【新刊紹介】50年前の大学内リンチ殺人事件:樋田毅著『彼は早稲田で死んだ 』

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50年前の早稲田は「大学の自治」の名に値しない、極左セクトの暴力に支配されていた。学生が学内で虐殺された事件をきっかけに、一般学生が暴力追放に立ち上がるが、やがて挫折した。その運動の中心にいた著者が、半世紀を経て、当時のセクト幹部と対談し、なぜ彼らは暴力を振るっていたのか、その真意に迫る。

挫折した反暴力運動

連合赤軍による浅間山荘事件から9カ月後の1972年11月8日の夜。早稲田大学文学部構内の自治会室で、第一文学部2年生の川口大三郎さんが、「革マル派」の学生たちによる凄惨なリンチにより殺され、遺体は東大病院の前に遺棄された。川口さんが対立派のシンパと決めつけられたための虐殺事件だった。一般学生らによる革マル派糾弾の運動が始まり、それまでの革マル派による暴力支配を黙認してきた文学部当局の責任も追及された。

当時、大学1年だった著者の樋田さんは新自治会臨時執行部の委員長(その後、正式に委員長)となり、自由獲得の闘いの先頭に立ったが、革マル派の勢力が復活。暴力に対抗するためには、こちらも武装をという「内ゲバ」(暴力抗争)の世界に巻き込まれそうになっていく。再び暴力事件が頻発して、ついに樋田さんが10人前後の革マル派に鉄パイプで襲撃され、救急車で病院に搬送された。1カ月は自力で歩けないほどの重傷だった。

文学部では反革マル派運動に参加した学生約100人が、暴力を恐れてキャンパスに入れない異常事態が続いていた。事件から1年数カ月続いた闘いの末、樋田さんは闘いを終える決断をする。川口さんの無念を晴らすことができず、一緒に闘ってきた仲間を裏切る形になったが、もうこれ以上、仲間たちを理不尽な暴力にさらすことはできないと判断したのだった。こうして運動は挫折し、長い歳月が流れた。

暴力を振るった側との対談

新聞記者となり、2017年に65歳で退社した樋田さんは、この事件を後世に伝え残すため、動き出す。事件当時の革マル派幹部である第一文学部自治会委員長や、虐殺実行犯らを捜した。警察の事件取調べ中に自己批判書を書いた元委員長は、樋田さんが実家を訪ねた前年(2019年)に亡くなっていた。妻によると、夫はまれにつぶやいていた。

「集団狂気に満ちていた」

「彼らは、川口君を少したたいたら死んでしまったと言った。だけど、そんなことはあり得ない」

「すべては私に責任がある」

最後まで、妻に早稲田での出来事を語ることはなく、心を開くことはなかったという。

事件の全容を供述し、懲役5年の実刑判決を受けて服役した元第一文学部自治会書記長には2度会ったが、インタビュー内容は活字にしないでほしいという手紙が届いた。「ご遺族や関係者の気持ちを思うと、加害者である自分の発言を表に出すべきでない」という趣旨だった。

樋田さんは「革マル派による暴力支配を象徴する人物」と思っていた、元第一文学部自治会副委員長の消息を知り、取材を申し込む。元副委員長は半世紀を経て、革マル派の論理とは対極の世界観を持つ大学教授(現在は名誉教授)となっていた。本書の最終章に、4時間の対談が40ページにわたって記されている。元副委員長はこう語った。

あの頃、僕が暴力を振るっていたのは、ある種の恐怖に駆られていたからなのかもしれません。あらゆるところにスパイや警察が潜んでいる、周りはすべて敵だとすら思っていましたから。

暴力というのは本当に、非常に醜いものです。人間の弱さがあれほどはっきりと現れる場面はありません。(中略)学生運動でも、暴力的な修羅場をくぐってきた人たちの中には、何らかのトラウマに苦しむ人が多いと思います。やった側もやられた側も。

樋田さんはこれを聞いて、「(元副委員長が)そういう受け止め方をされていることがわかり、僕は少しほっとしました」と答えている。かつて、川口君を虐殺した革マル派に対し、説得はできなくとも、いつか心を通わせ、互いを認め合う日が来ることを信じようと自分に言い聞かせてきた樋田さんは、この長い対談で「その願いが半世紀を経てやっと叶ったように感じた」と述べている。非暴力に徹してきた彼らしい境地である。

大学はもちろん、あらゆるところで暴力支配が許されることはあってはならない、と筆者は考える。大学3年の時に同じ学内でこの事件、その後の内ゲバ、乱闘、警察の機動隊導入を見つめていたが、改めて本書で真相を詳細に知り、その思いを新たにした。

「彼は早稲田で死んだ」

発行:文藝春秋
発行日:2021年11月8日
四六判:264ページ
価格:1980円(税込み)
ISBN: 978-4-16-391445-9

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