【書評】感染症対策にも役立つ:一盛和世編著『きっと誰かに教えたくなる蚊学入門』

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地球上の人口は約78億人だが、マラリア、デング熱など蚊(か)が媒介する感染症による死者は世界で年間70万人以上。小さな蚊は人類にとって危険な生き物でもある。「蚊学(かがく)」を説く本書は、蚊から身を守る術も伝授している。

感染症とも闘った五輪の歴史

新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的大流行)のさなか、7月23日に東京オリンピックが開幕した。実は1896年のアテネ大会から始まった近代オリンピックの歴史と感染症とは深い関係がある。本書では次のように紹介している。

1964年の東京大会では、オリンピック開催直前にコレラの蔓延が判明し、関係者へのワクチン接種に追われました。同年、日本脳炎の患者は2600人を超え、その半数が亡くなっています。

2016年のリオデジャネイロ大会におけるジカウイルス感染症の流行と、2018年平昌(ぴょんちゃん)冬季大会におけるノロウイルスの流行は記憶に新しい出来事です。

日本脳炎もジカウイルス感染症も蚊が媒介する感染症だ。人類は五輪のスポーツ競技と並行して、蚊とも闘ってきたのである。

熱帯医学など蚊の専門家の共著

「日本にも世界にも、蚊を愛し、蚊を研究し、蚊と闘い、蚊を仕事としている人々がいます。私もそのひとりです」。編著者の一盛和世(いちもり・かづよ)長崎大学客員授はこう記す。

一盛氏は玉川大学農学部卒業後、東京大学医科学研究所で熱帯病、蚊、フィラリアを学び、ロンドン大学衛生熱帯医学校でマラリアの研究で博士号を取得。1992年から2013年まで世界保健機関(WHO)に勤務、昆虫が媒介する感染症対策に取り組んできた。彼女が約30年の海外生活で住んだ国はサモア、英国、グアテマラ、ケニアなど9カ国、仕事をした国・地域は100カ所以上というグローバルな経歴だ。

本書は熱帯医学、昆虫学、寄生虫学の研究者、防虫用品メーカーや公衆衛生の専門家、シンガーソングライター、彫刻家らが著述している。本書の編著者・執筆者一覧によると、総勢28人。こうした幅広い分野の執筆陣が論じる「蚊学」とは何か。一盛氏は次のように定義する。

蚊という昆虫の生態を知ること、それを取り巻く環境・人間社会・文化を知ること、蚊と闘う武器や道具・戦術を知ること、蚊が運ぶ病気を知ることです。そして蚊と人が地球上でつくり出すあらゆる物語をハッピーエンドにもっていく方法を考えることです。

マラリアやデング熱の運び屋

ウイルス、細菌類、原虫類などの病原体が人へ感染する経路はいくつかある。新型コロナ感染症のような飛沫感染や接触感染、結核やはしかなどの空気感染など様々だ。蚊やダニなど節足動物が媒介する感染症も少なくない。

蚊は節足動物である昆虫の仲間で、翅(はね)が2枚の「ハエ目蚊科」に分類されている。世界には約3600種、日本には112種の蚊がいるという。蚊のメスだけが産卵のために人や動物から血を吸う習性がある。蚊のオスは吸血しない。

蚊のメスはマラリアやデング熱などの病原体の運び屋となる場合がある。日本の蚊で病気との関係が深いのはイエカ、ハマダラカ、ヤブカの3属である。

イエカ属の蚊の体色は全体的に茶色が多い。フィラリアを媒介するアカイエカ、日本脳炎ウイルスを運ぶコガタアカイエカなどが代表的だ。

マラリアという感染症は発熱などを伴う。翅に斑(まだら)模様があるハマダラカ属の蚊が刺咬(しこう)・吸血することで病原体であるマラリア原虫が人体に注入され、感染する。

原虫は4種類あり、熱帯性マラリア原虫の場合、免疫をもたない日本人が感染して適切な治療が施されなければ、ほぼ100%死に至る。マラリアの恐ろしさを本書では次のように説明している。

マラリアは、世界で年間およそ2億2900万人が罹患し、死亡者数は40万9000人と報告されていますが、患者および、死亡者の94%はサハラ以南のアフリカ地域で発生しています。そして、死亡者の内の67%は5歳未満の子どもであることを特記しなければなりません。(中略)日本国内の輸入マラリア(海外で感染して国内で発症するマラリア)の患者数は、近年は年間50~60例前後です。

