【書評】「戦争のリアル」あってこその平和主義:吉田裕編『戦争と軍隊の政治社会史』

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数カ月前に東京・九段の「戦傷病者史料館(しょうけい館)」を訪れた。狭い路地のビル内にひっそりとあり、入館者はほとんどいなかった。2フロアの展示室には、1964年頃まで各地で見られた白衣の傷痍(しょうい)軍人(戦傷病者)たちの苦難の歴史が凝縮され、モノや証言による圧倒的な「戦争のリアル」があった。戦争体験者が消えつつあるいま、戦争の実態に立脚する歴史学はますます重要だ。本書は、そうした問題提起をはらんだ若手研究者らの学術書である。

戦場体験と精神疾患の関連性

『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書、2017年)などで知られる歴史学者、吉田裕・一橋大学名誉教授にゼミ指導を受けた12人が、氏の定年退官を機に編んだ記念論文集。事実に基づいて軍隊や兵士の実相が、メディア、地域社会、文化、ジェンダーなどさまざまな視点から描かれている。

ここではテーマに沿った3部構成の中で、皇軍兵士の姿を実証的に論及した第1部「身体と記憶の兵士論」に着目する。なお、第2部は「軍隊・戦争をめぐる政治文化の諸相」、第3部は「天皇制の政治社会史」である。

戦傷病でも見落とされがちな精神疾患を調査している中村江里氏(広島大大学院准教授)は、「国府台陸軍病院における『公病』患者たち」と題して、「精神分裂病」と診断された兵士のうち、戦況激化をはさみ1939年、43年の両年に退院した約600人の記録から、病気や軍医による恩給認定の実態を探った。

その結果、当初は遺伝や性格など「素因」を重視する伝統的な診断が行われていたが、次第に戦場体験の影響という「誘因」を認めざるを得なくなり、恩給認定においても、公務性の程度や発症が戦場か否かなどに関する基準が揺れだしたことが判明した。無気力、性的倒錯、兵営脱走、自殺未遂など症状は多様で、発症は銃撃での負傷、爆撃の衝撃、また「支那兵がボーボー燃やされる」光景などトラウマとの関係は明らかであった。

傷痍軍人と認められなかった兵士たち

松田英里氏(早稲田大学本庄高等学院教諭)の「戦傷/戦病の差異に見る『傷痍軍人』」も興味深い。同じ傷痍軍人でも「戦場での負傷」が重視され、戦病よりも優遇される軍人恩給の制度設計、社会復帰後の就職や結婚での差別的扱いがあり、世間の見方も同じだった。

戦場で得た病なのに傷痍軍人と認められなかった兵士も多い。傷痍軍人の理想像は武勇伝などを伴う戦闘での負傷者であり、戦地で結核や赤痢にかかった兵士らは低く見られ、戦後もそれは続いた。

慰問者に「兵隊さん、どこ負傷しましたか」と聞かれ、ただ「腹をやられました」と答えた赤痢患者の無念、「戦傷者は勇者であり戦病者は弱者である、との雰囲気」との回想も紹介される。「衛生環境や給養を軽視し、兵士の体力を極限まで削り落とす日本の軍隊の特質を示すもの」と松田氏は指摘している。

「慰安婦問題のパラダイム転換」とは

戦場での兵士の一断面ながら、日本ではひときわ衝撃と影響が大きい慰安婦問題。平井和子氏(一橋大学ジェンダー社会科学研究センター客員研究員)は「日本兵たちの『慰安所』」で、「慰安婦問題のパラダイム転換」(1991年)以降、2007年までに出た元兵士らの回想録約700点を、それ以前に出た約560点と比較した。「パラダイム転換」とは、韓国人元慰安婦が公に名乗り出て日本政府に謝罪・補償を要求したことを指している。

平井氏は、軍隊・兵士と男性性、「男らしさ」と攻撃性、攻撃性と愉悦などの関係性を再確認しつつ、パラダイム転換が元兵士に慰安所体験を告白する契機として働き、加害者意識が兆し、問題として捉える姿勢が深まった、と見る。そして「元兵士たちの戦後長い年月をかけた「『壮大な学習過程』から得られた貴重な認識」であり、背景には1990年以降のフェミニズムの貢献もあった、と述べる。上官や同僚から慰安所通いや同性愛的行為を強いられた事例も少なからずあり、改めて軍隊自体がセクハラ、パワハラの場であるという現実も描かれる。

戦争体験の継承をしっかりと

日本では戦後、必ずしも戦争や軍隊が正当な研究対象として扱われ、その歴史に批判的検討が加えられてきたわけではない。戦争体験者はいまや国民の数パーセントになり、平和教育も定式化しつつある。若年世代は戦争や軍隊に映画やアニメ、ゲームなどを通じてなじみ、軍隊手帳やバッジ、寄せ書きの日の丸などはネットで売買され、無邪気に戦闘服でサバイバルゲームに興じる姿も見られる。

本書の終章で編者の吉田氏は「戦後歴史学と軍事史研究」と題して、日本における戦争史、軍事史の研究の歩みと実情をまとめた。それによると、戦後、戦争・軍事史研究は特殊な領域とみなされ、大学などで扱うこと自体が忌避され、研究者にも懐疑的・批判的な視線が向けられたこともあり、長らく現・防衛省防衛研究所を中心に旧陸海軍関係者、いわば“身内”による研究が中心を占めていた。

吉田氏は、戦後日本の平和主義の基礎が、軍隊・軍事組織への不信感、戦死・戦没者への痛みと負い目、二度と戦争に巻き込まれたくない、という国民的実感だったと指摘した上で、「体験と実感に根差した平和主義である以上、戦争体験の継承がしっかりとなされないならば、時の経過に伴って平和意識に陰りが生じることはある意味で当然」である、と改めて軍事史研究の意義を強調している。

『戦争と軍隊の政治社会史』

吉田裕(編)
発行:大月書店
発行日:2021年7月22日
価格:4950円(税込み)
A5判:384ページ
ISBN: 978-4-272-52117-3

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