【書評】隠蔽された「ワイルドライフ作戦」とは:ジョン・ル・カレ著『繊細な真実』

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スパイ小説の巨匠ジョン・ル・カレが逝去して、ちょうど1年が経つ。今回紹介するのは、著者が齢(よわい)80を超えて執筆した作品で、本国・英国では2013年に刊行された。物語は、英領ジブラルタルで発動されたテロリストの捕獲作戦に端を発している。舞台背景は、米英が邁進する「テロとの戦い」である。しかし、そこには表沙汰にはできない「繊細な真実」が隠されていた。

 会社組織のなかで、偶然、重大な不正を見つけてしまったとする。信頼する上司に報告するが、逆に、「それは勘違いだ」「忘れるように」と説き伏せられてしまう。そのとき、将来の出世を考えて、あなたは口を閉ざして隠蔽(いんぺい)に加担するだろうか。それとも、あくまで不正をただそうとして、キャリアを棒に振ることも顧みず、果敢に「繊細な真実」を追究しようとするだろうか。本作は、そんな究極の選択を迫られた男たちの物語である。

 本作には、ふたりの主要人物が登場する。
 そのうちのひとりは、「五十代も終わりの優雅で敏しょうな身ごなしの男」「いかにもイギリス人という面立ちは感じがよく、高潔そのもの」という人物。人事記録には「二十年間“海外を渡り歩き、分別の塊であり、容易なことでは動揺しない”」とある。
 それが英国外務省に長年勤務する中堅クラスの国家公務員ポール・アンダースンである。病弱だが意志の強い妻と、独身で勤務医のひとり娘がいる。

 彼は平凡な部署に勤務し、エリート街道からは外れていたが、ある日、労働党の下院議員でやり手の外務閣外大臣ファーガス・クインに呼び出され、「きわめて繊細な最高機密の任務を負う」ことになる。
 そこからポールの人生は大きく変わっていく。なぜ彼が選ばれたのか。それが物語のカギになる。そして、その任務を果たしたことで、彼の晩年は名誉に満ちたものになるのだが、そこに大きな落とし穴があったのだ。

ワイルドライフ作戦

 では、「繊細な最高機密の任務」とはいかなるものだったのか。それは「ワイルドライフ作戦」と名付けられていた。
 物語は、閣外大臣のクインにポールが呼び出されるところから幕開けとなり、彼は英領直轄植民地のジブラルタルに単騎派遣される。
 統計学者の身分に偽装したポールは、ジブラルタルで数名の元英国特殊部隊員と合流する。ジェブと名乗る「猫背で小柄」な男がリーダー格で、数々の戦闘で実績を上げた経歴の持ち主だった。
 ちなみに、英領ジブラルタルはイベリア半島の南端にあり、ジブラルタル海峡を望む海上交通の要衝である。その地の利から、18世紀初頭に英国がスペインから奪い取ったもので、現在も英国海軍の部隊が駐留している。

 作戦の概要はこうだ。情報によれば、この地で悪名高いレバノン国籍の武器商人と「ジハード戦士」のテロリストとの間で、大掛かりな武器売買の交渉が行われる。取引されるブツは、携帯式地対空ミサイルシステム、最新鋭の対戦車ミサイル、ロケット推進擲(てき)弾、アサルトライフルなどなど。

 ワイルドライフは米英共同の作戦だった。英国の元特殊部隊員らは陸路から接近して取引現場となるアジトを急襲する。沖合には米側の襲撃チームを乗せた貨物船が停泊しており、彼らは海上からボートで標的を目指す。首尾よく捕獲したテロリストは、沖合の船で連れ去ることになる。ポールの役割は、英国側の代表として、その作戦を見届けることにあった。

いわくありげな「民間防衛企業」

 しかし、この作戦にはいささか腑に落ちないところがあった。
 なぜか作戦を主導しているのは公の政府機関ではなく、いわくありげな「民間防衛企業」である。この会社は元特殊部隊員ら戦闘員を抱え、傭兵として派遣している。親会社は多国籍企業であり、創設者はジェイ・クリスピンという名の人物だった。

