結んだスターリンの赤軍もまた、ポーランドへの侵攻を開始した。
 事前にその情報をつかんでいたヘンリクは、妻と一人息子のアンドレイを逃すため、隣国のリトアニアへ向かう。しかし、同国もいずれ赤軍の餌食になるであろう。そうなる前に第三国へ脱出すれば助かる道も開けてくる。

 1940年7月21日、リトアニアはソ連に併合された。ソ連当局は首都カウナスにある各国の在外公館に対し、8月末をもって閉鎖、退去するよう通告する。
 リトアニアに逃れてきたユダヤ難民は、それまでに出国しなければならない。彼らが目指す行先は、ソ連と中立を装う日本だった。シベリア鉄道でソ連を横断し、極東のウラジオストック港から海路、日本に上陸する。そこから上海のユダヤ人居留地やアメリカに渡る手立てを得ることができれば、万にひとつ、生きのびられる。そのためには、日本に入国する通過査証が必要だった。

 どうやって日本の通過査証を手に入れたらよいのか。ナチス・ドイツに占領されたポーランドの軍部は、ロンドンとパリに亡命政府を樹立。地下に秘密情報部を設け、反独ネットワークを全ヨーロッパに構築していた。この情報部に馳せ参じた士官の多くが、ポーランド国籍をもつユダヤ人だったが、彼らが入手した独自情報は、「チウネ・スギハラ」に接触すべし、であった。

「ペルソナ・ノン・グラータ」

 ポーランドの秘密情報部は、杉原千畝の素性を調査した。それにより、優れたインテリジェンス・オフィサーとしての杉原像が浮かび上がってくる。
 杉原は、リトアニアに赴任する前、満州のハルビンに勤務していた。本作では、秘密情報部の依頼を受けたハルビンのユダヤ人コミュニティが、調査結果を暗号文で回答するという形をとりながら、杉原のもうひとつの顔を明らかにした。

〈・・・杉原千畝氏は日本外務省有数のロシア通として知られる人物と申し上げていいでしょう。〉
 と、暗号文には記されている。
〈しかしながら、杉原千畝氏を単に外務省員として規定することは適当ではないでしょう。真の意味で「インテリジェンス・オフィサー」と呼ぶのがふさわしいと存じます。〉
 以下、彼の経歴をこう伝えている。
 杉原は、外務省からハルビンへ日露協会学校の第一期生として派遣された。ここでロシア語とロシアの政治・経済・社会情勢を学び、極めて優秀な成績をおさめた。特にロシア語能力については定評があったという。
 1924年、杉原はロシア革命でハルビンに亡命してきた白系ロシア人の娘と結婚。その年の暮れに、ハルビン総領事館の通訳官となり、1935年まで勤務した。

 ここからが核心部分である。
 表向きは一外交官にすぎなかった。しかし、暗号文には「正確には日本陸軍のハルビン特務機関に連なる情報士官だった」と記されていたのである。

 1931年、満州国の成立とともに、杉原は同国外交部に転出し、32年から3年にわたってロシア科長の要職を務めている。そこで杉原は、どのような工作活動にかかわっていたのか。暗号文はこう伝えている。
〈・・・満州里から綏芬河(すいふんが)に至る東清鉄道を満州国がソ連政府から買い取るための交渉で辣腕を揮います。このときの交渉ぶり、情報収集能力、語学力が際立っていたため、「警戒すべき人物なり」とソ連の情報当局の眼にとまったようです。〉
 杉原の妻はユダヤ人の血を引く白系ロシア人で、一族は反ボルシェビキの活動家としてソ連の監視対象になっていた。杉原もまた、ハルビンで多くの情報提供者を操る「インテリジェンス・マスター」として警戒されていたというのだ。

 1936年12月、杉原は外務省の人事で在ソ連大使館へ異動する予定だったが、ソ連当局は杉原の入国を許可しなかった。幹部級ならともかく、一外交官を好ましからざる人物「ペルソナ・ノン・グラータ」として拒否することは極めて異例である。
〈モスクワ当局にとっては杉原千畝氏の存在がいかに重いものであったかを窺わせましょう。〉
 と、暗号文は結んでいる。

