【書評】「外交のプロ」の若者へのメッセージ:薮中三十二著『外交交渉四〇年 藪中三十二回顧録』

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外務事務次官にまで登り詰めた一外交官の臨場感あふれる行状記である。国益をかけた外交交渉の舞台裏、様々なエピソードなども綴られているが、単なる「メモワール」ではない。真摯な自省録であり、日本外交の針路を示す警世の書でもある。

外務次官まで波乱に富んだ人生

「成り行きまかせというか、行き当たりばったりの結果、外務省に入ってしまった」。1948年、大阪府生まれの著者、薮中三十二(やぶなか・みとじ)氏の40年に及ぶ外交官人生は波乱に富む。

大阪大学法学部3年生のとき、英語会話クラブESS(English Speaking Society)の仲間の誘いで外務省採用中級試験を受け、合格した。そのころは上級試験の制度があることを知らなかったという。著者はこう振り返る。

当時、大阪大学から東京の官庁に進む人はほとんどおらず、外務省のことを聞くにも先輩も皆無、全くの情報砂漠だった。そこで、あまり深刻に考えずに、「ま、いいか。外務省というのも面白そうだな。とにかく人生経験だ、行ってみるか」とあっさり阪大退学と外務省入省を決めてしまった。

1969年に入省後、上司だった山口洋一首席事務官の勧めで上級試験を受け、これも合格した。「今、思うと山口さんとの出会いが運命的だった。山口さんに出会っていなかったら、その後の外務省生活は全く違ったものになっていた」と述懐する。

いわゆるノンキャリで入省してから上級職となり、在外研修で米コーネル大学を1973年に卒業した。シカゴ総領事やアジア大洋州局長などを歴任し、2008年に事務次官に就いた。外交交渉の貴重な記録と外交官冥利に尽きるストーリーが本書の中核となっている。

「サブ」と「ロジ」の双方に長ける

外交官というと、国際的で華やかなイメージがある。しかし、外務省の仕事は「サブ」と「ロジ」がキーワードだという。著者はこう説明する。

サブはサブスタンスの略で、中身がある、ということ、ロジはロジステイクスの略で、これは足回りの仕事、つまり、要人の訪問の際に宿舎の手配や、車を手配する仕事などを指している。

1975年秋、昭和天皇と香淳皇后がフォード大統領の招待を受けて初めて米国を訪問された。「アメリカでは、真珠湾攻撃当時の天皇が来るということを意味し、日本、アメリカ双方にとって大イベントだった」。そのロジの一端を担ったのが若き日の著者だった。

両陛下御訪米は究極のロジの仕事である。これをやったおかげで、その後、ことロジについては、外務省で何も怖いものがなかった。

1985年、ワシントンにお立ち寄りになった徳仁親王殿下(現在の天皇陛下)と日本大使公邸のテニスコートでペアを組んだが、著者は最初に飛んできたボールをミスした。「その後は、私はできるだけボールから遠ざかることにし、殿下の見事なプレイで勝利を収めることができた」思い出もある。

著者が1986年に経済局国際機関第二課長に就いた後、外務省に入省したばかりの研修生として小和田雅子さん(現在の皇后陛下)が配属された。「小和田研修生はしっかりと仕事をこなし、立派な環境問題ペーパーを作り上げた」という。

シカゴ総領事時代、小渕恵三首相が訪米した。シカゴの球場での1999年5月1日の始球式をセットしたのも著者だった。小渕首相は前年のメジャーリーグのホームラン王、シカゴ・カブスのサミー・ソーサ選手をキャッチャーにして見事、ノーバウンドで投球した。著者はそのときの様子をこう紹介する。

ご機嫌の小渕総理はグラウンドで観客に向かってスピーチをすると言い出され、「シカゴは私のお気に入りの街」(Chicago is my kind of town)とフランク・シナトラの歌を引用してのスピーチ、これには場内もやんやの喝采だった。

著者は、交渉や会談の中身を考える「サブ」でも歴史的な重要案件に関わった。とりわけ1980年代後半から90年代にかけての日米経済摩擦の交渉担当だったころ、“タフ・ネゴシエーター”ぶりを発揮したことはよく知られている。

