【書評】人間・辻政信の真相に肉薄する:前田啓介著「辻政信の真実 失踪60年-伝説の作戦参謀の謎を追う」

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「作戦の神様」と称賛されながら「悪魔の参謀」と批判された陸軍参謀、辻政信。新聞記者として、辻政信は何者だったかというテーマに挑んだ著者は、世の中に流布する「絶対悪」(半藤一利)という固定観を問い直す狙いを本書に込めた。

戦前も戦後も表舞台で

辻政信は、戦前も戦後も、表舞台で活躍を続けた珍しい軍人である。満州事変を主導した天才戦略家・石原莞爾は戦後4年で亡くなった。盟友でもあった服部卓四郎も再軍備の議論を唱えるなど舞台裏で暗躍はしていたが、表舞台で知られる活動はしていない。

一方、辻政信は、ノモンハン、インパールなどの作戦における失敗、マレー半島攻略戦の神がかり的な成功、そしてそのあとの華僑虐殺への関与。両極端の毀誉褒貶に加えて、戦後、戦犯指定から逃れようとして大陸をさまよったことを描いた『潜行三千里』などの手記がベストセラーになり、一躍人気者となって総選挙に出馬すれば、地元の石川でトップ当選。

最後は「世界平和のため」と称して内戦和解の使者となるべく向かった渡航先のラオスで行方不明となってミステリアスな最期を遂げた。辻政信ほど波乱万丈の人生を送った帝国軍人はいないだろう。辻政信という名前自体に、何か人々の衝動を引き起こしてしまう「魔力」が潜んでおり、過去に数多くの著書も刊行された。

その魔力に引き込まれた新たな一人が著者である。著者は読売新聞の記者で、辻政信の出身地である金沢支局で勤務するなかで興味を抱き、石川県版で連載をしたものに、大幅に追加取材・加筆したものが本書である。新書としてもかなりの大著であり、辻政信という対象に対して、悪戦苦闘しながら生き生きと資料を読み解き、証言を集め、筆を進めた息遣いが伝わってくる。

炭焼き職人の息子からエリート参謀へ

本書は、石川県の山深き地で貧しい炭焼きの子として生まれた「神童」が、孤軍奮闘の努力で陸軍幼年学校から陸軍士官学校、陸大という軍人のエリートコースを歩み、日中戦線、太平洋戦争のなかで中堅参謀として作戦立案に奔走し、さらに戦後は人気作家、国会議員として再出発し、ラオスに旅立つまでのプロセスを、辻政信の残した一次資料や歴史的文書、家族、親類、知人などの証言を組み合わせながら、細心かつ丁寧に再現していく。

「謎を追う」というジャーナリスティックなサブタイトルが掲げられてはいるが、本書の本質は包括的な評伝であることに読み進めるうちに読者は気づくだろう。それは、特定の謎の解明というよりは、辻政信という人間の真実に迫りたいという著者の強い願望の現れでもあるからだ。

本書の狙いである「辻政信は絶対悪だったのか」という点の再定義については、かなりの程度、成功しているのではないかという読後感を抱いた。著者は、評価のバランスを「絶対悪」から「善悪定かならぬ個性」というところに振り子の針を戻している。本書を読んでも、辻政信が善人だと思うことはないが、悪魔のような人間であるとも思えないだろう。それは怪物化された人物像を、より人間的なレベルに引き下げたとも言える。

辻政信を支えた軍内部の人間関係

辻政信の軍人人生は、成功よりは失敗が多い。マレー南下作戦では見事な成功を収めたが、ノモンハンでの無謀な作戦遂行による大敗、シンガポールでの華僑虐殺、ガダルカナル島奪還作戦の失敗。かねてから私にとっての疑問は、どうして辻政信が軍人のキャリアを最後まで第一線で続けられたのか、という点であったが、本書では、当時の軍内には士官学校などの人間関係もあってシンパも少なくなく、軍幹部との人間関係が辻政信を支えていたことが明かされている。

同時に、辻政信の失敗と成功は、自身の戦後の宣伝活動もあって誇大化されているが、軍全体の意思決定のなかで辻政信の意見が通っただけで、独断で進められるほどのシンプルな組織ではなかったことも、一緒に作戦に関与した同僚の軍人たちの証言によって論証されており、歴史的な解読としても納得感が得られる。

本書の内容で史料的に新しいものとしては、ラオスにおける失踪に関する外交文書がある。外交史料館で、辻政信が訪れたタイやラオスなど各国の日本大使館職員が、本省とやり取りをした公電などを集めた『本邦人失踪及び変死関係 在アジア、大洋州地域 辻政信参議院議員関係』という3巻綴りの文書群を著者は探し出す。そこでは、国会議員である辻政信の訪問に対して、現地外交官たちが支援を行い、失踪後の調査にも苦心する様子が描かれていた。

ただ、それも失踪について、新展開が見えるというのもではなく、むしろ、いかに本気でラオスの内戦を止めるために危険地帯に赴き、日中停戦を蒋介石に直談判しようとした『潜行三千里』の戦後版のような冒険的行動を取っていたかが、より具体的に見えるようになっている。

失踪の真実は?

辻政信は失踪後、一部で言われていたように中国に密入国していた、といったことはあまり考えられず、一方で、自殺的な思いで死を望んで外国に渡っていたという見方も、著者の論証から否定されている。

結論としては、和解を持ちかけようとして接触した左翼ゲリラ「パテト・ラオ」に捕獲され、処刑された可能性が高いというこれまでの見方とそれほど変わるとことはない。渡航前や渡航後の日本への連絡のなかで、知人から送られた貴重な蘭の花の管理を頼んでいたことなども例に挙げながら、意図的に姿を消したとする説に疑問を向けている形になっている。

人間・辻政信に肉薄

過去の辻政信に関する著書は「善か悪」かの結論を出してから、その材料を集めようとしたところに欠点があった。神格化と悪魔化の両極端なものが多く、軍人能力に対する批評に詳しいものもあるが、辻政信という稀代のトリックスターをトータルで描くところまでは至っていなかった。

一方、著者は辻政信に対する一定のシンパシーを抱きながら、できるだけ客観的に本人を知る人々から正確な肖像画を描き出そうとした。忠実に辻政信に関係した人々の証言を集め、その人物像を描くことに腐心した内容はまさにジャーナリズムの仕事であり、著者が最も誠実に取り組んだ部分ではなかったかと思う。

あとがきで「辻政信という人間が何者であったのか、最後までつかみきることができなかった、というのが正直な思いだ」と記しているが、人間・辻政信に可能な限り肉薄した内容だということはできるのではないか。

個人的には、辻政信の人生は事実上1945年の敗戦によって終わっており、ベストセラー執筆、国家議員当選、ラオス失踪などの戦後のイベントは、ある種、死ぬ前の「遊び」のようなものだったと思う。自身も戦後の出来事は人生の「付録」と述べていた点もその心理がわかって面白かった。

彼の人生のハイライトはまちがいなく大失敗のノモンハン作戦であり、大成功を収めたマレー半島攻略戦であり、実現には至らなかった終戦直前の日中停戦工作であった。日本という国家をさんざん振り回した末に飄々と姿を消した辻政信の人生は、なお我々の心を強く揺さぶるのである。

「辻政信の真実 失踪60年-伝説の作戦参謀の謎を追う」

前田啓介 (著)
発行:小学館
新書判:466ページ
価格:935円(税込み)
発行日:2021年6月3日
ISBN: 978-4098254019

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