 ロビイストのクリスピンは、この物語の重要人物である。黒幕として数々の陰謀めいた取引でその関与をうわさされているが、英国の政府要人や有力議員と太いパイプをもち、外務閣外大臣ファーガス・クインともじっこんの間柄である。

 なぜ、「民間防衛企業」がテロリストの捕獲作戦を請け負っているのか。それが、物語後半で解き明かされていく最大の謎である。当初、ポールも疑問に思っていたが、閣外大臣からは「公職守秘法」によって作戦の一切を口外しないよう厳命される。家族にも話してはならない。律義な国家公務員のポールは、ただその命令に従うだけだ。

 「ワイルドライフ作戦」は決行された。しかし、英国チームのジェブは、米国チームの作戦遂行が気に入らなかった。彼らは民間防衛企業が雇った傭兵たちである。はたして緊迫したアジト急襲の現場で混乱が起こる。作戦の成否はどうであったか。それが序盤の大きなヤマ場である。
 離れた場所で待機していたポールは、その場でなにが起こったか目撃していない。帰国後、作戦は成功したと知らされただけだった。

将来を嘱望された若きエリート外交官

 もうひとりの主要な登場人物は、将来を嘱望された31歳の若きエリート外交官トビー・ベル。「同僚や雇用主の見立て通りに礼儀正しく、勤勉で、身なりにこだわらず、強迫症かというほど野心的で、知性を感じさせる男」として描かれる。彼は同棲相手に逃げられて、いまだに独身。

 トビーの経歴を振り返れば、彼は初めての海外駐在で、二等書記官としてベルリンに赴任した。イラク戦争が勃発する直前のことで、彼は諜報活動も担当する。このときの直属の上司が、50代半ばのやり手の外交官ジャイルズ・オークリー。彼が、こののちトビーの出世の後ろ盾となる。

 ジャイルズの口添えで、トビーはマドリッド、さらにはカイロなど英国の有力な大使館勤務を経験する。そこで対テロ諜報戦に従事する。
 トビーには理想があった。「ポスト帝国主義、ポスト冷戦の世界で母国が真のアイデンティティを確立することに力を貸したかった」、それが外交官の道を選んだ志望動機だった。だが、理想を実現するためには高い地位に就かなければならない。

 このあたりの記述は興味深いものだ。トビーには葛藤があり、著者は自身の考えを彼に託しているように思える。少しだけ引用したい。
 彼のマドリッドでの諜報活動は、本国に貴重な情報をもたらした。しかし、

主題はもはやサダム・フセインと、どこにあるのかわからない大量破壊兵器ではなく、新時代のジハード戦士たちだ。それまでわりに宗教色の薄かった中東の一国に、西欧が攻撃を仕掛けたことから彼らが生まれた――加害者が受け入れるには苦すぎる真実である。

 そしてこうも思う。

ホワイトホール(筆者注・英国政府中枢)の密閉された地下室で・・・テロリスト容疑の捕虜の扱いに関する新しいルールが慎重に策定される・・・それでも彼は疑う。この“新しい”ルールとやらはじつのところ、埃を払われて復権した古い野蛮なルールなのではないか・・・人の体に電極を取りつける人間と、机のうしろに坐って、そういうことが起きているのを重々知りながら知らないふりをしている人間との道徳的なちがいは、もしあるとして、何だろう。

 だが、トビーは「己の良心や育ちと矛盾しないように、気高い努力でこうした疑問を抑えこみながら」組織の論理に従うことにする。彼は、「人生では妥協を学ばなければならないと自分に厳しく言い聞かせる」のであった。

「きみの勘違いだよ」

 そして、トビーはロンドンに呼び戻されて、新任の外務閣外大臣ファーガス・クインの秘書官に抜てきされるのだ。
 ところが、前途洋々かと思えたものの、クインのそばに仕えていると、この大臣には不審な行動が多いことに気がついた。彼は、はたして国家のために尽くしているのか、それとも私腹を肥やしているだけなのか、日増しに疑いが募ってくる。

 あるとき、クインはトビーを味方に引き入れようと、彼と、いわくつきのクリスピンを引き合わせる。「ワイルドライフ作戦」を主導した黒幕ロビイストである。トビーの目に映ったクリスピンは怪しげだった。

細身、整った顔立ち、いかにも深みのなさそうな好人物。要するに、ひと目で化けの皮がはがれそうな男だ。とすれば、なぜクインはこの男の正体を見破れない?