タフ・ネゴシエーターの面目躍如

本書は、「第一章 新米外交官、奮闘す――在外研修から日米航空交渉まで」をはじめ九つの章と終章で構成。このうち「第二章 対日貿易摩擦の最前線で――本省人事課から経済局国際機関第一課へ」、「第三章 怒涛の日米交渉――経済局国際機関第二課長、北米局北米第二課長として」、「第四章 日米構造協議――無我夢中の長い長い交渉」で主に日米交渉の詳しい経緯や裏話を明かしている。

温厚な雰囲気を漂わせながら、「瞬間湯沸かし器」の異名もとる著者は交渉の過程で、怒って見せることもあったようだ。日本の建設市場開放問題と日本の指名入札制度をめぐって米商務省の次官補代理が日本に乗り込んできた時のこと。この米側代表は「何とも無礼な男」で発言内容も「失礼な話」だったため、著者は思わず通訳に「そんな話は通訳しなくてよい」と叫んでしまった。

この時の叫びが、交渉上の高等なテクニックだったか、あるいは単純な憤りなのか、自分でも恥ずかしながら判然としない。ただ、この男はあまりに失礼だ、という気持ちが腹の中で溜まりに溜まり、ついに沸騰点に達したことは間違いなかった。

相手は「呆気にとられたようだった」。著者は何事もなかったように協議を進めていった。「すると、相手も少しは丁寧な態度を取るようになり、無事、この場は収拾された」という。

米国の対日大戦略の参謀は誰か

「厳しい歴史の審判を仰ぐしかないが、私自身は、ある程度は役割を果たせたのではないかと思っている」。著者は一連の対米交渉について、こう回顧する。

一方、米国にとっては巨額の対日貿易赤字の縮小が至上命題だった。対日戦略の中心にいたのは、レーガン政権で大統領首席補佐官、財務長官、ブッシュ政権で国務長官を歴任した「ジェイムズ・ベーカー氏ではなかったか」。著者はこう推測する。

1985年のプラザ合意による円高、88年のバーゼル合意による銀行の自己資本比率の引き上げ、そして対日市場開放要求と日米構造協議を主導、けん引したのはベーカー氏だったのではないかとの仮説である。著者はこのような重層的な対日戦略が引き金となり、日本の競争力が損なわれたと以下のように分析している。

私自身としてみても、日本経済にとって良かれと思って交渉した結果が日本の競争力を弱めることにつながってしまったかと思うと、忸怩たる思いにかられることがある。もちろん、対米交渉の結果が日本経済を弱めたといった短絡的なことではなく、日本経済が「失われた一〇年」、いや二〇年、三〇年となったのは、その後の経済運営の失敗にあることは明らかであろう。そして、日米構造協議で実現した構造改革をさらに対象を広げて大胆に進めておけば、日本経済は力強く復活していたのかもしれないが、今となっては、これも後の祭りである。

最も悔いが残る問題で責任を痛感

2002年12月にアジア大洋州局長に就任した著者は、北東アジアの懸案である北朝鮮問題にも取り組んだ。04年5月22日の小泉純一郎首相の2回目の訪朝に同行するなど、この年は3回も訪朝し、北朝鮮による日本人拉致問題の解決に奔走した。

だが、拉致問題は大きく進展しないまま、今日に至っている。著者はこう記す。

この問題は、私の外交官人生においても、最も悔いが残る問題であり、いまだ拉致被害者の帰国が実現できず、解決を見るに至っていないことについて、責任を痛感している。

北朝鮮の核問題をめぐっては、2003年8月に北京で第1回「六者会合(六カ国協議)」が開かれた。本書には六者会合誕生の秘話が盛り込まれている。それは同年2月にパウエル米国務長官が来日し、小泉首相を表敬、川口順子外相と会談した時のことだ。著者は国務長官に同行していた高官と接触した。

この時、私はジム・ケリー国務次官補と話し合い、北朝鮮問題については中国に当事者意識を持たせる必要があり、日米韓に加え、北朝鮮、中国、場合によってはロシアも含めた協議の場を作ってはどうか、その際、中国の北朝鮮への働きかけを強化させるためにも、中国に会議をホストさせてはどうか、という試案を思いつき、その場で手書きのメモにしたためてみた。すると、ケリー国務次官補は、グッドアイデアだと応じ、そのメモをポケットに仕舞い込んだのだった。後でケリーさんから聞いた話では、そのメモを北京に向かう機内でパウエル国務長官に見せ、それが一つのベースとなって、パウエル長官が中国側に六者会合の原型を提案することになったとのことだった。

