【書評】:最強の柔道家が負けた理由:増田俊也著「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」

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「木村の前に木村なし、木村の後に木村なし」。そう恐れられた柔道家・木村政彦の人生は、1954年、たったひとつの敗戦で暗転した。あの日なにがあって、なぜ木村は負けねばならなかったのか。自らも柔道家だった著者が18年をかけて描いた、史上最強の柔道家の生き様。

東京2020オリンピック・パラリンピックが幕を閉じた。

「地元でオリンピックが行われる」と興奮していたところから一転、最終的に無観客となったこともあり、テレビでの観戦となった(そもそもチケットは1枚も当たらなかったけれど)今大会。

オリンピック開会式の翌日から、メダルラッシュとなったのが柔道だった。
兄妹で金メダリストとなった阿部一二三、詩選手をはじめ、14階級中、男女合わせて9階級で金メダル。

そんな快進撃に、「そういえば」と本棚から手に取ったのが本書だ。
2段組、700ページにも及ぶ単行本の分量に腰が引けて文字通り“積読”になっていたが、緊急事態宣言下、家で過ごす時間が増えたことにも背中を押され、オリンピック応援の合間に読み始めた。

終わってみれば、あっという間。
なにしろ冒頭からおもしろい。

1976年、夏。
全日本プロレスの事務所にどっかと座り、ゆったり葉巻をくゆらす社長のジャイアント馬場と、対峙する二人の男。最初は余裕たっぷりだった馬場が、話し合いの終盤、激昂して大きな手でテーブルを叩くと、3つのグラスが吹っ飛んで麦茶が飛び散った――。

馬場をそこまで怒らせたものはなんだったのか。
それが、本書の主人公であり、“日本最強の柔道家”木村政彦の存在だった。

「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」

戦前から戦後にかけて活躍した木村は、15年間負けたことがなかった。その強さは、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言われるほどだった。

戦前は全日本選手権(現在の全日本選手権に相当)を3連覇し、天覧試合でも優勝。
戦後、昭和24年に開かれた第二回全日本選手権にも、圧倒的な強さで優勝している。しかも試合までの数日間はほとんど練習せず、前夜は友人と日本酒を三、四升空けたうえに徹夜だったという。

現役時代のエピソードもすさまじいのだが、戦後、木村がプロに転向するところから、話は一気に展開、おもしろくなる。

なにしろ木村政彦という人間がとにかく規格外だ。
恩師に頼まれてプロに転向したものの、ハワイで一儲けしたいと勝手に新団体を立ち上げたかと思えば、今度はブラジルへ。
愛妻家ではあったが、遠征先では毎晩違う女性を抱き、大酒を飲む。

柔道には真摯でも、生き方は享楽的で楽観主義。著者は「思想もなく生きている」と評しているが、読んでいるとその奔放さと明るさが愉快に感じられる。
なにしろ、めちゃくちゃな暮らしを送っているのに、勝負になるとめっぽう強い。

ブラジルでは現地のブラジリアン柔術の大スター、エリオ・グレイシーと対戦し、勝利。負けず嫌いとして知られたエリオは晩年、50年前の木村との対戦は屈辱と同時に誇りであり、木村を「特別に尊敬している」と語っていた。

なぜ木村政彦は負けたのか

物語は中盤、謎めいたタイトルの理由ともなった佳境へと進む。

プロに転向し、プロレスラーとなった木村が迎えた1954年の力道山戦。
結果だけを見れば、「鬼の木村」と謡われた木村は、力道山の攻撃を受けて血まみれでマットに横たわり無残に敗北する。

木村の顔面から流れる血は直径50cmほどの血溜まりを作り、リングサイドにも飛び散っていた。

この一戦を機に木村政彦の名は世間から忘れられ、力道山はスターの座を確固たるものとしていった。

試合の前にふたりの間でどのような話し合いが行われ、リングの上で何があったのか。著者は丁寧に映像を分析し、膨大な資料を読んだうえ、当事者の木村をはじめ、多くの関係者の証言を集めて「あの日」を解き明かしていく。

なぜ、最強の柔道家木村政彦は力道山に負けたのか。
“木村先生が負けるはずがないのに――”

700ページを貫くのは、著者が抱くこの問いと信念だ。
だからこそ、本書を書かずにはいられなかったのだろう。

ちなみに冒頭のジャイアント馬場のエピソードは、木村の愛弟子が木村の名前を復権させるため、全日本プロレスと入団契約を結ぼうとしたときのこと。プロレスの場を借りて師匠の敵を討とうとした彼らは、初戦の相手に猪木や馬場らビックネームを指定。馬場は激昂して交渉は決裂した。

力道山との戦いから20年たってなお、木村に魅了された弟子たちは、木村のためにと戦い続けていたのだ。

強く美しい柔道家

そして2021年。

武道館の畳の上で日の丸を背負って戦う選手たちを見ながら、「もし木村政彦がオリンピックに出ていたら」と勝手な想像をしていた。

本書でも、メダリストたちが木村の強さを口々に証言している。

「現役時代の練習で、50代半ばの木村に子供のようにボロボロにされた」
「打ち込みのスピードと迫力は、現役の五輪代表選手を上回っていた」
「尋常ではない練習量を、ひとりでこなしていた」

強い柔道は美しい。
じりじりと間合いを詰め、一瞬で相手を仕留める。
喜びの雄たけびをあげるわけではなく、敗者を称えることを忘れない。

誰よりも強い柔道家を目指した木村政彦は、史上最強と謳われながら、たったひとつの敗戦をきっかけに表舞台から姿を消した。それも、納得できない敗戦によって。
木村は終生力道山を恨み、老いてなお、自分の体を鍛え続けていたという。

全盛期は、どれほど強く美しかったのだろう。
21世紀のオリンピックに、畳の上で戦う木村の姿を重ねた。

「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」

増田 俊也(著)
発行:新潮社
文庫判:(上)576ページ、(下)624ページ
価格:(上)869円、(下)924円(いずれも税込み)
発売日:2014年2月28日
ISBN:(上)978-4-10-127811-7、(下) ISBN978-4-10-127812-4

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