黒っぽい縞(しま)模様が特徴のヤブカ属の蚊には、デング熱、ジカウイルス感染症、チクングニア熱などのウイルスを媒介するものがある。

デング熱はデングウイルスを持ったネッタイシマカ、ヒトスジシマカなどに刺されることで感染する急性の発熱性の病気だ。感染しても症状を示すのは4人に1人の割合だが、重症化して適切に治療されないと「ショックを起こして、命にかかわる状態になる」こともある。

デング熱はアジア、アフリカ、中南米など熱帯地域全域で発生している。本書によると、世界全体で毎年、3億9000万人ほどの人が感染し、9000万人の患者が発生していると見積もられている。日本で2014年夏、東京の代々木公園などで感染が相次いだのはヒトスジシマカが媒介したという。

人のフィラリア症、日本では根絶

人のフィラリア症は「リンパ系フィラリア症」とも呼ばれ、人のリンパに住む糸状虫(フィラリア)という寄生虫をイエカやヤブカが媒介する。人に感染した糸状虫はリンパ浮腫や象皮病などを引き起こす。

リンパ系フィラリア症は東南アジア、アフリカ、中南米など熱帯・亜熱帯地域に分布している。媒介する蚊の種類は世界で4属100種以上が知られ、地域、場所ごとに媒介する蚊の種類が異なるという。

かつては世界中で推定1億2000万人が感染していたというデータもある。日本でも沖縄や九州南部などで流行していたが、「1960年代から70年代にかけて公衆衛生対策を行い、世界に先駆けてこの病気を根絶」した経緯がある。

渦巻き蚊取り線香の開発秘話

夏の夜、蚊がブーンと飛んでくると、うっとうしくて眠れない。刺されれば、痒(かゆ)いだけでなく、命にかかわる危険な病気に感染しかねない。人類は古来、蚊との闘いに悩まされてきた。

本書の第2章「蚊から身を守る!」では、防御のための様々な対策を指南している。例えば、蚊帳(かや)の起源は古代エジプトまで遡り、日本には1000年ほど前、中国から伝えられたという。本書は防虫用品メーカーの専門家らも執筆しているため、殺虫剤や忌避剤について実用的な情報を得ることもできる。

「金鳥」の商標で知られる蚊取り線香の開発ストーリーは読み応えがある。物語は大日本除虫菊の創業者、上山英一郎(1862-1943年)が恩師の福沢諭吉の紹介で、来日した米国の種苗商と出会い、歓待したところから始まる。

帰国した種苗商はお礼にと天然殺虫成分ピレトリンを含んだ「除虫菊」の種子を上山に送った。除虫菊の花を乾燥させ、粉砕したものが「のみとり粉」の原料になる。日本で除虫菊の栽培に成功した上山はその粉で線香をつくることを思いつき、「明治23年(1890年)に、世界で初めての蚊取り線香が、棒状で誕生した」のである。

しかし、棒状のものでは早く燃え尽きてしまう。もっと長い時間使えるようにと明治28年、「『渦巻き』のアイデアを出したのが、上山夫人のゆきさん」だったという。日本の蚊取り線香は130年にわたる歴史があり、家庭用殺虫剤の先駆けともなった。

汝の敵を愛せば百戦危うからず?

蚊は人類にとっては害虫だ。しかし、一盛氏は「実は、不思議でおもしろい昆虫です。美しく精巧な体を持ち、賢く的確に行動し、人類の生まれるずっと前からこの地球で生きてきました」と温かい眼差しを向ける。

一盛氏は「リンパ系フィラリア症」の制圧をライフワークとしてきた。「蚊は私のバックボーン」だともいう。蚊はときとして病原体も運ぶが、「汝(なんじ)の敵を愛せよ」(新約聖書)の精神で「蚊学」に向き合ってきたのだろう。

感染症対策としては蚊についてよく知ることが前提だ。本書の第1章「蚊ってなに?」では蚊の生物学的特徴や生態を詳述している。第4章「蚊を調べてみよう!」では蚊の捕まえ方、飼い方、解剖の仕方まで専門家らが写真入りで懇切丁寧に解説している。これらは“敵”を熟知することにつながる。

蚊が媒介する感染症に罹らないためには、何よりも蚊に刺されないようにすることが肝心だ。本書では、蚊に刺されやすい人として次のような見出しを列挙している。

皮膚の水分量が多いと刺されやすい、血液型ではO型が刺されやすい、太り気味だと刺されやすい、飲酒後は刺されやすい、肌の色が濃い人が刺されやすい

つまり蚊が媒介する感染症の対策としては「汝の敵を愛せよ」と同時に、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」(孫子)ということだろうか。

「きっと誰かに教えたくなる蚊学入門-知って遊んで闘って-」

一盛 和世(編著)
発行:緑書房
B6判:256ページ
価格:1980円(税込み)
発行日:2021年6月30日
ISBN:978-4-89531-596-8

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