【新刊紹介】社会がもっと優しくなれば、この仕事は必要なくなる:稲岡勲著『ゆっくり、いっしょに  精神科訪問看護師、15のストーリー』

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看護師と聞くと、病院で血圧を測ったり注射や点滴を打ったりする姿を思い浮かべる。ところが、「精神科訪問看護師」の仕事は大きく異なる。さまざまな精神疾患を抱える患者が生きがいを持って社会生活を送れるよう、自宅を訪問して支援するのだ。本書では、印象深い患者との15のストーリーを通して、地域医療・在宅医療の最前線に立つ精神科訪問看護の世界を紹介するとともに、看護師と患者のふれあいの中で双方が成長していく光景が描かれている。

筆者の稲岡さんは秋田県の高校を卒業後、地元の看護短期大学に入学。深い考えもないまま地元の精神科病院に就職した。「新卒で精神科希望は珍しいね」と言われたが、その意味も分からないまま1年間勤務。そして「一度は大都会の東京で暮らしてみたい」と都内の精神科病院に移る。

そこで体験した仕事の多くは、患者が決められたルールやスケジュールに従って動いてくれるように管理すること。だが、ある出来事をきっかけに稲岡さんは、それではいけないと気づく。

精神科の医師と看護師でチームを組み、病院に来なくなった患者の様子を見に行ったときのこと。彼らの姿を見ると患者は興奮して大声を出し、包丁を振り回した。警察官も駆けつけてアパートの住民など多くの人が見守る中、ある医師がたった一人で患者の部屋に上がり込むと、まるで魔法でも使ったかのように、その患者の興奮を収めたのだ。

現場に居合わせた稲岡さんは衝撃を受けた。「もし同じような場面に出くわしたとき、自分には同じことはできない」。どうしてできないのか――それは自分が患者との間に信頼関係を育む努力をしてこなかったからだ、という結論に至る。

看護するということは、患者を管理の対象として見るのではなく、患者一人一人の気持ちやその背後にある人生に思いを巡らせること。看護する側にそういう姿勢があって初めて、何かあったときにこちらの話にも耳を傾けてもらえる。こうした看護を実現するにはどうすればいいのか。考えた末にたどり着いたのが精神科に特化した訪問看護ステーションを立ち上げることだった。

本書は、2012年のステーション開所から9年間にわたる看護師たちの汗と涙の奮闘記である。彼ら、彼女らの仕事は多岐にわたる。ただそばにいて話を聞くだけのこともあれば、家族との調整役になることもある。時には通院に付き添い、服薬のフォロー、入浴のサポート、整理整頓や身だしなみの介助といった生活支援も行う。

出会う患者は十人十色。天涯孤独な人もいれば、高齢の親を看病しながら自らの病気に向き合う人もいる。だが、この「みんな違う」という当たり前のことを、当たり前のように理解するまでには時間がかかる。ある看護師は、「最初こそ患者と看護師という立場でしゃべっていたのが、次第に素の自分で患者と関わっていることを意識するようになる。そうなると患者も素の自分で接してくれるようになる」と話す。こうした「気づき」は、病棟で働いていた時にはなかったことで、精神科訪問看護という仕事の醍醐味という。

本書を読み進めるうちに、訪問看護の仕事とは、まず患者の自宅をノックしてドアを開けてもらうことから始まり、それがいかに大変で大切なことであるかを知る。患者は看護師の不誠実さにとても敏感という。少しでも不誠実さを感じてしまうことがあると、たちまちドアは開かなくなるのだ。

稲岡さんは、こうした患者と訪問看護師の立場を「ホーム」「アウェイ」になぞらえて次のように説明している。

病院に入院しているときは病院の医師や看護婦はいわばホームで、患者はアウェイという立場です。退院して再び社会のなかで生活を始めると、患者がホームでわれわれはアウェイです。(中略)私が逆の立場だったら、週に一度ならず二度三度と他人が自分の家に来ることは耐えられないので、患者が「来てもいいですよ」という気持ちでわれわれを受け入れてくれるようにする努力が必要だと思います。患者にはわれわれ訪問看護スタッフを拒否する権利があるのです。

そして、自分はそのようなアウェイの立場をとても気に入り、誇りにさえ思っている、と語るのだ。

年間3万人が孤独死していると言われる現代の日本社会。あとがきの最後に綴られた一文が胸を打つ。

現在の私たちの暮らし自体は物に溢れ、便利で一見豊かになっています。しかし、人間そのものが豊かになっているかは疑問に感じます。私たちの社会がもっと人に興味をもち、他人に対して優しく思いやりのある社会であったならば、私たち精神科訪問看護師の仕事はなくなっていくでしょう。矛盾しているかもしれませんが、そのような社会を望みます。

『ゆっくり、いっしょに 精神科訪問看護師、15のストーリー』

発行:幻冬舎メディアコンサルティング
発行日:2021年9月22日
218ページ
価格:990円(税込み)
ISBN:978-4-344-93667-6

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