03年当時、評者は駐在していた北京で六者会合の動向を取材していた。議長国の中国は「北朝鮮を対話の枠組みに引き込むため、われわれが主導して六者会合をつくった」との立場だった。どのような外交的駆け引きがあったかはつまびらかではないが、六者会合の日本代表となった著者がその“生みの親”だったことは注目に値する。

「日本力」と徳を積む外交を説く

著者は外務事務次官を2年8カ月務めた。この間、自民党二人、民主党二人の四人の首相に仕えたが、「これは外交上、極めてよろしくないことだった」と振り返る。「外交の一貫性や継続性が保ちえないし、相手国にとっては日本の総理は誰か、全く顔が見えないことになる」からだ。

「外務省での仕事は十分にやり終えたと考え、退官した」のは民主党政権2年目の2010年8月。それから10年余り。本書では「第八章 アメリカのバイデン新政権と世界情勢分析」と「第九章 日本の針路を考える」で今後の日本外交に関して「熱い思い」を論じている。

「日本外交の進むべき針路として、『日本力』を中心とした三本柱からなる外交戦略の展開を提案したい」。著者は日米同盟関係の維持、アジアとの共生の二本柱に加え、第三の柱として「日本力」を挙げる。

日本の強みは「これまでに培ってきた日本の信頼力であり、経済、技術、文化といった総合的な力である」という。

日本の信頼力は、これまで日本外交が培ってきた「徳を積む外交」に起因している。戦後の日本は、経済発展を遂げても大きな軍隊を持たず、核兵器を持たず、平和外交に徹してきた。そして、日本は開発途上国の国作りを手伝ってきた。(中略)このような地道な努力の積み重ねが世界各地で評価され、日本への信頼を高めてきている。

外交交渉の「半分は国内調整」

「終章 四〇年間の外務省生活を振り返って」では、外交交渉の要諦について触れている。その一つは「交渉を進めるなかで、ハッタリというか、嘘をつく誘惑にかられることも少なくないが、嘘をつけば相手との信頼関係を築くことが出来ず、結果的に良い交渉結果を得ることが出来ない」というものだ。

外交は内政の延長線上にあるといわれる。著者は「お互いに国内の利害関係者を背中に背負っている。交渉の半分はそうした国内の利害関係との調整」だと指摘する。

日本の場合、首相官邸が「大きな外交政策を考えるのは自然なことである」。ただ、「事務方がこれを支え、さらには外交のプロとして日本が進むべき針路を示し、外交政策を立案する」ことこそ肝要だ。外交政策づくりに当たって「官邸の意向を慮り、忖度する、などといったことがあれば、とんでもない」と断じている。

大学や塾でグローバル人材育成

「いわば、次代の日本を背負う若者へのメッセージ」――。外交のプロを自負する著者は本書を執筆した狙いをこう表現する。退官後、立命館大学で客員教授、大阪大学でも特任教授を務めている。

大学で教え始めたのは、これから世界に旅立つ若者に外交の現場とはどういうものかを具体的に説明し、外交交渉で身につけた経験を分かち合いたいという思いからだった。

「グローバル寺子屋・薮中塾」も主宰している。毎年20名くらいの学生を公募し、4月に入塾、原則1年間、毎月1度の勉強会を土曜日に京都で開き、8月には夏合宿、翌年2月に公開イベントを催す。「現在、この寺子屋が七年目に入った」。すでに卒塾したOB、OGを入れると、120名になっているという。著者は本書をこう結ぶ。

真の意味でのグローバル人材が日本各地で育っていくことを期待している。こうして若者と向き合う日々が私にとって何よりも幸せな時間となっており、体力が続く限り、「グローバル寺子屋・薮中塾」は続けていきたいと思っている。

「外交交渉四〇年 藪中三十二回顧録」

薮中 三十二(著)
発行:ミネルヴァ書房
四六判:320ページ
価格:3080円(税込み)
発行日:2021年7月1日
ISBN:978-4-623-09210-9

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