情報の世界では等価交換が原則

 ここから、ポーランドの秘密情報部が、ユダヤ難民救出のために動き出す。
 ソ連から入国を拒否された杉原は、リトアニアの首都カウナスに新設された日本領事館に赴任していた。
 杉原に、ユダヤ難民のために通過査証を発行してもらう手立てはあるのか。
「・・・チウネ・スギハラにとっては金など決め手にならない」
と、秘密情報部は判断した。
「・・・とびっきりのインテリジェンスになら、必ず触手を伸ばしてくる」

 著者はこう記す。
〈日本政府は陸軍に引っ張られ、対独同盟にひた走っている。それゆえドイツが放逐したユダヤ難民に通過査証を易々と与えることはしまい。だが貴重な情報を差し出せば、杉原千畝は黙って通過査証のスタンプを押すはずだ。〉
 なぜなら、
〈スターリンの鉄の統制下にあった赤軍の動きは、深い霧に隠されていた。それだけにソ連の軍事情報は、日本軍部にとってはいかなる手段を弄しても入手する価値があった。情報の世界では等価交換が原則だ。ポーランド秘密情報部は選りすぐりの対ソ、対独情報を杉原に提供する。その見返りに、杉原はポーランド国籍を持つユダヤ難民が第三国へ渡航する道を拓いてくれるはずだ、というのが彼らの読みだった。〉

 現地の事情に通じたアシスタントを求めていた杉原の元に、ポーランド秘密情報部は、情報将校を送り込むことに成功した。その人物は、杉原の助手となり、情報収集する傍ら、通過査証の発行を手伝った。ところが、日本はあくまで経由地であって、当時の日本政府は、最終的な渡航先の政府の入国許可がなければビザを発給しない。難民に受入国などない。
 そこで杉原は、ある奇策を考え付いた。時間が限られた中で、大量のビザを作成するにはどうすればよいか。そのための手段も、情報将校のアイデアをもとに編み出した。ビザ発給の仕掛けについては、本作を読んで確かめてほしい。そのおかげで、公式に本省へ報告したものだけで2139通、実際には遥かに多くのユダヤ難民が救われることになった。

 先に触れた作中の登場人物ヘンリクとその妻、一人息子アンドレイもまた、このスギハラ・ビザを手にし、日本に渡ることができたのである。

「十一年目の著者ノート」

 本作は2010年2月に書き下ろし単行本として世に出たが、今年1月、あらたに新装版の文庫が出版された。あとがきにあたる著者書き下ろしの「十一年目の著者ノート」の中で、「本書は情報源を堅く秘匿するためにも物語の形をとった」と書かれている。
 本作の杉原千畝にまつわる逸話は、どこまでが事実であるのか興味深いところ。実は、その後に第一級の機密史料の指定が次々解除され、ヒューマニストとしての杉原のもうひとつの顔、「インテリジェンス・オフィサー」としての実像も次第に明らかになってきている。

 参考になる研究書は、「~著者ノート」でも紹介されている外交史料館の現代史家、白石仁章氏による『諜報の天才 杉原千畝』(2011年新潮選書、のちに新潮文庫として大幅加筆修正され『杉原千畝 情報に賭けた外交官』と改題)である。このノンフィクション作品は、インテリジェンス・オフィサーとしての杉原に焦点を当てたものだが、『スギハラ・サバイバル』は物語という形式をとりながらも新たな杉原像を提起した先駆けということになるだろう。

 しかし、この杉原にまつわる逸話は、本作でこれから展開される物語のほんのとば口に過ぎない。続きを紹介したい。

 敦賀で日本に上陸したヘンリクの一家は、難民の支援組織がある神戸に仮住まいし、アメリカへの移住を模索する。この地で一人息子のアンドレイは、浮浪児松山雷児と出会い、生涯を通じての親友となる。このふたりが、のちに重要な登場人物となる。
 祖国を脱出してから70年後、アンドレイはシカゴのマーカンタイル取引所で金融先物商品を生み出す稀代のトレーダーとなり、雷児もまた、北浜の大阪証券取引所で名を馳せる大物相場師となっていた。

国際テロリストの資金調達

 BBC(英国放送協会)のラジオ特派員として日本に滞在しているスティーブン・ブラッドレーのもうひとつの顔は、英国秘密情報部員である。これが著者の前作『ウルトラ・ダラー』に続く本作の主人公だ。
 彼の盟友である米国人のマイケル・コリンズは、先物やオプション取引市場を監視・監督する連邦政府機関「商品先物取引委員会」本部の捜査局に在籍し、不正な取引行為を捜査・摘発する特別捜査官である。