 トビーは、クインの不正の証拠を握ろうとする。どうやって?
 クインが正体不明の男たちをこっそり執務室に呼び寄せた日、トビーは、前もって机の引き出しのなかに録音機をしのばせておいた。
 録音されている内容を聞いてみると、クインのほかに3人の男がいた。ひとりはトビーの記憶にもある南アフリカの元特殊部隊員。ほかはポール・アンダースンとジェブと名乗る見知らぬ男。そこでかわされた謀議に、トビーは打ちのめされる。これは不法行為ではないのか。

 トビーは、上司のジャイルズ・オークリーに相談しようとする。だが、彼は「きみの勘違いだよ」と取り合わないどころか、「その情報がきみを滅ぼすまえに、すっかり破棄してしまうことだ」と冷ややかに言い放つのであった。
 トビーは5日後にベイルートへ異動となった。

 ここまでが本作のお膳立て部分である。

北コーンウェルの「領主館」

 もう少し、物語を進めてみよう。
 ポール・アンダースンはどうなったか。

 実は、ポールという名は、ワイルドライフ作戦の際に付けられた偽名である。作戦後、彼はカリブ海のイギリス領の島国で高等弁務官を務め、外務省を退職。在職中の功績により爵位をもらっていた。

 いまでは、ポールこと本名クリストファー・キット・プロビンは、北コーンウェルの「領主館」で、妻と娘の家族とともに悠々自適の引退生活を送っている。
 ちなみに、コーンウェルはル・カレが長年暮らしていた土地である。このあたりの描写は、作家の生活の一端をのぞきこむようで面白い。

 さて、クリストファー・キット・プロビン卿は、地元の名士である。復活祭のあとで開かれる村の祭りでは、今年、彼が主催者に選ばれた。
 祭りの喧噪(けんそう)のさなか、キットはある人物に目をとめる。いかにも落ちぶれ果てた風情の「背を丸めた小柄な男」だった。その人物は、あることを示唆して姿を消してしまう。

 ここから、彼は自分の過去と向き合わざるをえなくなる。キットにとっては初耳だったが、あの作戦で、無実の女性と子供が殺されたのか?
 守秘義務のため、作戦のことを妻にも話していなかったが、彼女は知りたがる。「そのためにわたしたちがカリブ海を手に入れたのだとすれば、わたしたちはそのことに向き合わなければならない。嘘とともに生きていけないわ」

 かくして、キットは当時を知る関係者を訪ね歩くことになる。彼自身、全貌を知っていたわけではない。ワイルドライフ作戦とは、背後にどういう陰謀が隠されていたのか。その真相究明が本作の白眉である。

 ついに、キットは当時、閣外大臣の秘書官だったトビー・ベルと出会うことになる。ふたりはどういう行動に出たか。トビーは、隠蔽に加担することをよしとしなかった。
 ここから先、物語の進行は一気に加速していく。彼らは政府機関を敵に回して「繊細な真実」を解明し、告発しようとするが、「公職守秘法」違反で逮捕の危機が迫る。官僚組織が都合の悪い事実を隠そうとするのは、洋の東西を問わず。彼らの試みは、陽の目を見るのだろうか。

書評『繊細な真実』

『繊細な真実』

ジョン・ル・カレ(著)、加賀山卓朗(訳)
発行:早川書房
発行日:2016年9月21日
ハヤカワ文庫: 355ページ
価格:1166円(税込み)
ISBN:978-4-15-041393-4

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