 スティーブンは、2008年8月に起きたリーマン・ショックをきっかけに、2001年9月の同時多発テロ、さらにはさかのぼって1987年10月のブラックマンデーの際にも、金融市場でドルが大暴落をする中、事前に売り抜けて巨万の富を得た者がいることに着目していた。疑惑は、アルカイダら国際テロリストにつながっていく。彼らは、巨額のテロ資金をどこから、いかにして調達しているのか。
 2009年春、スティーブンはスコットランドでマイケルと再会する。ここから二人三脚での捜査が始まる。

 いくつか明らかになった事実がある。
 ブラックマンデーでは、ニューヨークの証券取引市場で売り注文が殺到し、市場が閉鎖に追い込まれた。しかし、シカゴのマーカンタイル取引所だけは取引を続けた。そこで、直前に大量の先物商品を売り抜けた者がいる。不正取引の監視当局は、マーカンタイルの実力者アンドレイ・フリスクを疑った。「スギハラ・サバイバル」の、あのアンドレイである。しかし、彼が売り抜けた形跡はなかった。このとき、アジアでも不審な空売りが仕掛けられていた。

 9・11同時多発テロ直前にも、猛暑で市場の取引が閑散としているなか、ヨーロッパでユーロドルと先物が大量に売られるという怪しい動きがあった。
 北浜の相場師松山雷児は、ブラックマンデーさらに同時多発テロ事件でも空売りを仕掛け、しこたま儲けたと噂されていた。

 もうひとり、重要な登場人物がいる。フリスク一家と同様に、戦乱のリトアニアから日本に逃れてきた美少女ソフィーである。アンドレイとは幼馴染で、ここ神戸で再会し、雷児とも知り合った。彼女もユダヤの血を引いている。
 彼女は暗い過去を背負って生きてきた。神戸から家族とともに上海に逃れた少女は辛酸をなめる。長じて、ソフィーは世界に張り巡らされたユダヤ人ネットワークの中枢にいる。

 スティーブンは松山雷児に接触し、やがてソフィーとも出会う。そこで解き明かされていく真実とは――。

大量の小麦と核開発

 ここから先は、本作を読んで楽しんでもらいたいが、この作品の魅力は、アンドレイ、雷児、ソフィーそれぞれの数奇な人生の歩みが、驚きのエピソードとともに生き生きと描かれているところにある。著者の人物造形は巧みである。
 さらに、この作品にはいくつもの興味深いインテリジェンスが書き込まれている。要点だけ記す。

 9・11を前に、アメリカの各情報機関はアルカイダとオサマ・ビン・ラディンによるテロの兆候をいくつもつかみ、ホワイトハウスに情報を挙げていた。しかし、ライス国家安全保障担当大統領補佐官は耳を傾けなかった。その詳細な内幕には驚かされる。

 マイケルは、スティーブンにイスラエル発の極秘情報を伝えた。2007年夏、アメリカ・ミネアポリスの穀物取引所で、小麦価格が異常な値上がりをした。なぜか。シリア政府は北朝鮮政府と秘密協定を結び、大量の小麦を北朝鮮に供与していた。それと引き換えに、シリアは北朝鮮から核開発の技術を提供されていた。9月、イスラエル空軍はシリアの核関連施設を爆撃した。

 スティーブンはスリランカに飛んだ。この国の屈指のリゾートホテル・カンダマラで、スリランカ、北アイルランド、シリア、北朝鮮のテロ組織の幹部が一堂に会し、秘密会議が行われている。この4グループは、数年に一度、密かに会合を持ってきた。アルカイダの資金担当者は、世界各地のマーケットが荒れるたびに、膨大な売りの建玉を手仕舞い、巨利を得てきた。その動きをカモフラージュするために、第三のグループを抱き込み、投資情報を流してきた。秘密会議は、次の投資案件を話し合うためだった。

 こうした挿話は、どこまでが事実なのだろうか。興味は尽きない。そして、壮大な物語の源流は、スギハラ・サバイバルにあった。本作を読み終えたとき、読者はインテリジェンスの世界の奥深さに魅了されることだろう。

「スギハラ・サバイバル」

手嶋龍一(著)
発行:小学館
文庫版:461ページ
価格:850円(税別)
発行日:2021年1月9日
ISBN:978-4-09-406864-1

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